自らの足で戻ってくるものー読書感想# 17「猫を棄てる」

村上春樹さん「猫を棄てる」は非常に短い。でも、読後に残るものは重たい。村上さんと、長年溝があった父親のこと。本作を書くことは気が進まなかったのではないかと思う。でも書かずにはいられなかったのかもしれないと思う。それはちょうど、モチーフに挙げられている「棄てられたはずの猫」に似ている。人がその身に宿さざるを得ない「歴史」は、自らの足で戻ってくる。


猫とは「和解」である

本書は父親について村上さんが語った本。書き始めるにあたり、ある思い出を取り出す。それがタイトルにもなっている、子どものころ、父親と海辺に猫を棄てにいったという話。このエピソードがとっかかりであり、核心でもある。

村上さんとお父さんは猫を棄てることになった。なぜかは覚えていない。とにかく、その猫を海辺に置き去りにして、別れを告げた。ところが家に帰ると、その猫が先回りして「にゃあ」と声を上げ、2人を出迎えた。その際のお父さんの表情の描写が、重要な意味を持っているように思う。

 そのとき父の呆然とした顔をまだよく覚えている。でもその呆然とした顔は、やがて感心した表情に変わり、そして最後にはいくらかほっとしたような顔になった。そして結局それからもその猫を飼い続けることになった。そこまでしてうちに帰ってきたんだから、まあ飼わざるを得ないだろう、という諦めの心境で。(p14-15)

お父さんは呆然とし、でも感心し、最後にはほっとした。これは猫がお父さんにとって「大切なもの」であることを示している。村上さんも自分は猫が大好きだったし、今となってはなぜ、棄てることに異議を唱えなかったか不思議だと振り返る。おそらくお父さんにとっても、同様なんじゃないかと思う。

この猫は何を象徴しているのか?村上さんの記憶に焼きついたお父さんの表情をヒントとすれば、猫は「和解」なんじゃないかと思えてくる。

本作で、村上さんはお父さんと長い間「絶縁状態」にあったと述懐する。そしてお父さんが亡くなる直前「和解のようなこと」が起きたと。この辺りは本書の後半で書かれているし、あまり触れないようにする。猫を棄てに行った思い出の「意味」についても、直接的に言及されている。

この和解が、猫の思い出が蘇ることと無縁ではない気がしている。村上さんたちは、猫の大切さを思い直し、拾いに行ったわけではない。猫が自らの足で目の前に現れた。

第一印象としてそれは、驚きでしかない。しかし、驚きは拒絶の方向には働かない。来てくれたことへの感心が湧き、やがて安堵に変わる。そして猫を大切に思っていたことを思い返す。そして再び、猫との日々が始まる。

村上さんは、最初からお父さんを大事にできているわけではなかった。お父さんにしてもそうだったはずです。省みることもなかったからこそ、絶縁状態になっていた。しかし、和解はやってきてくれた。向こうから来てくれた。


猫とは「歴史」である

あるいは、猫とは「歴史」であるとも言える。

村上さんは本書のテーマは「歴史」であると断言している。さらに踏み込めば、それは「戦争を起こした日本の歴史」。「ねじまき鳥クロニクル」や「騎士団長殺し」で作品に通底すると感じられた歴史への眼差しが、ここではかなりストレートに語られている。これもまた、引用は避けたい。非常に印象深い文章が登場する。

歴史を猫と重ね合わせると、もう少し暗い意味で受け取ることになる。いくら歴史を棄てようとも、それは戻ってくる。「逃れられない」と言い換えてもいい。

足がすくみそうになる読者に、本書は前進のヒントを示す。

村上さんのお父さんは戦前の生まれで、徴兵経験もあった。その記録を、お父さんの死後、つまり和解の後に村上さんは紐解いていく。それは和解したお父さんの加害経験を詳らかにすること。傷口を再び開くような道に分け入っていく。

ここで印象的なのは、村上さんは「記憶」と「記録」の両方を大切に扱っていること。たとえば、お父さんは1938年8月、20日のときに徴兵される。配属されたのは「第十六師団(伏見師団)に所属する歩兵第二十連隊(福知山)だった」・・・と思っていた。

 ……という風に僕はずっと理解していたのだが、調べてみると、実際には事情が違っていたようだ。父が所属したのは歩兵第二十連隊ではなく、同じ第十六師団に属する輜重兵第十六連隊だった。そしてこの連隊は福知山ではなく、京都市内の深草・伏見に駐屯する司令部に属している。それなのにどうして、父が所属したのは福知山の歩兵第二十連隊であると僕が思い込んでいたのか、その理由については後述する。(p38)

そう、これは村上さんの「記憶違い」だった。

村上さんはなぜ「記録」だけを書かなかったのだろう?間違っていた「記憶」も書いたのだろう。この併記は、ここだけではなく後にも出てくる。つまり、村上さんは意図的に記録と記憶を並列している。

それは、歴史は記録だけではなく記憶も伴うということではないか。正しい記録を選抜することが歴史ではない。記憶、ときに間違った記憶も、その記憶を通じて過去につながった経験を、受け入れることが大切なのではないか。

自分の足で戻ってくる歴史という猫は、厳然たる記録をくわえてくる。だから歴史に向き合うことは、記憶を記憶違いだと言われることでもある。しかし、だからといって記憶を否定する必要まではない。そういうことなんじゃないかと感じました。

猫は和解かもしれないし、歴史かもしれない。あるいは他の何かかもしれない。いずれにせよ、それは自らの足で戻ってきた後、再び私たちと「日々」を送る。その日々の中でまた何度も、抱きしめることが可能である。本書の読後感は、村上さんが猫と戯れた縁側のように、穏やかで優しい。(文藝春秋、2020年4月25日初版)


次におすすめの本は

柴崎友香さん「公園に行かないか?火曜日に」(新潮社)です。「猫を棄てる」はエッセイでありつつ村上作品と無縁ではないように、「エッセイのような連作小説集」です。柴崎さんがアイオア大学のインターナショナルライティングプログラムに参加した経験が基になっている。現実と物語の境目が曖昧になって、そこから余韻が匂い立つような作品です。


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