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あなたさえいればー読書感想#16「我々の恋愛」

いとうせいこうさん「我々の恋愛」は、心に滲み入る恋愛小説でした。「恋愛学者」なる人たちでつくる国際会議が、ある男女の物語をレポートするという形式で物語は進む。学者によっては視点も違うし、一人称か三人称か、文体も違う。そうやってある恋愛を「我々の恋愛」にしていくんだけれども、本当に大切なものは結局「二人だけ」のものにしかなり得ない。あなたさえいれば、それでいい。そんな恋愛の結晶が浮かび上がってきました。


いきなり紀元前

2つの物語が交錯して進みます。一つは「BLIND」と題されたレポート。これは恋愛学者の国際会議が、「20世紀最高の恋愛」と認定したある恋話を複数の学者がリレー形式でまとめた文書。そして、その会議のメンバーが、認定セッションのために訪れた日本で偶然、若かりし頃に出会った日本人女性と再会し、手紙とメールのやりとりをする物語、というのが2つ目。2本のレールがそれぞれ、ちょっとずつ進んでいく。

レポートの主人公になるのは、東京の大型遊園地「あらはばきランド」のアトラクション「レイン・レイン」を担当する華島徹、23歳。そして、群馬県桐生市でパン職人になった遠野美和、20歳。美和がパン酵母について訪ねようとしたところ、間違い電話で徹の家に掛けてしまったことから、物語が動き出す。ちなみに時代は1994年。固定電話が当たり前で、携帯電話もパソコンもない時代。

面白いのは、レポート執筆者の恋愛学者によって、まったく語りの毛色が異なること。淡々と事実を並べるものがいれば、徹の本人目線で一人称の文章を紡ぐものがいる。あげく、こんな書き出しをする者もいる。

添付資料『カイコについて』(ヘレン・フェレイラ/アメリカ)
 少なく見積もって紀元前二五〇〇年。
 今から四千五百年も前のことである。
 インダス文明がモヘンジョダロという都市を築くに至り、古代エジプト第四王朝がクフ王のための大ピラミッドを建造していたその頃、(中略、p251)

たしかに物語に蚕は出てくるのだけど、それにしても紀元前!でも、ヘレンは自分なりにこの恋を描くため、学術研究として残すために必死である。そこにおかしみがある。このあたり、いとうせいこうさんらしい遊び心だなと思う。


僕の気持ち、学者の気持ち

学者が二人の恋を語ることで、「他人とは共有できないもの」が浮かび上がる。これがまた面白いし、恋ってそうだよねと思わされる。

序盤、あらはばきランドの女性スタッフ藻下さんが波乱を起こすシーンがある。藻下さんは何につけ「なんで?」と質問するので、「なんでちゃん」と言われている。この波乱を解消するのに、徹は「封筒」と渾名される同僚の力を借りた。でも、学者にはこのことが伝わっていない。

 しかし、調査員の人たちの間では、この時期の変化を「なんでちゃん効果」によるものとしているそうだ。「封筒」の働きはまるで評価されていない(少なくともルイ・カエターノ・シウバさんだけはそれを残念がってくれた)。僕の気持ちとしては「なんでちゃん効果」の存在を認めたくないけれど、言われてみれば確かに藻下さんが強引に事態を引っかき回す度に色々なことが進んだ気もする。(p179)

もしもレポートだけしか残らなければ、封筒への感謝はなかったことにされる。我々の恋愛にされたところで、本当の実感、本当の喜びと痛みは、記録になんて残せしない。一方で、学者の言うことも一理あると認めざるを得ない。「恋は盲目」なのも事実。そんなちょっと恥ずかしくて、でも胸を張りたい気持ちが、レポート形式という方法で浮かび上がってくる。


たった一人につながれるだけで

レポートという語りの方法だけでなく、いとうせいこうさんは随所に恋愛の素晴らしさを描いてくれる。ピリリとしたスパイスになっているのが、主人公たちが使う電話やメールという「時代遅れのテクノロジー」です。

美和が間違い電話をしたことで、徹は出会った。でも、徹は番号を控えなかった。だから徹からは掛け直せない。この不自由さの中で、こんな実感を持つ。

 彼は無言で小さなソファの上に座り続けた。電話の内容を幾度も反復し、彼女の「あ」という声を思い出してみた。たった一人につながれないというだけで、あらゆる連絡網から断絶されている気がした。世界の中で遭難しているような感覚があった。(p68-69)

たった一人につながれないだけで、世界の中で遭難しているような気持ちになる。これは、「誰ともつながれる時代」にはなかな見出せない感覚ではないか。一方で、それほど重みを持つつながりこそ、愛の一つの形態ではないか。

裏返せば、徹は美和さえいてくれれば、とても心強く思える。あなたさえいてくれれば、歩くべき道を見出し、世界とつながっていける。それが愛の力なんじゃないかと思います。

ここまで、物語の一方だけしか触れず、日本人女性と恋愛学者の書簡については触れませんでした。それは、そちらの方が脆く、筋を詳にすれば壊れてしまいそうな物語だから。そしてここでもやはり、「あなたさえいてくれれば」という気持ちが強く強く滲みます。ぜひ本書を開いて、味わってほしい温かさです。(講談社文庫、2019年11月14日初版)


次におすすめする本は

宮本輝さんの「錦繍」(新潮文庫)です。この物語も往復書簡という形式で進みます。別れた男女が、偶然の再会を機に筆を執り、あの時は語れなかった思いを紡ぎ出す。いつかは言えず、ここでしか書けない言葉が、静かに積み上がっていく珠玉の恋愛小説です。


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