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民主主義を破壊する無知礼賛ー読書感想#19「専門知は、もういらないのか」

「専門知は、もういらないのか 無知礼賛と民主主義」は学ぶことだらけでした。本書で登場する「歪んだ反知性主義を持った市民」は自分のことではないか、と嫌になる。著者のトム・ニコルズさん自身、ロシア政治や軍事分野の専門家。だけど本書は、軽んじられた専門家の皮肉や、エリート主義の垂れ流しでは断じてない。主張は「専門知を嘲笑う『全ての意見は平等だ』主義は民主主義を破壊する」という本質的なものでした。


分業で成り立っている社会

専門知を軽んじるべきではない、という主張に耳を傾ける前に知っておきたいことがある。それが「民主社会は分業で成り立っている」ということ。ニコルズさんは冒頭で明快に指摘する。

(中略)我々が住む社会は分業、つまり全員が何もかも知らなくても問題ない仕組みで動いているのだから。パイロットは飛行機を飛ばし、弁護士は訴訟を起こし、医師は薬を処分する。我々の誰も、朝にモナ・リザを描いて夜にはヘリコプターの設計をしたダ・ヴィンチではない。それでいいのだ。(p1-2)

分業で成り立つ社会とは、全員が何もかも知らなくても問題ない仕組みである。これだけ読むと、分業とは無知を許容しているように見える。でも慎重にならなければならない。分業が認めているのは無知=「あらゆることを知っていなくても良い」であって、無知礼賛=「無知は最高。専門家は偉くない」ではない。この直後に、ニコルズさんもそう釘を刺す。

 問題なのは、わたしたちがものを知らないのを誇らしく思っていることだ。アメリカ人は、無知であること、とりわけ公共政策に関する無知を、まさに美徳だと考えるところまで来ている。専門家の助言を拒否することが自己主張になり、そうすることで、おのれの間違いについて指摘を受けることを避け、ますます脆弱化する自我を守ろうとしている。(p2)

無知を美徳とする時、その個人は脆弱になっている。この主張は目を瞠るものだと思う。専門家の助言を拒否すると、自分が何を言ったわけでもないのに「自己主張」になる。「エリート面して偉そうに」と唾棄することで、自分の間違いから目を逸らし、煙に巻くことができる。

分業にはリスペクトが必要だ。飛行機の原理は知らなくても、専門家のパイロットが適切に操縦していることへの信頼があるからこそ、安心して飛行機に乗れる。自分が無知だからこそ専門家へ敬意を示すことが分業である。そして「他者への信頼」はとりもなおさず民主主義の基盤でもある。

だから無知への否定は民主主義の否定につながる。無知を誇る「脆弱な個人」は、絶えず他者の知を引き摺り下ろし、相互不信が蔓延る。


ポピュリズムはエリート主義を強化する

無知を礼賛する個人が増えれば民主主義が自壊するというのは、皮肉な話でもあります。なぜなら「知識がなくてもいい」「専門家も素人も同じ人間だ」というのは、一見すると平等主義だからです。平等主義が民主主義を壊すということが、本当に言えるのか。

ニコルズさんはこの現象を「ポピュリズムはエリート主義を強化する」と言い表す。このフレーズは現実を見やすくする。

(中略)実際、ポピュリズムはこのエリート支配を強化している。無知の礼賛は、通信衛星を打ちあげたり、海外のアメリカ市民の権利を交渉したり、効果的な薬品を提供したりといった、今やどんなにぼんやりした市民でもあたりまえのように政府に求めることを実現できないからだ。ほとんどのものごとの仕組みをまったくわかっていない人々に対して、専門家もまた関与する気持ちを失い、一般の人々に話をするより、おもに専門家どうしで話すことを選ぶようになる。(p260)

無知を礼賛する社会の中では、専門家は「引きこもる」。一般市民と交流して罵声を浴びせられるならば、専門家同士でタコツボ化する方が安心だ。そうして対話が失われる。問題なのは、現代の政治・社会運営は専門家の力がなければ成り立たないことだ。対話が失われた社会では、専門家が自分たちだけで社会を動かしてしまう。ポピュリズムは結果として、エリート主義を強化する。

この構造を頭に置けば、平等主義が民主主義を破壊することが極論でないと分かる。ニコルズさんも明快に宣言する。

 そのとおりだった。一般の人々が憤慨して、専門知を含む成果のしるしすべてを「民主主義」と「公平」の名の下に横並びにして平等にするよう求めるなら、民主主義も公平もありえない。あらゆるものが意見の問題になり、あらゆる見解が平等の名の下にもっとも低俗なレベルに引きずり下ろされる。無知な人々が子供のワクチンを接種しないせいで百日咳が流行すればそれは寛容の証であり、偏狭な孤立主義者が地図で他の国を見つけられないせいで同盟が崩壊したら、それは平等主義の勝利となる。(p278)

専門知を含むすべてを民主主義と公平の名の下に横並びにするなら、民主主義も公平もあり得ない。専門知を攻撃する時、ようやく整えた社会の基盤を掘り崩している。無知礼賛の素人は自らの尻尾を噛むウロボロスである。


「違い」に目を向ける

ではどうすればいいのか?それを考えるために、ニコルズさんは「なぜ無知礼賛の社会が出来上がったのか」を丁寧に検証していく。教育、ネット、専門家の失敗。紙幅を割かれたこのパートは耳の痛くなる話ばかりだ。

ここでは、無知礼賛に陥らないための「振る舞い」を考えてみたいと思います。ニコルズさんはその語りの中で、随所に示している。例えば専門家の失敗を考える部分でこんな記述がある。

 こうしたことすべての根底には、専門家がある問題について間違えることと、専門家があらゆる問題について常に間違っていること、その違いを一般の人々が理解できていないという事実がある。実際のところ、専門家は間違っていることより正しいことのほうが多い。とくに本質的な事実についてはそうだ。だが人々は専門家の知識に穴がないかと探すことをやめない。見つかれば、自分の気に入らない専門家の助言をすべて無視できるからだ。(p34)

「違い」というのがキーワードだと感じました。違いに注目しないのが無知礼賛で、違いを踏まえるのが健全な批判精神である。

専門家は時に間違う。でもそれは「専門家は全て間違う」とは明確に「違う」。この違いを見ずに、思考を「極地化」しているのが無知礼賛です。だからこそ、専門家を攻撃する。全否定するために一つの間違いを探す。

対して、専門家は時に間違うが全て間違うわけではない、あるいは反対に、おおむね正しいが全て正しいわけではないと「留保」することが、批判精神というものです。「違い」を正確に理解しようと努めている。根底には「全肯定もしないが全否定もしない」という信頼が存在している。

そして専門家は「違い」の解像度が凄まじく高いとも言えます。ある事象の細かな差異や、変化の兆しを見抜く目を持っている。だからこそ、素人からすればリスペクトに値するし、その千里眼を借りさせてもらい、はじめて社会が成り立つ。

リスペクトすることは、もちろん無批判を意味しない。それもまた極地化です。何が違い、その違いはどう修正できるのか。慎重に、謙虚に考えていくことが、民主主義を支える市民に授けられた宿題なんだと感じました。(高里ひろさん訳、みすず書房、2019年7月10日初版)


次におすすめする本は

ジェリー・Z・ミュラーさん「測りすぎ」(みすず書房)です。テーマは「数値化」。あらゆるものを測りすぎた結果、その指標が誤った成果認識をもたらし、より大切な価値観が毀損される可能性を示しています。数値化もまた現代の病と言える現象で、問題を構造化できる本です。


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