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障害と共に生きる中で生まれる「年輪」ーミニ読書感想『記憶する体』(伊藤亜紗さん)

中途失明者や、若年性認知症患者、事故で身体の一部を失った幻肢痛経験者などにインタビューした伊藤亜紗さんの『記憶する体』(2019年9月30日初版発行、春秋社)が学びになりました。それぞれの方に、それぞれの「ローカル・ルール」がある。身体に特有なありようはなぜ生まれるのか、考えさせられる本でした。


二分脊椎症という生まれつきの障害で、右脚の感覚がない方の言葉が印象に残りました。その方は、その感覚をこんな風に語る。

 手が一番自分に近くて、次が左脚で、右脚はだいぶ遠い存在という感じですね。右脚さんには悪いですけれども(笑)

『記憶する体』p106

右脚さん、というまるで別存在のような感覚。「彼」に対して、遠慮があるような、だけれども切り捨てられないような感覚。著者は、この振る舞いをこう分析します。

 「建前」というと聞こえが悪いかもしれませんが、要するにそれは目先の利害関係をいったん離れるということです。かんばらさんの右脚は、確かにそなつどそのつど役にたってくれるような相手ではありません。けれども、うまくやっていくことが、結局自分の身の安全のためになる。だから気を使い続けることが必要です。

『記憶する体』p106

両脚が同じように動く身体を持つ人の感覚からすれば、動かない脚はどんな役に立つのかと思う。けれども、「それでも付き合っていく」という独特の距離感が、障害者にはあるのではないか。役に立たないから切り捨てる、とは違うありよう。

ままならない身体を生きる。それは、健常者にとっても無縁の姿勢ではないよな、と考え方を転換するきっかけになります。たとえば、ルックスや性格。身体が定型・健常であっても、ままならないことはたくさんある。

こうした数々のエピソードに触れた上で、最後の著者の言葉が沁みてくる。

 重要なのは、吃音を含め何らかの障害をもった人間である、ということではないのではないか。そうではなく、そのような障害を抱えた体とともに生き、無数の工夫をつみかさね、その体を少しでも自分にとって居心地のいいものにしようと格闘してきた、その長い時間の蓄積こそ、その人の体を、唯一無二の代えのきかない体にしているのではないか。

『記憶する体』p268

障害は、その人の全てではない。そうではなくて、障害と「共にある」という姿勢、その積み重ねの中で、「唯一無二の代えのきかない体」が立ち現れてくる。長年乗りこなしてきたマイカーや自転車のようなものかもしれない。

人を人たらしめるのは、そんな「年輪」なのではないか。誰もが、その人の年輪を重ねている。障害があってよかったとか、ない方がいいとか、そうではなくて、とにもかくにも障害と共に生きたその人の軌跡は、特別なありようを生む。

なんだかそれは、豊かな考え方だと感じたのです。

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