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日本にSFを根付かせた編集者ー読書感想#13「未踏の時代」

SFが取るに足らない空想だと馬鹿にされた時代に、それでも日本にSFを根付かせた編集者がいた。福島正実さん。本書「未踏の時代」は、福島さんが1976年に亡くなる直前まで取り組み、未完のまま終わった回顧録です。迸る情熱にエネルギーをもらう。そして福島さんが考えるSFの理想像は、今も色あせることなく、考えさせられるものでした。


現実しか見えなかった時代

福島さんは1957年、早川書房で「ハヤカワ・SF・シリーズ」を立ち上げ、59年には「SFマガジン」を創刊して初代編集長に就く。この時代、SFというのはジャンルとして確立されておらず、冷遇どころか見向きもされなった。福島さんの言葉には強い憤りがにじんでいる。

 その当時のジャーナリズム一般の空気は、SFに対して、全く否定的だった。SFを読み、あるいは語ることは、アブノーマルなものへの関心を自白するようなものだった。変わりもの扱いされることを覚悟しなければならなかったのだ。そんな体験からも、ぼくは、日本におけるSF出版の可能性に対して、かなりの程度の悲観的だった。現実にしか目を向けることができず、未来や空想は、絵空事としてひとしなみに軽蔑してかかるしか知らない人々が、あまりにも多すぎた。(p33)

この「現実にしか目を向けることができず未来や空想を軽蔑する」というフレーズが、当時の時代を示すキーになっています。

1957年、世界初の人工衛星、ロシアのスプートニク1号が打ち上げられる。そもそも冷戦期で、核戦争の脅威がヒリヒリと世界を覆っていた時代でした。圧倒的なスケールとスピードで展開する「現実」こそ、至上のものとされたのでしょう。現実を超える未来や空想なんてあるのか?と。

ほんの100年足らず前に、現実しか見えない時代があった。それが繰り返されない保証なんて、どこにもないはず。福島さんが根付かせ、花開いたSFを読める現代は幸福だ。そしてそれは所与のものではない。不要不急と名札が付いた文化が瀬戸際に追い込まれている今、改めて戒めにする必要がありそうです。


ロマンチックであるべきだ

福島さんがどんな奮闘を重ねたかも読みどころですが、さらに目を見開いたのは、福島さんのSF感。ある論客と交わした紙面議論で、こんな風に語ります。

 荒氏も認めているように、SFの本質はポーまで遡って求められなければならない。SFは、本来的に、科学的であるよりも、ロマンチックで、空想的で、思索的であるべきはずなのである。(p129)

SFはロマンチックで、空想的で、思索的であるべきだ。他にも同じ文意でこんな表現をしている。

 繰り返していいます。SFは、科学を意識した心で思索し空想する小説です。アメリカのある作家は、SFを定義して、面白いことをいっています。彼はSFをWhat if~の小説だというのです。つまり、「もし何々が何々であったならばその結果はどうなるのか?」ということを考える小説だというのです。いいかえればSFは仮説の文学、スペキュレーションの小説だということです。(p144)

SFは科学を意識した心で思索し空想する。科学と同様に、もしこうであったらどうだろうという「仮説の文学」である。福島さんは何度も、科学との距離を強調する。そして空想すること、思索することの重要さを言葉にする。

その問題意識は、まさに「現実偏重」の時代を意識したのだろうと想像します。SFとは、現実の向こうへ、未来や空想へイマジネーションを膨らませる人の傍にいる。そうでありたい。だからこそ、科学的であること、現実的であることに固執することを、危険だと考えたのではないか。

福島さんの姿勢に心から感謝をしたい。そうやって守り抜いてくれた、ロマンチックで、科学を尊重しつつ縛られない空想が膨らむ、素晴らしいSFを読むことができている。

たとえば伴名練さんの短編集「なめらかな世界と、その敵」は、青春小説としても一級品の瑞々しさがある。たとえば柞刈湯葉さんの「人間たちの話」は、ポップで明るいリズムに溢れている。そうした作品は、読者の心に実に爽やかな風を吹き込んでくれます。


未来の怪物性に向き合うために

福島さんは、SFが人間の生を豊かにするものであると確信していたし、そう願ってた。こんな文章に表れています。

 そして、あえていうなら、こうしたSF独自の認識は、未来の怪物性(モンストロシテ)を、コントロールして、社会的有用性へとフィードバックさせる作用をーー未来の困難さの中で、人間がよりよく自分の生を生きていくためのビジョンを発明し創造していくための作用をみちびきだす、一つの因子たりうるのではないか。それくらの自負を、作家はもつべきだと自覚しているのである。(p260)

未来の怪物性。それは現実がSFを押しつぶしかけたように、未来もまたユートピアであり得ず、絶えざる困難の嵐だという認識を示す言葉です。そして、その中を渡っていくための羅針盤に、SFがなるんだという確信。

未来の怪物性を社会的有用性へフィードバックするという発想に触れて、ユヴァル・ノア・ハラリさんの「21 Lessons」の一節を思い出しました。

二一世紀には、SFはおそらく最も重要なジャンルになるのではないか。なぜならSFは、AIや生物工学や気候変動のようなことを、人々がどう理解するかを決めるからだ。私たちには真っ当な科学もたしかに必要だが、政治的な視点からは、SF映画の佳作は、「サイエンス」誌や「ネイチャー」誌の論文よりも、はるかに価値がある。(「21 Lessons」p317)

ハラリさんは、SFが「未来予測」だから有用だと言っているのではなかった。むしろ、SFは「(いまの)人間の心」で未来を想像するからこそ大切なんだ

たとえば「マトリックス」は機械が人間を支配するディストピアを描くけれど、そこでは人間性が大切であるという価値観を放棄していない。実際には、その時代における人間性は今からは「想像もつかないもの」であり、場合によっては機械に人間が従属するのが当たり前であるかもしれない。でも少なくとも、我々の認識はそうじゃないことを、SFを通じて確かめられる。

SFには、「人間にとって何が大切か」が詰まっている。コアとしてある。だからこそ、読者はSFを通じて獲得するものがある。つくづく、そんな力のある小説分野が、衰退しなくてよかった。守ってくれる人がいてよかったと思います。(ハヤカワ文庫JA、2009年12月10日初版)


次におすすめする本は

小松左京さんの「果てしなき流れの果てに」(ハルキ文庫)です。福島さんが引っ張り上げた才能の一つが、小松さんでした。もう数十年経過した作品ですが、色あせないどころか、あの「三体」に引けを取らないスケールのSF長編でした。


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