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リアル・シン・ゴジラー読書感想「理論疫学者・西浦博の挑戦 新型コロナからいのちを守れ!」

「8割おじさん」として一躍有名になった研究者・西浦博さんの本音を知ることができる本です。その思いは本当にまっすぐだった。なんとか感染拡大を防ごうと必死だった。それまでの「父権主義的」な科学コミュニケーションを脱して、国民がリスク情報をオープンに議論できるように試みた。描かれている風景は映画「シン・ゴジラ」を彷彿とさせた。ゴジラ並みの脅威をなんとか制圧するために、どれほど頭を絞って、命を削って闘ってくれたが伝わりました。(「理論疫学者・西浦博の挑戦 新型コロナからいのちを守れ!」、西浦博さん著、聞き手・川端裕人さん、中央公論新社、2020年12月10日初版)


父権主義とシン・ゴジラ

西浦さんはなぜ「8割接触制限」を打ち出したのか。また「最悪85万人が重篤になり、半数が死亡する」との想定を明らかにしたのか。

3月19日の専門家会議。ここで欧州の深刻な感染状況と、もしも日本で同じことが起こった場合のリスクを共有するために、西浦さんは想定のグラフを用意する。これが後に議論を呼ぶ最悪想定。厚労省担当者は、それまでの想定を大きく超える悲惨な状況が示されることで、都道府県が混乱することを懸念した(p109)。

このとき西浦さんは、国が行っている科学コミュニケーションは「父権主義的(パターナリスティック)」だと問題視する。「上」が決めた方針を「地方」におろす。このコミュニケーションの問題は、リスク情報と分析そのものがブラックボックスとなり、「地方」は情報ではなく指示に基づいてしか行動できない点だ。

 これは、厚労省側にも枷になっている部分があって、厚労省側から地方に打つ通知の中では、仮に大変な流行になることが分かっていても、地方が手の届く(Reachable)範囲で設定するべき、ということなんです。オペレーション上で絶対に達成できないような数をいっても、厚労省には都道府県から苦情のような文句が来るだけなんですよ。(p112)

科学的には大変な感染拡大が見込まれても、父権主義的なコミュニケーションでは「オペレーション可能な範囲」でしか伝えられない。これはものすごく危険なことではないか。

つまり、父権主義的であるかぎり科学とオペレーションが「乖離」することがあるし、その場合に優先されるのがオペレーションだということだ。これは「当たり前」なんかじゃない。本当のリスクではなく実務上の困難に目を向けてしまっては、ウイルスのように何の忖度もない科学的脅威にひたすら蹂躙されてしまう。

頭に浮かんだのは「シン・ゴジラ」だった。二度目にゴジラが上陸したシーンで、政府はあくまで「自衛隊で排除する」というオペレーションを土台に対応した。しかしゴジラの戦力は自衛隊をはるかに上回り、打つ手はなくなる。結果的に国際社会の核兵器使用検討というゴジラ以上の脅威を招いた。もしもこの時、最初から「ゴジラのリスクはどの程度か。もしかしたら自衛隊が負けるのでは」という発想に立てば、自主的に国際社会の協力を仰ぐことも可能だったはずだ。


リスク・インフォームド・ディシジョン

西浦さんが最悪想定を示したのは、父権主義的とは「別の」科学コミュニケーションの方法を模索したからだ。

 でも、僕は厳しいシナリオを伝えた上でコミュニケーションしなければと強く感じていて、それを主張しました。現に武漢や北イタリアでは医療崩壊が起こったのですから。その現実と向き合って、それだけは避ける策を皆で考えないといけない。リスク・インフォメーション・ディシジョンといって、きちんとリスクの認識の下に意思決定してもらう。医療の世界では「意思決定支援」と訳されていることもあります。つまり、今ヨーロッパで起こっている流行がどんなレベルのもので、本質的な問題としては、ボトルネックとなる医療の崩壊の可能性があるので、日本でもどれくらいのリスクで病院が崩壊しうるのか、そうなったらどうなるか、きちんと伝えたいのです。(p112-113)

リスク・インフォームド・ディシジョン。これが西浦さんの根本にある発想であり、全ての行動に一貫した理屈だった。

つまり西浦さんは、わたしたちにも父権主義的にではなく意思決定支援的に情報発信してくれたということだ。「こうせよ」ではなく「こうなるリスクがあり、回避するためには無茶かもしれないけどこういう行動が必要だ」と説明してくれた。それが「8割削減」であり「85万人重篤、半数死亡」だった。

自分はありがたく思う。こうした想定、可能性は「シン・ゴジラ」の中では多様な専門家が意見をぶつけ合う会議室でしか示されなかった。スクリーン越しのわたしたちはそのスペクタルをハラハラと見守ったけれど、果たして物語の中の「国民」は情報開示を受けていたのだろうか。そうではないだろう。


「予言が外れた」と言うことの危険性

しかしリスク・インフォームド・コミュニケーションは今回、うまくいったとは言い難い。本書でも詳述されている。社会は混乱した。さらに大きかったのは、1度目の緊急事態宣言を何とか乗り切ったことで「過剰な煽りを受けた」と感じる層が社会の中に一定、生まれてしまったことだ。

聞き手の科学ジャーナリスト川端さんは、「42万人が死亡する予言が外れた」という受け止め方は「二重の意味で間違っている」と指摘する。

 一つめは、「最悪の被害想定」というのは、なにも対策をしなかった場合という状況での試算であり、そういった酷い状況をもたらさないために掲げるものだからだ。実際にその人数が亡くなると定量的予測として言っているわけではなく、この流行の潜在的な危険性を示す指標だと捉えるとよいかもしれない。対策次第では、実際に亡くなる人は桁が一つ二つ減っていく。それはむしろ対策の成功として喜ぶべきことであって、「外れた」こと自体を非難するようなものではない。(p184)

被害想定は「回避するための情報」であり、「外れた」ことはむしろ対策の成功として喜ぶべきこと。確かにそうだけれど、なかなか難しい。

おそらく、行動経済学者カーネマンさんが指摘するヒューリスティックの一種だ。予測が実現しなかったこと、その不在は直感的に「損」になる。人間は「得」よりも「損」に反応することは、認知の歪みの典型として語られている。

もうひとつの「間違い」は「時間軸」。

 もう一つは、被害想定の期間の問題だ。この想定のいわば「有効期限」は、流行の終息までの間であり、現時点ではまだ流行は終息していない。(中略)今、「外れた」と判断するのは、かなりの楽観論だ。流行が終息して「外れてよかったね」と胸をなでおろすことができるのは、ずっと先なのである。(p183-184)

たしかに。まだこの脅威は終わっていない。本当に40万人近い人の命が奪われないのか「今」の時点で答えは出せない。誰にも出せない。

この二つの間違いを犯すことで生まれてくる危険。それは「父権主義への回帰」ではないか。

「予言が外れた」と言うとき、それは「外れる予言はするな」という空気につながる。まさしくその空気が、父権主義的な科学コミュニケーションを作ってきた。予言に結ぶつくような情報を開示しない。選択肢を与えずに、「上」からの指示でこの国の意思決定を行う。

わたしたちは「シン・ゴジラ」の登場人物になりたいだろうか。会議室で実力を発揮する科学者ではなく、エキストラの国民である。情報を示されないまま、可能性と危険性を議論できないまま、踏み潰されることを選ぶだろうか。

わたしたちはもうリスク・インフォームド・ディシジョンを経験した。その難しさを実感した。だけれども、科学的に、理性的に行動できる可能性の光もまた、見たのではなかったか。西浦さんがこの危機の中で生み出した萌芽は、大切に育てていくべきものだと思う。もう来てしまったゴジラをなんとか制御し、乗り切り、そして次のゴジラに備えるために。


次におすすめする本は

桐生夏生さんの小説「日没」(岩波書店)です。正しくない小説を書いた小説家が海辺の収容所に送られる世界。「知ること」や「考えること」を放棄した社会がどういう末路を辿るか、冷え冷えとした筆致で描いてくれています。


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