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私の読書感想文: 宮沢賢治 やまなし

夏の足音が耳に届き、緑に染まったソメイヨシノの桜並木の木陰を心地よいと感じる季節になりました。
近所の小中学生が他愛の無い会話をしながら、緑道をかけていくのを眺めると、私にも、これ程に無邪気で純粋な時代もあったのかと思ったりもするわけです。
決して、大人になったことを後悔しているわけではないですが、忘れてしまった感受性や心の豊かさがあると思うと、少しだけ寂しさを感じる時もあります。
一方で、大人になった今でも、変わらない部分や心情もあると思います。
私にとっても、当時から変わらずに愛している作品があります。
それが、今回ご紹介する宮沢賢治の『やまなし』という作品です。
私の小学校の教科書で掲載されていた作品で、その当時から大好きな作品でした。
透明感のある言葉選びのセンスや何処と無く儚さを内包する点が宮沢賢治の作品の魅力だと考えます。
少しでも、宮沢賢治の魅力を伝えたいと思い、作品を紹介します。

あらすじ

2匹の蟹の兄弟とお父さん蟹の日常が5月と12月の2つの場面で切り取られ、2部で1つの小説をなしています。5月の場面では、蟹の兄弟が川底で「クラムボン」について話している最中に、カワセミが水中に飛び込み魚を狩る場面に遭遇し、その出来事に怯える様子を描いています。12月の場面では、蟹の兄弟がそれぞれが吐き出す泡の大きさで競い合っている中、トブンと水中に何かが落ちる音を耳にし、カワセミだと怯える。お父さん蟹が出てきて、落ちたモノがやまなしであることを教えられる。子供の蟹の1匹が「美味しそうだね」というとお父さん蟹が、「もう2日寝かせたほうが美味しいから、今日は帰ろう」といい、蟹たちが巣穴に戻っていくところで物語を終える。

感想

宮沢賢治の作品で素晴らしいと思うところは、その独特な言葉選びにあると思います。この5月と12月の2つの場面のことを冒頭で「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈(げんとう)」と表現していることや、蟹の子供らが泡を吐き出す描写を「ぽっぽっぽっ」と擬音語で表現するように、やまなしの作品でも、賢治の魅力的な表現に触れられると思います。特に、賢治独特の擬音語の表現は、当時小学生だった私にとっても、非常にわかりやすく直感的な表現で、音読していて心地の良い文章だなと感じたものです。小学生ながらに作品の美しさを感じていました。この作品を読み返す度に、当時と同じ気持ちで作品に向き合えるところが、個人的に気に入っている点です。

「クラムボン」と「イサド」

やまなしの作品を引き合いに出すと、大抵の場合、「クラムボン」と「イサド」とは何かという話題がついてまわるようです。それぞれの諸説について記事の中で紹介することはしませんが、興味のある人は調べてみると色々と出てくるので、面白いと思います。小学生だった当時の私は、「クラムボン」を「泡」、「イサド」を「どこか遠いところ」というように解釈していたと記憶しています。現在の私としても、尋ねられたときには、当時と同じに答えるようにしています。ただし、それらが正しいというだけの、特にこれといった理由はありません。むしろ、私としては、それぐらいの解釈が気に入っています。「クラムボン」と「イサド」がよくわからないという点が、作品の魅力の1つです。読み返す度に、「なんだろう」という好奇心や「不思議だな」という興味を引き立ててくれます。また、文章のわかりやすさと裏腹に、少しだけ読み手にわからない点があるというギャップが面白いと思うのです。誰か評論であるなら理路整然としてくれなくては読みてとしては困るわけですが、蟹の日常を切り取った小説であるからにはむしろ、作品の中で、人間に理解できない蟹の会話があって然るべきかもしれないと思うのは、私だけでしょうか。

まとめ

今も昔も大好きな作品の『やまなし』の紹介でした。
教科書で読んで以来、内容を忘れてしまったという人も多いかもしれません。
そのような人がまた、読み返すきっかけになればいいなと思います。

宮澤賢治のやまなしはパブリック・ドメインであり、青空文庫で無料で公開されています。
以下のサイトですと、ストレスなく青空文庫の作品を読めると思いますので紹介しておきます。

ここまで読んで下さり、ありがとうございました!

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