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dok-s の映画日記その44「キリングフィールド」(1984)

キリングフィールド
評価:★★★★★
「カンボジア版南極物語」

 忘れられないシーンが頭にこびりついて離れない映画はいくつもない。
 子供の頃に見てショックを受けた本作もその一つだ。なかなか現像出来ない写真、ひたすら腰が低いカンボジア人通訳ディスプラン、偉そうな兵士の怒号、絶望感たっぷりの別れ、田んぼでチャプチャプ帽子を洗うシーン、ブーレーブーシガレット?初めて覚えたフランス語、地雷の絶望感、骸骨インフェルノ、ラスト感動の再開、etc。

 子供時分に強烈に印象に残ったこれらシーンの断片は、35年経って何度も見返した今も色あせる事はなく、相変わらず俯瞰で見ることが出来ないでいる。

 同時期に好きだったタロジロの「南極物語」に似た構成だが、あちらは白でこちらは灰色。
あちらは犬でありこちらは人間。
立場は違えど、混同するくらいの理由があった。

 それは、言葉にあると思う。
 カンボジア語の怒号や会話は字幕にもなっていない。今の映画なら字幕をカッコ付きで付けるだろうが、わからないようにすることで、何者かわからない恐ろしさを醸し出す方法なのかもしれない。

 この映画における、彼らカンボジア人の会話は、なにか恐怖のアイコンのような扱いだ。
会話の内容がわからない我々にとっては、理由もなくいきなり銃を撃たれる恐怖を植え付けられる。
恐ろしい国カンボジア、いつも怒っているカンボジア。気に入らないことがあると即座に銃を構える国民。本当はそうではないのかもしれないのに。

 現在のカンボジアはそうでないとわかっていても、トラウマというか、カンボジアにそんな印象を植え付けられる映画であった。

 コロナが明けたら、カンボジアに行ってみようと思う。コロナという地雷は世界中に広まっている。したがって怖い印象の国は最早、カンボジアだけではなく世界中同じだ。
 それに、カンボジア人は犬ではない。人間カンボジア人を見て確かめたい。挨拶くらいはカンボジア語を使いたい。彼らの心に触れてみたい。

 これが、子供のころにショックを受けた、この映画のトラウマを克服する手段になるのなら。

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