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しなやかな獣

夜になると、沈んでくるものがあります。こころとからだの奥底に、澱のように沈んでいくこれはなんでしょうか。あまりおおく沈んでいると苦しいですけれど、私にとっては重心のような、必要なものであるような気がします。

それにしても、今日は沈みすぎています。まるで私がひとつの錨となったみたい。こんな日に思い出すのは誰の詩でしょうか。どんな文章でしょうか。私はひとつひとつ点検していきます。

今、先の段落からこの段落にいたるまでに、ひとつの詩を読みました。漆原正雄という詩人の詩集、青い表紙のうつくしいたたずまいの詩集です。『風を訪うまで』という詩集です。そのなかでもひとつの詩が目にとまりました。「人生でもっともすばらしい」という詩です。

日頃、現在も存命の方の詩を読む機会はそう多くはありません。私は現代詩というものにも素直に頷けないところがありますから。ですけれど、ときどき、手紙のように私の手にまいこんでくる詩集があります。『風を訪うまで』もそのひとつです。


約束をかわしておきながらはたせなかったのは
光の加減だ、不手際だとうそぶきながら
それでいていちどでも目をそらすと
もう見あたらない

漆原正雄「人生でもっともすばらしい」『風を訪うまで』ジョバンニ書房

漆原さんの詩に共通するのは、紙を裂いたときに感じるような、別れの、喪失の目に見えない痛みです。漆原さんの詩には出会いの瞬間をえがいたものもあります。ですが、それは次なる別れへと開かれている。そしてまた、次なる物語との出会いへと。

漆原さんの詩はひかりのあふれた、そしてかなしさをおくそこに秘めた映画のワンシーンのようで、日常にありふれたものたちが、それぞれ日々の主人公としての生をいきています。そしてそれは鴨長明さんが川の流れからたびかさなる別れの壮絶さを語りだしたように、漆原さんにとっての無常をえがきだしているように思います。街を流れていく無数の演者たち。または踊り子たち。


(みんな踊れ、そっちは速く、こっちはスローで
犬も猫も、木の葉もチラシも電線も)

    漆原正雄「人生でもっともすばらしい」『風を訪うまで』ジョバンニ書房


漆原さんの詩に私が言葉をあてるとすると、薄明ということばが似合うでしょうか。うすいひかり、喪失、別離のいたみにそっと寄り添うひかり。といえばいいのでしょうか。漆原さんの詩を読んだ人は、こうさとるかもしれません。喪失とは、別離とは、ある一面においては光なのだと。



自分で自分をおとしめる言葉を
自分では吐きたくないと思い
金色の野原を力いっぱいはしった
ひかりひかりゆくひかりが
私のほおや肩をなでていった
祝はここにあったかと ふとたちどまると
いつのまにか 傷は傷のまま
優しいひかりにかわっているのでした。

        自作「野原」


ずいぶん、私の澱もおちついてきました。別離のひかりにふれたからでしょうか、万物の、と言ってもそう遠くはないながれに、私自身も身を浸したからでしょうか。そういえば、今日は欠けた月がとてもきれいで、夜そのものがうつくしい液体のようでした。昔から、月を見ていると気が狂うと言われています。今日のたくさんの澱はそのせいだったのかもしれませんね。

    車道を、ひとの口を真一文字にむすぶようにイタチが横切る。概して動物は好きではない。動物をまえにすると、腹の底を見透かされ本性を暴かれるような、そんな居心地の悪さを感じる

    漆原正雄「どこをさがそうとも」『風を訪うまで』ジョバンニ書房


そうですね、漆原さん。私たちはわたしたちを横切るさまざまなものに心を引き裂かれる。イタチに、または空を渡る月に? そして他者に。そしてその痛みが、別離へとつうじているのならば。さながら、私たちはしなやかな獣ということになりましょう。だからこそ、裏切り、裏切られるわたしたちには、喪失と別離のひかりを描き出す詩が必要なのでしょうね。

とても素敵な詩集を読ませて頂きました。こんごとも痛みのはしるごとに読み返すと思います。ありがとうございました。またお会いしましょう。良い夜を。


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