小林秀雄とバルザックを読んで思うこと

僕は最近、小林秀雄の「常識(評論集:考えるヒントの1章)」を読みました。本のトップに据えられているだけあって素晴らしい評論でした。機械が将棋を差すという噂があるが、「機械は物を判断する能力が無い」という常識を前提にする事によって、機械の何処かに人間が潜んで居るはずと推論し噂のトリックを見破るという話が出て来ました。結論を引用すると「常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するように考えているところにある。そういう形の考え方のとどく射程は、ほんの私達の私生活の私事を出ないように思われる。事が公になって、一とたび、社会を批判し、政治を論じ、文化を語るとなると、同じ人間の人相が一変し、忽ち、計算機に酷似してくるのは、どうした事であろうか。」ともありました。
自分が昨日書いた経済に関する日記は、小林が言う常識を私事に留める事なく、経済という大きな枠組みの中で応用したいと思った結果です。どこまで真実に迫れたかは分かりません。なにせ、専門家が言う事もバラバラで答え合わせのしようがないからです。ただ様々聞きかじる中で少々疑問に思うのは、「為替と株価は市場の調整の結果」という言説ですね。市場、それを構成する人間は日々バラバラで動いており、中には逆張りする人間もいるのに、何故意思を持ったみたいに急激に値動きするのかが分かりません。ちょっとだけ常識的に考えてみました。
また、最近読んだ中でバルザックの「ピエール・グラスー」という小説がありました。絵画の展示会を開く上で昔のパリは傑作だけを厳選して観客の前に並べていたが、時を経て集まった作品は全て出展するようになったので結果傑作が埋没してしまい、その内芸術は死ぬかもしれないとありました。言論の自由を謳歌し、多様な意見に飲まれてしまっている我々(少なくとも自分)は経済政策の正解が分からないし、もしかしたら日本自体が既に様々迷走状態にあるのでは?そんな心配を小説を読んで思いました。


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