最近読んだ本、日記

「二十六人の男と一人の女」
まずもってこのタイトルが良いですね。これは、ロシアのゴーリキーが書いた短編作品なのですが、タイトルだけで、捻りを加えた恋愛小説なんだろうな、今迄感じた事のない面白さを味あわせてくれそうだな、一人の女を奪い合う話なんだろうかと期待させてくれます。
タイトルだけで言うとドストエフスキーの「永遠の夫(出版社によっては“良人”と表記)」というのも良かったです。こちらの方は、タイトルだけでピンとは来ないのですが、「妻はつぎつぎに愛人を替えていくのに、浮気ひとつできず、その妻にしがみついているしか能のない、生涯ただただ“夫"であるにすぎない“永遠の夫"の物語。(新潮文庫引用)」というあらすじもセットで目を通すと、急に、人を喰い付かしてしまう薄暗い何かを放つかのような見過ごせないものを感じ読まされてしまいました。
素人さんの書いたものは余っ程でないと、読んで面白いと思った事が無いのですが、恋する女性の赤裸々な告白(客観的恋愛遍歴とそれに合わせた心の動き)、結果、裏切られて捨てられるところ(客観的に書かれているのでそう読めるのだが当人はその男を最後まで信じている)で話が終わっている他サイトのある日記は面白いと感じました。あぁ本当に恋しているんだろうなと思える率直な心理描写がベースにあっての話なのですが、僕という読者に「それって騙されてますよ」と思わず突っ込みを入れさせてしまう隙を(図らずも)設ける事によってこっちを中に引きずり込んでしまうという効果があって、だからこそ惹きつけられたのかなと思います。
「永遠の夫」は、ドストエフスキー特有の、精神病患者のような現実と妄想が倒錯したかの如くの情景描写から始まって、寝取り男と“永遠の夫”の間で繰り広げられる「お前は仕返しにやって来たんだろう」「いいえ、貴方の事をお慕い申し上げておりますからこそです」という筋の会話の応酬、普通理解されないであろう主従関係と過去の因縁を忘れたかの様な異様な程の這いつくばり、それらによって引き起こされる物語からの読者締め出しがちょっとイマイチと感じさせる要因であったのかなと思います。擦り寄りと歪み合いが次々と訪れ感情が瞬間瞬間に好転暗転して行くさま、決定的な雪解けかと思われた直後に訪れる突拍子も無い破局など、「人は“こうありたい”と思って生きる、生きられるのではない」という思想を描いていると思えば頷けもするのですが………といった感じです。ただ、この点は一般に誤解している人が多いので、思想的に甚だ鋭い指摘であると思いますし、物語へ落とし込めるのは素晴らしい事です。ただ「罪と罰」のような序盤における老婆を殺すまでの、若しくはポルフィーリーという近代思想との対決みたいな行き詰まる臨場感をもっと演出しないとウケないだろうなと思いました。
また、これらの様な読書傾向から「寝取り寝取られ」を見たいという欲求が僕の中にはあるんだろうと気付かされます。ただ、FANZAにおけるこの手の同人誌の溢れかえり様を見ていれば僕に限らない事なんだと気付く訳なんですが、話の最後は大体、愛しの彼女が寝取られる様子を見せつけられ(主人公なり読者なりが)絶頂するという流れがほぼ確定していて、非常に女々しい内容と言えます。この女々しさを表現したのがドストエフスキー(敢えて付け加えるなら谷崎潤一郎)なら、「二十六人の男と一人の女」は男らしさを表現したと言えるでしょう。天才的釣り師によって、アイドルが釣られてしまったところを目撃した男達は、反転、寄ってたかってこき下ろす冷たさを見せつけ、それに負けじと女の方も唾を吐き捨てるかの如く男達の上を踏んづけて行く毒々しさがあって、今の日本の小説でこれが出来るかなと思いました。我々は敗北的女々しさから感受する愉悦に普段浸りきっていると共に、女性の人権を踏みにじるのは建前上ご法度とされていますから恐らく無理だろうなと。誤解して欲しくは無いのですが、人権を踏みにじってやりたいという不埒な薄暗い欲求はこういった過保護から生まれるのではないかと思いました。攻撃的或いは女々しい作品が、どちらにも偏り過ぎない様バランスする事によって、現実世界における人権侵害が抑制されるのではないしょうかと、ふと考えました。

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