マルクスをかじる

今日の僕は自分でもどんな文章を書くか分からない。細部を詰めないで書き出すのはいつもの事であるが、いつも以上にノープランである。今日はマルクスの「経済学・哲学草稿」を読んだ。1回読んだだけではさっぱりだったのでこれは2回目である。左翼の理論的支柱に当たる存在なので、彼の論文には出来る限り食い下がる積りだ。経済学について語るのかと思っていたが数学的な話は一切出て来ない。まるで哲学者ではないかと思っていたら、題名に哲学とあった事に今気付いた。食い下がると言ったってこの程度である。
経済学と哲学の二本立てで中身は構成されているのだが、経済学はそれ程突飛な事は言ってない。読めばそうかと思うのだが、彼の理論は(資本家に対する)性悪説に基づき書かれているので、人によってはそこまでシビアで深刻な話かねと、話の信憑性を疑うかもしれない。過酷な植民地支配を行う欧米の大資本家が恐らく彼の念頭にはあるのであって、日本型の家族経営なんて知る由もないのだ。今日読んだ部分はヘーゲル批判の箇所であった。その前に、まずは彼の哲学を少々解きほぐすが、経済を回すプレイヤーとして資本家、地主等がいる中で労働者だけが疎外されていると彼は再三述べている。
何から?自然からである。人間らしく生きれていないという言い方もしている。彼は自然≠人間と見ているのだが、労働者が内なる自然若しくは人間性を労働を通じて吐き出す事により、代わりに私有財産を獲得しているのだと言う。但し、生活手段としての私有財産に固執するあまり、人間らしい自然的な手触り感(本書は直感、感覚等の言葉をやたらと引用していた。)を鈍らせてしまったらしいのだ。
私有財産に全ての罪をおっ被せるのはいかがなものかと思うが、現実感覚の喪失を思わせる指摘は小林秀雄なんかに大変近い。小林秀雄と言ったら保守の代表格である。原因は兎も角、庶民がなんかおかしいぞといった感覚で左右両陣営から眺められていた事はかなり興味深い。田舎暮らしやオーガニックに拘る現代人の原点をマルクスに見た気がした。
ヘーゲルに話を戻すが、マルクス流の解釈だと、人間が自然から実際疎外されていようが「俺ってなんか自然じゃないな」と認識出来ていれば疎外されてはいないと彼は見るからその点が駄目なんだそうである。感覚に拘る人間からすればなんと頭でっかちな事だと思うのだろう。これが本当なら僕もマルクスに賛成である。ヘーゲルもいつか読んでみたいと思った。
所詮、個人的日記に過ぎないとは言え出鱈目も書けないと思って読み返していたら今日は疲れた。今から異なるテーマを書き始めるくらいなら別の日が良いだろう。もっと話があっち飛びこっち飛びするかと思ったが、結果的にこっちの方が良かったろう。但し、読書が好きな人からしてみれば1000文字そこそこ程度では全然物足りない筈である。

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