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中国の歴史、文化、格差に関する補足。~中国雑学シリーズその6~

こんにちは、アイデアポートの鈴木です。中国深センで起業しています。

去る6月に、『中国雑学シリーズ「広く、多く、長く、そして速い国、中国」~深センからみた中国と日本の関係~』と題して、

6月6日に、京大の経営管理大学院の中国勉強会
6月30日に、中央大学の商学部の起業ゼミ

にて、2回にわたりお話しさせていただきました。

ただ、1回目の京大での講演で気になったことや質疑応答の際に私も疑問に思ったことがありましたので、2回目の中央大学の時は、前日に練習も兼ねて上海人の友人に聞いてもらいました。

その際に、彼の知識や彼なりの分析を聞いてなるほどと思いましたので、私自身の経験も追加し、備忘のために今回記事に残したいと思います。

なお、第1回目の講演の動画は、前編、後編、質疑応答編の3編に分けてYouTubeで公開しています。ご興味があればぜひご覧ください。

【Ideaport】広く、多く、長く、そして速い国、中国(前編)
https://youtu.be/Rkb9wZhPcxQ

【Ideaport】広く、多く、長く、そして速い国、中国(後編)
https://youtu.be/rqRXFO4Sbn0

【Ideaport】広く、多く、長く、そして速い国、中国(質疑応答編)
https://youtu.be/60qRhA5mp6o

中国人は、中国の歴史が4000年だけとは思っていない

まず中国の歴史の長さですが、日本人に聞けば「4000年」という答えが返ってくるのが一般的でしょう。

ただこれ、実は、世界的にも一般的には4000年というのが常識です。

その理由ですが、西洋的な考え方からすれば、文字ができてから文明が始まった。つまり、文字が発見された時代を起点として、それ以降を正式な歴史としてカウントするいう考え方があるからです。

言わば科学的根拠というか、中国大陸においては、考古学的に文字があったことを証明できるのは4000年前からで、一方で、現時点ではそれ以前に文字があったという「証拠」を確認できないため、中国の歴史は4000年前に始まったというロジックです。

ただ、仮に中国最古の文字が4000年前に発見されたとして、4000年前にぽっと文字が出てきたのでしょうか?

そんなことはあり得ない。文字が突然降ってわいてくるわけはなく、もっと前から人々は文字を使っていた。というのが、中国人の一般的な常識です。

つまり、実際に文字が使われ始めたのが、4000年前の100年前か、500年前か、1000年前なのかはさておき、出土された「証拠」がないので起源自体は依然として不明ですが、少なくとも4000年より前に文字があったのは間違いない。と、中国の人たちは考えています。

証拠が無いため残念ながら4000年前までしか証明できませんが、その前からほぼ確実に文字があったと。しかし、当時の文字の保存技術がダメダメだったためか、4000年より前に文字が記録されたものが現在のところ残っていない、まだ発見されていないということなのです。

よって、その辺も加味して、中国の歴史は5000年はあると考える中国人が多いのです。

ちなみに、4000年前の殷の時代のものとして、亀の甲羅にや牛の肩甲骨に書かれた文字などが残っています。ひょっとしたら、それ以前はこれら恒久的に残る物質上に文字が書かれておらず、葉っぱ土などの有機物上に書かれていたのかもしれませんね。

中国の歴史は8000年はある?

さらに言えば、文字ではありませんが、八卦という占いが8000年前からされていたという証拠があります。

8000年前から占いをしているのなら、8000年前からすでに文明があったと言えると思いますが、繰り返しになりますが、西洋文明的な観点からすると、文字があって初めて文明と認定されるため、文字以外のものがいくらあっても文明とは認定されません。

中国では、殷や周より前に夏という時代があったとされていますが、これが幻の王朝とされていている理由は、夏の時代のものとして、まさにこの文字が発見されていないからです。

実際、8000年前のお墓からは、占いで使ったと思われる記号やマークみたいなものが発見されているようですが、文字は発見されていません。

そもそも、仮に当時文字を使っていて、長い年月に耐えられるような保存技術があったとしても、さすがに8000年ともなると古すぎて、つまり、それだけの長期間にわたって耐えられるような保存技術が当時あったとは思えず、よって、当時の文字を発見するのは今後も難しいとされています。

これらのことから、中国の歴史は8000年前からと思っている中国人は少なくないですが、世界標準では4000年前からというのは変わらず、そこは中国人とその他の国の人とで、歴史の長さに関する認識に差があると感じました。

少なくとも、日本で言われる「中国4000年の歴史」というのは、別に40年前のカップラーメンのCMが根拠というわけではなさそうですw

中国の大都市における内陸出身者への差別について

中国には戸籍管理制度があり、それに呼応するようなカタチで、沿岸部と内陸部では経済発展や収入に格差があります。

また、現実問題として、中国は人口が多いため、一定数の人が農業に従事し、食料をつくる必要があります。

余談ですが、古代・中世の中国では、当時の農業技術だと中華の人々を食わせられるのは、人口的に6000万人くらいが限界で、それを超えると食料の奪い合いになり、動乱が起こって王朝が崩壊。続いて人口も激減しますが、その後は動乱が収まって新しい王朝になると平和になり、人口は徐々に回復します。ところが、また6000万人を超えると動乱になり・・・というのが繰り返されてきたようです。

このような経緯からか、中国では食料の生産や食料を自給自足できるかどうかというのは、非常に重要なファクターです。

話を戻します。

講演の中の一節で、生粋の広州人が内陸部出身者に「田舎に帰れ!」と言い放ったという話は、やはり多くの日本人にとっては衝撃的に受け止められました。

理由は、同じ中国人同士でなぜ?です。
少なくとも、今の日本で同じ日本人にそのようなことを言ったら裁判ものです。

この点に関して、私は、

「中国は一つの国にまとまっているものの、実態はEUのように複数の国の集合体です。EUは経済を中心としたまとまりで、中国はそれに加えて政治的・言語的にまとまっているのが強みですが、実際は各地域間で文化や食習慣、言語などでかなりの違いがみられるため、同じ中国人同士でもエリアが違うと別の国の人のように感じる人もいる。」

と、このような観点から説明していました。
もちろん、これはこれで一面においては的を得ていますが、どうやら事はそう単純な話ではなさそうです。

中国の沿岸部と内陸部の経済格差も要因の一つ

この差別の件に関して、上海人の友人からの補足は、事実として広州や深センなどでは、ほんの20年前くらい前までは外来人の凶悪犯罪が非常に多かったらしいということです。

最大の理由は、沿岸部と内陸部との経済格差、収入格差により、内陸部の人たちが極端に貧乏だったことです。

これだけの経済格差がある人が裕福な沿岸の大都市に来ると、自転車やお金を盗んだりというように、犯罪を犯してでも手っ取り早くお金を得て、内陸に逃げ帰ってしまうということが少なくなかったそうです。当時の大都市は、給料日は外に出ないというのが常識だったそうです。

沿岸と内陸の格差は今でも問題になっていますが、当時はその比ではありません。このため、北京・上海・広州などの昔ながらの大都市に昔から住んでいる人で、一定年齢に達している人たちにはその当時のトラウマがあり、いまだにその負のイメージが強く残っていおり、外来の人は民度が低くて凶悪犯罪を犯す人。というイメージがいまだに払拭できていないようです。

もっと言えば、基本的にホワイトカラーの仕事をしている人は田舎に帰れ的なことは言いいません。あまり言いたくありませんが、このようなことを言ったり言われたりする人は、肉体労働者をしている人の中に比較的多い。というのが上海人の友人の見解です。理由は、比較的学歴も低いし、乱暴だからということです。

日本でも民度と学歴は多少は比例しているのでしょうが、一般的にはほぼ意識されませんし、大差ないと思いますが、彼が言うには中国だと上と下の差が激しく、特に有楽街の裏道に行ったらチンピラみたいな人もいると。まぁその辺は日本も変わらないと思いますがw

あとは、このような差別意識と同時に、実際問題として皆が沿岸部に来て農業と関係ない職業についてしまうと、いったい誰が食べ物をつくるんだ?という、理不尽ではありますが切実な問題もあり、田舎へ帰れ!という心無い発言に至ってしまうようです。

今の時代、このような発言は決して容認されるものではありません。実際、大都市の若者にはそのような感覚はありません。彼ら彼女らは当時を知らないということもありますが、現在ではそのような差別意識はかなり薄まってきているというのが私の実感です。

香港の人たちの中国苦手意識の理由

香港の人たちも同様で、私の記憶だと、香港の若い人たちが深センに目立って行き出したのは2018年になってからです。

なぜかというと、香港人の中では昔の深センの悪いイメージが強く残っていて、わずか1時間で行ける距離なのにも関わらず、ほとんどの香港人が行かないため、深センが経済発展して安全で洗練された街になって以降も、香港人の間では古い情報がなかなか更新されず、そのままになっていたからです。

同じく、日本の方でも昔中国に行って嫌な思いをしたという、特に年配の方が結構いらっしゃいますが、まさにそれと同じ感覚だと思います。

余談ですが、私は深センに初めて行ったのは2011年で、その時すでに危ない印象はありませんでした。それどころか、地下鉄は数本通っていて、人はあまり多くなく、安全で洗練された街というイメージでした。2015年に住むようになってからは人が増えた印象はありますが、基本的に良いイメージは変わっていません。

ところが、昔の深センを知っている人に話を聞くと、香港と深センの接続ポイントである羅湖区の羅湖駅や国貿エリアは特に危なかったようで、白昼堂々と窃盗やスリ、誘拐などが横行していたそうです。

私からすれば、香港人と会うたびに「深センなんて危ないから絶対に行かない」と言われ、「いまどき何を言ってるんだ?」と、思っていましたが、上記経緯を鑑みれば、香港人の一部の人たちがいまだに深センに行きたくないと言うのはわからなくもないです。

特に、現在の大都市の中では深センは発展が遅れていたため、2000年代でもかなり危険な場所だったようです。深センは2010代になってから急速に発展しましたが、前述のとおり昔を知る人の話を聞く限りでは、それ以前と以降ではほぼ別の街のようですね。

ただ、これらも相まって、いまだに香港の人たちの中には大陸の人たちに対する差別意識が根強く残っていますが、先の広州人の田舎に帰れ発言と同様、何ら容認できる要素は無いということを改めて強調したいと思います。

と同時に、情報や認識というのは、定期的にアップデートしないと、自分もいつ同じようになるかわからないという危機感も感じています。

深センの社長が同郷の従業員を集める理由

基本的な考え方として、ビジネスは遊び(ここは議論の余地がありますがw)ではありません。勉強の段階は過ぎており、ビジネスは常に現実と向き合わなければならない厳しい世界です。

となると、経営者の中には効率的に経営したいと思う人も少なくありません。

で、先ほどの田舎へ帰れ!の話に少し戻すと、たとえば、北京、上海、広州などには昔からいる地元の人たち(老広州人などという言い方をします)がいますが、深センは改革開放後に、主に国内移民により一気に人口が増え、つい最近になって大都市の仲間入りをしたような街ですので、地元の人がほぼいません。

つまり、相手に帰れ!と言えば、お前も帰れ!となるわけです。

では、深センでは差別はないか?といえば、差別まではいきませんが、現実問題として似たようなものがあると感じています。

その例の一つとして、私がこれまで深センで訪問してきた会社や工場では、社長と大半の従業員の田舎が同じというパターンが少なくないです。

これについても、以前の私の説明では、

「中国は国として一つにまとまっているというよりは、いろんな国の集合体で、実際は各地域ごとに別々の国という認識のため、地元が同じ人だと仲間意識が強く、それが同じエリアの人同士でコミュニティを形成することにつながっている。」

というような説明をしていましたが、これもそう単純な話ではなさそうです。

国が違えば食の好みや風習、暗黙の了解なども異なる

同じ国の人同士だと気楽だから、従業員も同じ国の人を集めている。

と、一言で言ってしまえばそれまでですし、結論としてはほぼそうなるのですが、もう少し詳しく解説します。

まずは食に関して。

簡単に言えば、沿岸部の人たちはあっさりしたものや甘いものを食べ、内陸の人たちは濃いものや辛いものを食べます。

中華料理というと、マーボー豆腐やホイコーロー、火鍋のような辛い料理のイメージが浮かぶ人も多いと思いますが、これらは基本的に内陸の料理です。

ヤムチャをイメージしていただければわかりやすいですが、香港を含む沿岸部の人たちは、このようなあっさりしたものを好みます。

余談ですが、中国には上火・下火という概念があります。
上火は日本語訳では「のぼせる」となり、少し意味合いが異なってきますが、簡単に言えば、

上火:体が熱くなり、ニキビなどができやすくなる
下火:体が冷えて、下痢などになりやすくなる

ということで、食べ物でいえば、辛いものや脂っこいものは上火になりやすく、フルーツや生野菜などは下火になりやすいです。この他、夏は暑いので上火になりやすく、冬は寒いので下火になりやすいです。

で、次がポイントなのですが、たとえば、内陸の湖南省の水は下火になりやすく、沿岸の広東省の水は上火になりやすいため、湖南省にいて辛い料理を食べていた人が、そのままの習慣で広東省に来るとニキビができやすい傾向があります。

要は、地元に居た時は上火になりやすい食べ物と下火になりやすい食べ物とで相殺されていたのですが、広東省に来ると食べ物も水も上火なので、体が上火状態になりやすいというものです。ただ、もちろん全員が全員ではありません。あくまでそういう傾向があるということです。それに、そもそも広東省は暑いですしね。

ちなみに、湖南料理は唐辛子の辛さ、四川料理は山椒の辛さで辛さの種類が違います。また、上海・蘇州・杭州あたりは基本的に甘い料理が多く、広東省はヤムチャに代表されるように、蒸したりしたさっぱり系やしょっぱい料理が多いです。

他にも、北は麺が中心で、南はお米が中心、東北地方は餃子などのダンプリン系が中心だったりと、その土地で取れる作物の関係もあり、主食が異なります。このようは話しは尽きません。経営者目線で考えると、このような細かなこともイチイチ考慮しなければならないのは非常に面倒です。

話を戻しますが、上記を先に述べたことには一応意味があります。

たとえば、工場を経営していて工場に食堂がある場合、中国全土から従業員を集めると、必ずこの食事の問題に直面します。

一例を挙げると、広東人は辛い料理が食べられません。

私個人の経験ですが、その昔、広東人の同僚と出張へ行った際、出張先で内陸の人がやっているお店のテイクアウトしか用意できず、辛くて食べられないと文句を言われたことがありました。実は、広東人は多くの日本人と同じで辛いのが食べられない人が多いです。私もそのうちの一人ですがw

話を戻しますが、中国では日本以上に食事は大事で、食事をしないで働くなんてあり得ませんし、夜残業する場合は必ず夕食休憩を取ります。ですので、食事が合わない、食べられないというのは経営を揺るがす一大事なのです。たとえば、今日はみんなで飲みに行こう!となっても、食の好みが合わないと誰かが必ず我慢しないといけません。

レストランが山のようにある街中の会社や工場であっても手であれば、食堂で難なくいろんな種類の料理を提供できますが、体力のない中小ではそうはいきません。

他方で、同じ組織に同じ地域出身者が多ければ、そのような問題は気にする必要がありません。この差は経営者にとってはかなりの差です。

言葉も文化の一つ

同時に言葉の問題もあります。

中国人であれば、確かに標準語である普通話を話せます。ただ、地元が同じの人同士で標準語を話す人などほぼいません。それは日本でも同じです。

たとえば、京都人同士なら京都弁を話すように、家族や地元の親しい人となら地元の方言で話すのが一般的でしょう。日本人であっても、標準語を話すのは、あくまでビジネスや公の場などに限られます。それは中国でも同じどころかより激しいです。

今から約10年前に、広東省で広東語の放送を制限するという動きがあった際に、大規模なデモに発展しました。香港人だけでなく、広東省、特に広州界隈の人にとっては広東語が母語であり、第一言語です。なので、その放送が禁止されるというのは耐えられないのです。

もし大阪のテレビ局で大阪弁の放送を禁止したらどうなるでしょうか?大問題になるのは火を見るより明らかです。なぜなら、その人たちの言葉を否定することは文化まで否定することになるからです。関西弁を禁止したら上方漫才が無くなってしまうかもしれません。

話を戻しますが、中国人にとっての普通話は、ヨーロッパ人にとっての英語とまではいきませんが、それに近い感覚なので、より深く、親密なコミュニケーションをしたい場合は、やはり普通話ではなく地元の言葉でやり取りする方がいいのです。そこにはニュアンスや暗黙の了解なども含まれます。

つまり、先ほどの工場の話に戻すと、エリアによって食事や言葉、習慣の問題などが異なるため、結局新しい人が入って来ても、その会社に居る人の大半が特定の地域出身の方が多い場合、それ以外の人にとっては居心地がよくなく、違和感が出てすぐ辞めてしまうため、残る人は結局同じエリアの人ばなりになってしまうというのが実情のようです。もちろんそうでない会社もいっぱいありますが、小規模の会社はこのような傾向が強いです。

ちなみに、地元以外の同族意識としては、元同級生だとか、特定のコミュニティに一緒に所属していたとか、昔一緒に暮らしていたとかです。

このような場合は、出身地が異なっていてもバックグランドが同じなため考えや思想が近くなりやすく、仲間意識が芽生えやすくなります。

ですので、兄弟や親戚同士で起業したというのは中国ではよくあることですが、同級生同士で起業したというのも少なくないです。

繰り返しになりますが、言葉や習慣が違うとこのように結構面倒くさいことが多くなります。起業したばかりであまり多くのリソースを割けない段階では致命的です。

大企業であれば、日本もそうですが、新人研修や手順書などもあり、半年やそれ以上の時間をかけてその会社の文化をたたき込める余裕がありますが、中小企業は余裕がないため基本は即戦力で、入ったらすぐに働いてとなります。

そういう意味では、似たもの同士だと管理の面では楽なので、最初は似た者同士で起業するというのはある意味理にかなっているとも言えますね。

中国は元朝を境に中国ではなくなってしまった?

以下は、上海人の友人が語っていた内容です。

宋までの中国と元以降の中国では違う。
というのは、中国人の間ではよく言われることのようです。

もちろん、今いる中国人が宋の時代までの中国人と、物理的に生態的にまったく異なるかというとそうではありません。中国では人口爆発と減少を繰り返しているため、全員が全員、昔の中国人と血統的につながっているかと言えば、それはそれで違うとは思いますが、つながっている人も多いでしょう。

ただ、これは血統的な話ではなく、文化やいろんな面で、異民族に征服され、漢民族の王朝を滅ぼされてしまった元以降とそれより前では、大きくことなると考えている中国人は少なくないです。

元に滅ぼされてからは違う中国人になってしまったと。中国では人は変わっても中国文化はずっと続いていますが、昔ながらの中国という国は実はもう存在しない。ということのようです。

このような複雑な思いを抱いている中国人は少なくありません。

なので、中国人が京都に行くのは、昔の中国を見に来るために行くのだそうです。昔の中国からすればミニ版ですが、京都の街並みや奈良の東大寺、日光の東照宮などに昔の中国の面影を感じるそうです。

かつては農業や医学がトップクラスだった中国

中国は過去から現在に至るまで様々な困難に見舞われてきました。ただ、そのたびに復活したのは、農業や医学が強かったからです。

日本がなぜ遣隋使、遣唐使を派遣し、危険を冒してまで中国に学びに来たかというと、当時の中国は、農業、医学、法律、刺繍、宗教などがトップクラスで、民間の人だけではなく、官僚も行っていました。

昔の中国は特に農業が強かったようで、お茶や大豆、キーウィまでもDNAを調べると中国が原産らしいです。もちろん、稲作技術も強かったのですが、栄養素としてお米は今でこそ主食ですが、昔はメインにはなりません。

余談ですが、栄養を取るのうえで重要なのは、炭水化物ではなくタンパク質。実際問題として、肉からタンパク質を摂ると体はムキムキになりますが、ニオイがスゴイ。また、体が熱くなり、暑がりになります。他方で、大豆からタンパク質を摂ると臭わないですし、前述の上火の問題もありません。動物性タンパク質と植物性タンパク質の違いですね。

中国では農業が発展したことで、それに関連して鉄の精練技術や錬金術が発達しました。当時の日本は銅の精錬技術のみだったようです。

当時の天皇や貴族たちは、国を管理するノウハウが欲しかったので、官僚が勉強しに中国に来ました。当時の航海技術は低かったので、民間人はそんなに行きません。

なので、中国に官僚を派遣することを考えた聖徳太子はスゴイらしいです。

中国文明は解明できないが、既に成り立っている

こちらも上海人の友人からの受け売りですが、近代以降は、中国は西洋科学と中国文化を調和して発展してきました。

一方で、西洋文明と中国文明では根本的に異なり、西洋科学ではいまだに解明されていないことも多くありますが、中国文明は既に成り立っています。西洋科学で解明できないことでも中国文明では既に分かっています。

たとえば、中医医学ではつぼとかが既にわかっていますし、八卦は普通では考えられない学問です。八卦は今では占いと言っていますが、元々は学問でした。これらは科学的には証明できませんが、今ではアメリカでも鍼灸をやる人が非常に多いです。

そもそも、西洋文明的な観点から考えると、昔はダメで、現在は常に昔より発展している。という考えですが、それは本当でしょうか?場合によっては、昔の人の方が今の人より賢いかもしれません。

つまり、繰り返しになりますが、中国文明は西洋科学ではまだ完全に証明されていませんが、たとえば、つぼや鍼灸をはじめ、身体に関することは効果があることがすでにわかっている。よって、西洋科学的に証明はできないことは多々あるが、すでににわかっていることが多いので、中国文明は既に成り立っている。

ということのようです。少なくとも、現状を鑑みる限りでは、西洋科学で中国文明をすべて解明することには限界がりそうですね。

中医学の奥深さは西洋医学では説明できない

もう一つ、西洋の方が東洋よりも科学も医学も優れているというのは間違いです。

たとえば、西洋医学は切ったり、交換したりというのは優れています。ガンを切除したり、白内障の手術で眼内レンズを交換するなどは、完全に西洋医学的な考えで、即効性がありかつ優れた解決策だと思いますが、根本的な解決にはなりません。ただ、

そもそもなぜガンが発生したのでしょうか?
なぜその病気になったのでしょうか?

それの原因を理解し、根本的に治す場合は、東洋医学的なアプローチが必要です。基本的にほとんどの病気は血が汚れることに起因しています。

西洋医学的な考えではこのような結論に至りません。東洋医学は時間がかかりますが、根本治療です。つまり、西洋医学は対処療法、東洋医学は体質改善で、そのアプローチの仕方は180度異なります。

たとえば、目が見えなくなりました。中国医学的な観点から言うと、それは、目が悪かったのではなく、肝臓が悪かったからです。

西洋科学で今見ると、目と肝臓が一つの細胞から分裂されたことが判明していますが、昔の中国人はなぜわかったのでしょうか?

目と肝臓がつながっているように、耳は腎臓がつながっています。皮膚は肺や大腸とつながっています。小腸が悪くなると目や喉が渇きます。

また、胃と膵臓はつながっており、消化は消と化では違います。

胃は消だけで、膵臓が化を実行する。
つまり、胃は中医学的にいうと溶かすだけで吸収しません。膵臓が吸収します。

このようなことは、西洋科学では証明できません。
鍼灸で、なぜ針を刺すと治るのかもわかりません。

これらは西洋科学ではいまだに証明されていないものの、アメリカとかでも鍼灸の試験があり、証明書が発行されると実際に治療ができるそうです。

だから、中医学は西洋医学とは違う理論でやっています。

中国の復活を支えてきた農業と医学の底力

これも上海人の友人が言っていたことですが、中国では、昔は勉強すると、つまり、医学を学ぶと大臣になるか医者になるか。と、言われたそうです。

ところが、第一次と第二次の2回の産業革命※1※2(章末参照)に参加していなかったため、近代では外国にいじめられました。

そりゃそうです。先生がいくら勉強しても戦えません。

ただ、打たれてもやられても直ぐに復活するのは、中国は農業と医学が発達しているからです。

昔は人口の限界が6000万人だったのが、その後、トウモロコシとジャガイモが取れるようになって変わりました。タンパク質が摂れるようになったことで、多くの人たちを養えるようなりました。昔は米や小麦を中心とした炭水化物だけだったのでエネルギーが不足していました。

人間のエネルギー源として、メインはやはり炭水化物ではなくタンパク質。中国では、トウモロコシやジャガイモ、豆などでタンパク質を大量に摂取できるようになってから人口が増えたようです。

と同時に、中国には何千年の歴史の中で培われてきた鍼灸や漢方をはじめとする医学の力があります。これは日本にも深く浸透している東洋医学の神髄です。

中国は歴史的に繁栄と衰退を繰り返してきました。

歴史上、ほとんどの国は繁栄した後に衰退し、それが固定化されて二度とかつての栄光を取り戻すことはできません。

ただ、中国だけは異なります。

その理由が、農業力によって人々の日々のエネルギー源を確保しつつ、病気を根本から治す中医学の力に支えられて、動乱や経済の衰退で人口が減ってもまた増やせる底力あり、中国は幾度となく復活してきたのだと思います。

※1
第一次産業革命:蒸気機関
第二次産業革命:電力化
第三次産業革命:コンピュータライゼイション(電算化)
第四次産業革命:人工知能(AI)、機械学習、ビッグデータ解析

※2
中国の産業は、第一次産業革命の蒸気機関と第二次の電力化はあまり経験しておらず、第三次のコンピュータ化の途中から本格的に参加した。最近は急速に発展しているが、第一次と第二次の時は他国と工業力に差があった。

最後に

いかがでしたでしょうか?

今回は中国雑学シリーズのその1~その5で書ききれなかった部分をカバーしましたが、正直まだまだネタはありますw

それだけ中国は奥が深いということかもしませんが、長くなりましたので今回は一旦ここまでとします。

では、次の投稿をお楽しみに!

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