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「たつき」の例文

知らない言葉や知っていても使ったことのない言葉に遭遇したときは忘れぬよう書き留めているのだけど、いっこうに身につかない。使わないから覚えないのだ。「たつき」を使ってみる。

 金魚はうまくやれば儲かるんだ、と聞こえた。昼下がりの駅のホームで、老夫婦と呼んだらぎりぎり失礼かなと思われる見た目の男女がケンカをしていて、夫のほうがそう言ったように聞こえた。
「金魚はうまくやれば儲かるんだ」
 ちょうど到着した電車の音がうるさかったので、確かではない。

 金魚が儲かるとは、どういうことだろう。養殖だろうか。家の外にいくつも水槽を並べている人をテレビで見たことがある。鮮やかな色や美しい模様の金魚は高値で売買されるらしいが、何百匹も育ててようやく一匹生まれるか生まれないか、くらいの確率だったような気がする。夕方まで寝てしまって起き抜けにとりあえず点けたテレビの記憶なので、確かではない。

 いずれにせよ、それなりに初期費用がかかるはずだ。回収し、儲けを出すところまでもっていくには何年かかるのだろう。夫婦の妻が怒るのも無理はない。人生のパートナーがそんなギャンブルを始めようとしたら、きっと私だって止める。ただ、本当に止めるかどうかは、確かではない。

 夫婦のケンカは出発した電車の中でも続いている。地下鉄はずっと轟音を立てているが、途切れ途切れに単語が聞こえてくる。確かに「金魚」と言っている。

 金魚を飲み込んでそれを吐き出す芸を見たことがある。お祭りの夜、神社の境内の端っこの妖しいテントの中で見た。もう二十年近く前のことでずっと忘れていたが先日アパートのトイレが詰まってしまいスッポンてやるやつを買いたくて名前を調べていたときにふと思い出した。人間ポンプという名のその芸を、やりたいと思った。あれこそが私の生きる道だと、突然そう思った。
 そして今、電車に乗って下町の駅を目指している。金魚をたつきとするために、まずはあのおじさんの弟子にならなければいけない。

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