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ケンチク日和:旧近藤邸

藤沢駅から江の島へ向かう国道467号。藤沢市民会館の敷地内、木立の中にひっそりと建つのは、国の登録有形文化財にも指定される旧近藤邸。1925(大正14)年、辻堂東海岸の松林の中、3,000坪という広大な敷地(野球場くらい)に、横浜の実業家近藤賢二氏の別荘として建築されていた。取り壊しの危機、保存運動ののち、1981年この場所に移築された。

設計はフランク・ロイド・ライトの日本における一番弟子、遠藤 (1889-1951)。ライトと共に〈自由学園明日館〉や旧〈帝国ホテル〉を手掛け、大正〜昭和に活躍した建築家だ。

旧近藤邸は関東大震災の直後に設計されたため、構造は木造軸組ではなくツーバイフォー(2×4)、屋根は瓦葺きではなく栗こば葺き(板葺き・現在はスレート葺き)と、建物を丈夫で軽量にすることが念頭に置かれた。屋根勾配も低く抑えられ、ある程度離れなければ屋根が見えない程だ。

かつては辻堂の松林の中に建っていた旧近藤邸。移築後もメンテナンスと周辺の清掃も定期的に行われている

建物自体の高さも低く抑えられていて、水平線を強調するのびやかな横板張りの外壁は、師のデザイン・建築哲学を色濃く引き継ぐプレーリースタイルそのもの。新は心底ライト建築に惚れ込み、その意匠性を日本の風景と調和させることにこだわった。また生活と風土に適した独自の様式を創り出すべく、和と洋、内と外を渾然一体となる建築を目指した。

“まづ地所を見みる。地所が建築を教へえて呉れる。いかに建築が許されるか。いかに生活が許るされるか。そしていかに生活が展(の)びられるか、其をそこの自然から学ぶ。”

これは遠藤 新の残した言葉である。

「全一なる対象として建築を考える」。「全一」(完全に統一していること:『広辞苑』)は、遠藤 新が生涯を通して貫いた建築哲学だ。

関東大震災以後、多くの建築家が「筋交」「ボルト」などの設置を提唱する中、遠藤 新はそれには賛同しなかった。筋交は壁を多く作ることになり、しばらくは我慢できても、やがて暑くて日本の気候には合わないから、というのがその理由だ。遠藤 新は壁に長板を水平に打ちつけ建物全体を連続させて総持ちにする工法を考案する。それならば通風も十分確保できるだけではなく、建物全体が互いに助け合う強い構造になるという主張だった。

ということはつまり、プレーリースタイルの意匠性だけを受け継いだのではなく、耐震性を考慮し構造的にも理にかなった横板張り外壁という訳だ。遠藤 新は構造美が意匠性を兼ね備えることを知っていたのだ。

やはり関東大震災から日も浅いということで、耐震性能には十分すぎる対策が取られたのだろう。しかも新がフランク・ロイド・ライト事務所から独立して間もないことを考えると、失敗は許されなかった。

フランク・ロイド・ライトのプレーリースタイルを継承しつつも、日本の気候風土・耐震性能に適応したザインとも言える長板横張りの外壁。市松模様のデザインがあしらわれた玄関ドア。軒も一段と低く抑えられている
南側の庭に面してL字にパーゴラ(藤棚)がめぐる。太めの立柱はデザイン上のアクセントであり、室内と外部との緩衝空間とも言える

もしかしたら、L型平面の家にしたのも、パーゴラ(藤棚)の立注が太めなのも、平屋部から突き出た暖炉の煙突を2階まで伸ばし、梁を渡し構造体の一部にしたのも、耐震性能を上げるためだったのかも知れない。少なくとも見た目には安心感があるのは確かだ。

煙突も建物を構成する要素のひとつとしてデザインされている


室内に入ってみよう。玄関の正面にはその先の庭へ抜ける両開きのドアがあり、視覚的にも抜けが良い。玄関ドアと同様のガラスがはめ込まれたデザインだ。そして右手に大居間兼食堂(16畳程)がある。南側の庭に面して開口は多いが掃き出し窓ではなく(両開きのドアがもう一箇所)、そして窓に沿って作り付けのベンチがある。ベンチの向かいには大谷石で作られた暖炉。垂直水平のコンポジションでデザインされた暖炉は、ライトも日本で多用した建材。柔らかくて加工がしやすく耐熱性もある。インテリアは和洋折衷で破綻なく整っている。

居間兼食堂の窓も市松デザイン。既製品のアルミサッシなどなかった時代、建築家の意匠の見せどころか。玄関との間は上部が抜けている
暖炉の大谷石はフランク・ロイド・ライトが旧〈帝国ホテル〉で多用した建材。しかも安定感のある積み方だ
菱形の明かりとりが印象的。大壁工法の和室だが、長押(なげし)でリズムを取り、なおかつ高さを変化させ、洋室との調和、建物全体との調和を生み出している


暖炉のある大居間兼食堂から続く和室は、一部格子のあるガラス窓で仕切られている。遠藤 新は完全に切り離された純粋な和室とせず、緩やかに空間を連続させる手法でデザインの統一を図った。ちなみに玄関ホールと大居間兼食堂の間の壁も、頭上は抜けている。

旧近藤邸には10畳の和室の他、南側に突き出た場所にも8畳+2畳分の板間の居室がある。近藤賢二氏には11人の子どもがいたそうなので、畳の間が多いのかも知れない。窓辺の造作長机では、子どもたちが並んで勉強をしていたのかも。

和洋折衷、独自のスタイルでまとめ上げた遠藤新。もうじき100年経つ訳だが、その意匠性は現代でも通用する
廊下からお手洗いを見る。左に洗面所、右奥に脱衣所、浴室が続く。2階へは右手の階段から。その手前には台所があったそうだが、今は何もない部屋になっている。居間兼食堂と台所の間には、廊下と玄関がある間取りだ。現代のLDKスタイルとは全く違う


2階に上がるとサンルームと呼ばれた板間が4畳程あり、そこからバルコニーに出られる。見学時は開放されていなかったが、居間兼食堂と玄関の真上が全てバルコニーなので結構広い。近藤一家はここでどんな休日を楽しんでいたのだろうか。松林の向こうに見える太平洋を眺め、カクテル片手にバカンス気分を味わっていたのかも。

2階には8畳の和室のみ。ベンチがあり収納も多めだ。畳と押し入れの襖がなければほぼ洋室と言っていい。ここは夫婦の寝室だったのか、または子ども部屋2だったのか。近藤賢二氏は子どもたちとこの別荘で過ごす時間を、とても大切にしていたと言われている。

2階のサンルームからは藤沢市民会館が見える。建物を救った市民に今も見守られているのだ
2階サンルームからバルコニーへのドア。窓、建具、ドア全て、デザインの統一性が図られている

旧近藤邸を見学して思ったこと。延べ床面積52坪の大きな別荘だが、現代でも通用するモダンで生活しやすそうな間取りということだ。ライト風建築の影響を抜け出せなかったという評価がつきまとう遠藤 新だが、変える必要がないほど、デザイン性と住宅性能の両立を果たした建築スタイルだったと、彼は考えていたのかも知れない。

ちょうど浴室と台所の間に気になる半野外の土間空間があった。薪や農工具などを置いたのかどうかは分からないが、なんとここから浴室、台所にそれぞれ専用ドアからアクセスできる造りなのだ。

今でももし、辻堂東海岸にこの建物があったなら、きっとサーフボード置きに使われていたかも知れない。台所にいる妻(もしくは夫)に「ただいま」と言った後、玄関を通らずにそのままシャワーを浴びる、なんてこともできるだろう。

なんと素晴らしいライフスタイル!100年後の現在、湘南地域なら別荘だけではなく、自宅としても需要がありそうだ。旧近藤邸の間取りをもう少しコンパクト(10畳の和室と女中部屋の4畳半をなし)にして、往年のプレーリースタイルで現代に蘇ったら、結構現実的な建築になるだろうと思った。

旧近藤邸は入場無料で見学できます。

ケンチク日和に如何ですか?

大谷石の玄関敷き。栃木県の採掘場から約200km。貨物鉄道で運ばれたのだろうか


〈建築概要〉

建物名:旧近藤邸
所在地:元・神奈川県藤沢市辻堂東海岸3-4
    現・神奈川県藤沢市鵠沼東8-1
施 主:近藤賢二(当時 朝日石綿工業社長)
    現所有者/藤沢市
設 計:遠藤 新(えんどう・あらた)
移築工事:鹿島建設(1981年)
構造規模:木造2階建て
敷地面積:約3,000坪(元所在地)
延べ床面積:173.39㎡(1階146.06㎡、2階27.33㎡)
建築年:1925(大正14)年/1981(昭和56)年移築


■主な外部仕様
 屋根:栗こば葺(軒裏一部しっくい塗)移築後はコロニアル
 壁 :下見板張(一部しっくい塗)
 建具:木製建具

■主な内部仕上げ
 天井:全室/しっくい塗
 壁 :全室/しっくい塗
 床 :板張/(和室/畳)

■設備
 暖炉:暖房/大谷石積(居間)
登録有形文化財(建造物)

藤沢市HP

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