ミズ・ミステリオーザ -ふくらはぎの刻印- (7)
コッコーラ・コレクション
屋敷の裏手で、黒い鳥がくちばしをボトルに突っ込んでいる。
カラス型コッコーラは、お屋敷の参謀として誰もから頼りにされる存在である。
けれどマヨラー。
アブラダモッチは笑いを堪えるのに必死。大きな楠の枝の上で寝そべっていたところ、目撃してしまったのだ。
犬型コッコーラはマヨネーズをたしなまない。それどころか、隠しておいたボトルを発掘して、ミステリオーザ婦人に渡してしまう。そのようにしつけられているらしい。さすがおかあさま、何かとよくわかっている。
小さな黒犬には、自分がカラスであるという意識は全くないらしい。一方で、カラスでいるときは、犬の時分の記憶が全て保持されている。そして、折角手に入れたお宝マヨネーズを、おめおめ自分の手で婦人にお返ししてしまったと悔しそうにぴょんぴょん跳んで荒れている。アブラダモッチは、これを密かに「コッコーラの地団駄ダンス」と名付けている。
葉月の強い陽射しのもと、植物たちは大層ご機嫌である。ご自慢の薬草園のお手入れに余念がないミステリオーザ婦人の回りで、カラス型コッコーラが草抜きのお手伝いをしている。
「抜くのはできるだけ最小限にね。野草にも、そこでの役割があるものなのよ」
おかあさまは、何かとよくわかっている、とその光景を眺めながらアブラダモッチは思う。
夏鶯の鳴き声が空に溶ける。空気のつぶが一つ一つ、お清めされていくようだ。森のどこかに巣をかけたものらしいが、まだ姿を見たことはない。いつか、あのような風流な声の出し方を習ってみたいものだ。
きゃあああああ。
入り口の花壇の向こうでひっくり返っているのはワカメ。風流な気分を台無しにされて、アブラダモッチはため息をつく。
ホニョーラの冷ややかな声。「学習なさいませんのね。先だっても、こちらの穴で転んでましたのにね」
「あい済みません、あの、先日お茶碗を割ってしまったお詫びに伺いました」
「気になさらなくても良いのに」言葉は丁寧だが、おかあさまの声音も冷ややかだ。
「退散しますね」アブラダモッチにそう囁き、コッコーラは翼を広げて飛んでいってしまった。犬型のとき、ワカメに抱いた感情がよほど不快だったのだろう、とアブラダモッチは思う。
「実は、失踪中の高梨洸一さんが最後に会った、とされているのが私なのです」
「善々珈琲の副社長さん。大統領の娘婿でもいらっしゃる」とおかあさま。お相手してあげるなんてえらい。
「はい。大学院の先輩で」
「若竹さんは、高梨さんと親しくしておいでだったのですか」
「大学院の時分にはとても。でも卒業後はご無沙汰で。それが、私が大統領にインタビューして書いた記事を見て連絡をくださり、お目にかかったのです」
しーん。今度は返事をしない。
なかなかに冷淡ではないか。
テーブルに置かれたのは紙コップだ。なるほど、また茶碗を割られてはかなわないから。
なかなかに邪険ではないか。
おかあさまは、何かとよくわかっている、とアブラダモッチは思う。
「先輩は、善々珈琲の豆を開発・改良したのは自分だって、それはそれは誇らしげでした」
ふーん初耳。
かつてお屋敷に迷い込んで倒れていた縄文人は高梨洸一だったと、アブラダモッチもみんなも確信している。音の鳴っているという縄文人。そういえば、ワカメさんからは「音がしない」って、コッコーラは言った。なかなかわからない、音とは何だろう。
「だから失踪なんて、信じられなくて」とワカメ。
「若竹さんは、高梨さんが山へ行きたいと言ったと証言なさいましたよね。新聞で読みました。登山中に遭難したのではないかって」
「あの、違うんです、先輩が好きなのは海で」
「どういうことかしら」
「先輩は山が好きだったって、ついこの間まで思っていました。でも違うんです、先輩も私と一緒で、海が好きだった。突然それを思い出して」ぐしゃ。ワカメに握りつぶされるとはさぞかし紙コップも無念なことだろう。「もう一つあって。交差点のところで先輩とお別れした、って警察にお話ししました。角を右に曲がって行かれましたって」あああ、もうそれ以上潰さなくったっていいじゃない。「でも本当は、左へ曲がられたのです」
「はあ」
「左へ曲がったら港です。先輩は、きっと船に乗ったんだわ」
「ははあ」
「私、どうしてこんなに記憶が無茶苦茶なのか、わからなくて」
「警察にちゃんとおっしゃったのかしら」
「何だか恐ろしくて、口にできなくて」
どうしてうちへ来て言うのか。このワカメ、本当に縄文人のことを案じているのだろうか、自分のことが心配なだけじゃないのか。アブラダモッチは少しばかり立腹して、背中の毛を逆立ててやろうかと思う。
そのとき、コッコーラの泣き叫ぶ声が空気を切り裂いた。
なにするの、やめて。こわい、たすけて。おかあさま、ホニョーラ、アブラダモッチ、たすけて。
あっという間にホニョーラが駆け出して、コッコーラとそいつの間に割り込んだ。行く手を阻まれたそいつは、ホニョーラにぶつかって転がる。アブラダモッチは飛びかかると、思い切り爪を伸ばして引っ掻いてやった。もうもうと立ち込める土煙、唸り声、怒号。
「ジロー、いけませんそんなことしちゃ」ワカメの金切り声。
コッコーラはおかあさまに抱え上げられてもまだ、震えが止まらないようだ。「あ、あいつ、わたしのこと、咥えて連れて行こうとしたの」
ワカメが引き離したそいつは犬だった。アブラダモッチの二倍くらいの大きさの、茶色くて毛の長い犬。
「も、申し訳ありません。いつもはとってもお利口なのに。本当に、申し訳ありません」泣き出しそうなワカメ。
「怨霊退散!」アブラダモッチはがなりたてる。
「これは一体どういうことかしら」おかあさまの口調がブリザード並みの冷ややかさを帯びている。
「あの、大統領からいただいたんです、ご愛犬の血をひく仔犬を」
「高梨大統領の犬って、ポチのことかしら」
「そうです、ポチの子供を譲ってくださって」
「ポチの子供がジロー」
「あの、二匹産まれて、タローとジローで」
「連れていらしたのなら、教えてくださらないと」
「私が転んでいる間に、姿が見えなくなってしまって。広いお庭で遊んでいるものだとばかり。本当にすみません」
「無礼にも程があると思いましてよ」とホニョーラ。あんな怖い声色を初めて聞いた。
「本当にすみません。でもこの子きっと、仲良くなりたいと思ってそれであの、その」
「お引き取りください」と婦人。
「あの、あの」
「もう、これでお引き取りください」
婦人の言葉にかぶせるようにアブラダモッチはもう一度、怨霊退散! と叫んだ。
一晩明けると、犬型コッコーラが、穴を掘り駆けずり回っている。元気を取り戻したようでよかった、と、アブラダモッチは安堵する。あらやだ、あたしったら心配なんてしちゃって。
「見て、アブラダモッチ、きらきらの新品のマヨネーズボトルよ」
「あらま」
「おかあさまに持っていってくる」
嬉しそうに駆け出すコッコーラ。お利口さんねって褒められて、おやつをもらうのだ。今夜あたり、地団駄ダンスが見られそうだわね。
アブラダモッチがお屋敷へ戻ってみると、婦人が神妙な顔でキッチンに立っている。
「コッコーラ、そこに居るんでしょ、出てらっしゃい」
扉の陰からおずおずとカラスが姿を表した。賢い割には、こういうところが抜けているわ、コッコーラ。アブラダモッチは真っ白な尻尾をくねらせて惻隠の情を表明する。
「これを見てごらんなさいな、コッコーラ」
「ああっ、なんてこと」
ボトルの中身はボウルにぶちまけられていて、マヨネーズの海に浮かぶ、小さな白いカケラが見えた。混入された薬が、溶け切らずに残ったものらしかった。
「お屋敷の御用達は三五〇グラム入りなの。あなたが盗み食いする量を、少しでも減らせればという親心ってやつね」
ああ、おかあさまは何かとよくわかっている。
「これは四五〇グラムのボトルなの。あなた、自分で自分を救ったようよ」
「あの、実験室で成分分析をやります」
「あなたのお得意分野ね」
「ええ、できます、やれます。あの、おかあさま」
「なあに」
「ありがとう」
「夕ご飯のきゅうりには、ちょっぴりマヨネーズ付けましょうね」
婦人がにっこり笑って、カラスを優しく撫でたので、アブラダモッチは安堵する。やだ、あたしったらまた、心配なんてしちゃって。
「あの犬は無音でした。しかもすごい匂いがして。あたくし、あんな匂いは久しぶりでしたの」とホニョーラが口火をきる。
アブラダモッチは、また音の話が出た、と思いながらも、すぐに話を引き取る。「あたしも、あいつを引っ掻いたとき、すごい匂いだと思った」
コッコーラもそれに続く。「わたしは犬でいるとき、ワカメさんがこわくてたまらなかった。それは、ワカメさんにその匂いが移っていたからでした」
「それは、どんな匂いなのかしら」婦人の問いに三人で声を合わせて答える。
「ひどく邪悪な匂い」
真夏の夜、雷鳴がとどろき、止む気配がない。
<続く>
ヘッダー画:R. Bonyari
お気持ちありがとうございます。お犬に無添加のオヤツを買ってやります。