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ミズ・ミステリオーザ -ふくらはぎの刻印- (8)

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ガルデーニア・ミステリオーザ・・・瀟洒な白壁の屋敷の女主人
ホニョーラ・マニョーリア・・・大きな白い犬
コッコーラ・ネロ・・・小さな黒い犬/カラス
アブラダモッチ・ティグレ・・・尻尾の白いアメショ猫
オルテンシア・ヴェルナーレ・・・ミステリオーザ婦人のダーリン
若竹翠・・・新進気鋭の遺伝生物学者。稲木大学准教授
高梨洸一・・・善々珈琲副社長。化学者。善造の娘婿
高梨善造・・・善々珈琲創始者。現職大統領。洸一の舅


犬は裏切らない


 生まれた瞬間から、周りが話していることは全部理解できた。
 目が開いた時には、文字を読んでいた。
 誰もがそうじゃないってことも、わかっていた。これは、おもてに出してはいけないこと。ボク達があたりまえのように理解していることを、わからないヤツはとても多いってことも。
 ボクはチロ。
 ポチという名の二歳年上の兄がいる。
 ボク達はゴールデンレトリバーとスタンダードプードルのミックスだ。ゴールデンドゥードル。
 ポチはゴールデンレトリバーのように、毛がサラサラしている。
 ボクはプードルの血が濃く、毛がちょっとばかり、クリクリしている。

「チロ、元気ないな」そう言いながらポチが部屋に入ってきた。ここはこういちくんとボクの部屋だ。「こういちくんがいなくなって寂しいのか」
「まあね。そりゃ、十二年も一緒に暮らしてきたんだもの」
 こういちくんは、とうさんの娘婿だ。とても有能な化学者ということで、とうさんが目をつけて自分の娘と結婚させた。まだ仔犬だったボクは、結婚のプレゼントという名目で、こういちくんと暮らすことになった。
 こういちくんはいい奴だからとても喜んで、ボクをかわいがってくれた。犬がしゃべるなんて、って驚いたりしなかったし。義理の父の愛犬と、兄弟の犬をもらうなんて最高の信頼関係だ、って嬉しそうだった。
 ボクはこういちくんととても仲良くなった。いつも一緒にいて、色んな話をした。こういちくんは、自分の妻に話さないようなことでも、ボクには全部教えてくれた。ボクの高い知性を悟ってくれて、専門的な化学のことまで議論したのは最高に面白かった。
 こういちくんの妻も、とうさんの妻も、いつも笑っていた。
「うちのひとは、それはそれは犬が好きで、犬と話ができるとか考えていることはお互いツーカーだとか、って言うのよ」
 まあね。わからないヤツは、そのままにしておけばいい。そもそもボクたちはとうさんと、こういちくんの前でしか、話をしない。
「とっておきのニュースがあるんだが」ポチが尻尾を振っている。「ジローが、こういちくんの匂いを見つけたらしい」
「何だって。死んだんじゃないのか」
「とうさんも、アイツはNSPでもないのに、って首を捻っている」
 ポチには、今年生まれた二匹の息子がいる。タローとジロー。ボク達によく似て体格の良い茶色い犬。とうさんの力を以ってしても、ボク達のような高い知性を持つ犬はなかなか生まれない。タローとジローは、ついに誕生した後継者だ。
 タローはとうさんの手で英才教育の真っ最中。
 ジローは、他所へやられた。ボクと同じように、重大な任務を帯びて。
「ジローのお手柄なんだ」ポチも意外に親バカだ。目尻が下がっている。「みどりさんと一緒に、妙な屋敷へ行ったそうなんだが、そこに匂いがあったと」
「妙な屋敷?」
「大きな白い犬と、小さな黒い犬と、縞模様の猫と、人間の女性がいて。ボク達のように、しゃべるらしい」
「ボク達以外にも知性を持った犬猫がいるのか」
「知性のほどは知らん。黒犬がカラスに変身するというから、ジローに攫わせて調べようとしたんだが失敗に終わった。その際、白い犬と縞模様の猫に、散々やられたらしい、乱暴な奴らだ」
「みどりさんのところにジローをやったのは正解だったな」
「そりゃそうだ。とうさんのやることに間違いはない。ジローに言わせると、みどりさんにはやはり胡散臭いところがあるらしいし」
 こういちくんの、大学院の後輩だという遺伝学者のみどりさん。要注意人物だから、インタビューっていう名目で呼び出して、とうさんが直々にチェックした。
「あれはなかなかに手強いNSPだからな。あの場では、とうさんと僕とで仕留めて刻印しておいたけれど、油断ならない」
 それでまだ仔犬だったジローがみどりさんの監視役として行くことになったわけで。
 ボクは思い出す、仔犬だった頃とうさんに言われたことを。
「いいかい、チロ。お前はあの男と暮らしなさい。あの男と仲良くして、たくさん話をしてやりなさい。何でも、私とポチに全部報告すること。これは、お前にしかできない重大な任務だ。わかったね」
 責任重大と奮い立つあの気分は、今でもボクの宝物。
 きっとジローも同じ思いだろう。なにしろ、みどりさんとの暮らしはまだ半年だ。これからさらに、関係を深めて探りを入れていけ、がんばれよ、ジロー。
「なあ、チロ。こういちくんの記憶はどのくらい戻ってたんだ」
「全部ではなさそうだが。少なくとも、逃げないとヤバいって思えるくらいのレベルまでは」
「そうか。お前にしちゃ、マズったな」
「それを言ってくれるな」
 こういちくんには秘密があった。ボクだけに、内緒だよって教えてくれた秘密。
 ボク達に仕込まれている、記憶コントロールウィルス。成犬になると唾液に現れる。これを排除する抗ウィルス薬を作って、自分で試したのだという。
 こういちくんが高梨家に婿入りすると、とうさんはまず、このウィルスを使って色々な記憶を消去した。つまり、ポチにこういちくんを噛ませたわけだ。不都合な記憶は消去した状態に保たれていた。
 でもこういちくん、ウィルスを排除して、思い出してしまったのだ、みどりさんと自分が結婚寸前の仲だったってことを。そして気づいてしまったのだ、こうやって沢山の人が記憶を操作されていることに。
 あの日こういちくんは、ボクがとうさんとポチに報告しているのを、聞いてしまった。ボクとしたことが初歩的なミス。うっかり、部屋同士を結ぶ通話機のスイッチを踏んでしまっていたのだ。
「後悔しているよ。こういちくんにあんなに泣かれてしまって」
「お前、こういちくんのことが好きだったのか」
「そりゃあね。いいやつだったもの」
 ボクは、本当にしまったことをした、と思っている。
 こういちくんは、とうさんに見込まれて、理想の国を作る手伝いをしていると誇りにしてきたから。でももしかしたら、化学を悪用しているのではないか、って悩んだりもしていたから。「誰にも話せないけど、チロがそばにいて励ましてくれることが僕の心の支え」って、言ってくれた。
 もう少し気を付けていたなら。こういちくんは、もっともっと、大切なことをボクに話し続けてくれたはずだし。そしたら、ボクはもっともっと、大切なことをとうさんに伝え続けることができたのに。こういちくんがいなくなった今、ボクには存在価値がない。
「こういちくん、そのお屋敷に逃げ込んだのかな」
「とうさんに逆らうなんて信じられない」ポチが呆れた、という風に言う。
 ボク達はとうさんを尊敬している。崇拝といってもいい。
 とうさんは大統領という地位について、人間からも尊敬されている。それはボクたちの誇りでもある。一番大切な人、ボク達のすべて。
「こういちくんは、いなくなる前の日に、『まさかチロに裏切られるなんて思ってもみなかった』って泣いたよ」
「お前、どうしてそこでこういちくんを噛まなかった。もう一度記憶コントロールウィルスを注入すれば良かったんじゃないか」ポチに言われると悔しい。
「ボクはこういちくんが好きだった。だから躊躇してしまって、その隙に逃げられた、けど、とうさんを裏切るつもりなんてない。犬は決して、裏切ったりしないんだ」
「こういちくんがいなくなって、とうさんはあんなにショックを受けている。進めて欲しい研究があるのに、って。とうさんが、こういちくんの能力を高くかっているのは、わかってたはずなのに」ポチがなおも言う。
 ボクは叫ぶ。「こういちくんはとうさんを裏切った」
 こういちくん、どうしてだよ。
 ボクはこういちくんのこと、好きだったよ、だけど。
 ボクの一番大切な人はとうさん。ボクの世界は、とうさんでできている。
 あたり前じゃないか。

<続く>


ヘッダー画:R. Bonyari

お気持ちありがとうございます。お犬に無添加のオヤツを買ってやります。