ミズ・ミステリオーザ -ふくらはぎの刻印- (5)
大統領の珈琲 (前編)
文月になりたての今は、海水浴にまだ少し早い。
ざざざーん。
砂浜に打ち上げられた海藻が朝日に浮かびあがる。その一つがムクムクと動く。ロングヘアーのご婦人若竹翠、通称ワカメ、早朝ヨガの最中なのである。
気分爽快のはずであったが、胸中からは、もずくのようなもやもやが消えない。
私は海が好きで。あのひとは、山が好きだった。
あのひと。
どうしてあのひと、なんて思うのかしら。ただの、大学院の先輩じゃないの。
失踪中の善々珈琲副社長にして大統領の娘婿、高梨洸一と最後に会ったのは自分。警察からもさんざん事情を聞かれた。
あのひとのことが気になって気になって、憑かれるように歩き回って。ヘンテコなお屋敷に迷い込んで。
いやいやカラスが犬になっただなんて、そんなこと口が裂けても言えない。稲木大学の准教授で新進気鋭の遺伝学者なのに。その上、あのヘンテコ屋敷では犬や猫が話をしていて、帰ってきたら、うちのジローまで喋り出して。せっかく大統領に気に入られたのに、お譲りいただいた仔犬と話ができるんです、なんて言えるわけないじゃない。
「大統領との愉快な対話」インタビューの終了直後、官邸で意識を失って倒れるという大失態を冒したことだし。過労がまだ残っているんじゃないかとか、しばらく大学を休んだらどうかとか、憐みの目を向けられるのがオチだ。
朝の海は水面がキラキラ。お昼になるとギラギラだけど。今のこの濁点の無い感じ、いいなあ。静かに笑ってみるみたいじゃない。
そういえば笑っていたなあ、大統領。何が可笑しかったのか、よく覚えていないけど。
実際お目にかかってみたら、テレビで観たとおりのロマンスグレーのおじさまだったのにはグッときた。ちょっとだけぽっちゃりだけど、それもご愛嬌と思えるような豊かな表情、二重の目元に笑いじわ。年齢を感じさせないエネルギーに満ちた瞳。そしてスーツのセンスも抜群だった。色合いは一見地味だけど、グレーの地にさりげないピンクが混ぜられ、仕立てが良いのがよくわかる。そもそも七十代も半ばになると、サイズが微妙に合わなくなってゆく服を、だましだまし着続けるのが庶民というものでしょう。シャツの襟だって、袖丈だって完璧なサイズでオーダーメイドに間違いない。さすが高梨善造、世襲の大物政治家、見た目も中身も人を惹きつけてやまない。
それなのにあのひとは、どうして大統領のことをあんなに悪く言ったのだろう。
そろそろ帰ろうかな、と思いながら翠はふくらはぎをさする。「NSP」の文字は日毎に濃くなり、今でははっきり読める。Non Standard Product、大統領の刻印だと、あのひとはそう言ったけれどそんな、馬鹿な。
ワカメの迷い込んだお屋敷では。
敷地は五三八〇坪あるのに、地図には見当たらないそこでは。
猫のアブラダモッチ・ティグレは、神妙な顔つきで座っている。右斜め前にミステリオーザ婦人、左斜め前にカラス犬コッコーラ・ネロ。
「それでは始めます」
正面のホニョーラ・マニョーリアが、真っ白な椅子の上から厳かに宣言する。
四人で囲んでいるのは淡い光を放つ球体。ホニョーラが、ワカメから読み取ったものを投影して見せてくれるのだという。はじめての経験に、アブラダモッチはどきどきする。
「これは、お月さまね」
「湖に浮かんでいるのをとってまいりましたの」ホニョーラが口角を少し上げて応じる。これはなんと言ったっけ、そうアルカイック・スマイル。
だから今夜は月蝕、とアブラダモッチはつぶやいた。
月の中に像が浮かびあがってくる。
―大統領の愛読書を紹介した記事の中に、リチャード・ドーキンス博士の「利己的な遺伝子」があるのを見て、とても感激しておりました。
そうでしたか、若竹さん。ご存知のように、生まれてこのかた、私の生活は政治が中心でした。しかしずっと、生物学に対する憧れを抱いていたのです。プライベートでは、そのような本を読んだりもします。昨今の進化論も、遺伝学も、大変に興味深い。
―とても心強いお言葉です。
私は遺伝の研究を続けてまいりました。たとえば農作物では、優れた品種同士をかけあわせますね。収穫量が多いとか、病気に強いとか、味が良いとか、そういうものを選別して育てている。これは、誰しも異存のないところだと思います。
家畜もそうですね。
―おっしゃる通りです。犬や猫のようなペットも、ですね。人にとって望ましい性質、サイズや毛色、形などを求めて、交配が繰り返されてきました。
ここにいるポチは、ゴールデンレトリバーとスタンダードプードルのミックス犬ですよ。ゴールデンドゥードルと呼ぶらしい。
―まあ、ポチ。毛がサラサラで、素敵なワンちゃん。
本日は、政治と遺伝の関わりについて、伺ってみたいのです。
ふむ。「国民健康遺伝子法」について話したい、そうですね。
―はい、そのとおりです。我が国では、病原遺伝子のない精子と卵子を選択的に受精させるという法律が、三十七年前に制定されました。私の生まれた翌年にあたります。
「国民健康遺伝子法」は、私の父が成し遂げた偉業だと思っています。あれから病人は減り、増える一方だった医療費は、あっという間に減少に転じたのです。介護費用も、遠からず減るでしょう。何しろ、これからは元気なお年寄りが多くなりますからね。
―はい、精子と卵子の段階で選別することで、法律の施行後に生まれた人々では、あらゆる病気の罹患率が、劇的に低下しています。
しかしながら、気になるデータがありまして。
まず、法律施行後に生まれた世代では、平均身長・体重の値が従来のものを下回るようになり、現在では下げ止まって固定されています。
ははあ。
―それから、全国学力統一テストの平均点が高くなっています。
それがどういう関係が? まあ、悪いこととは思わんのですが。
―犯罪件数は激減して、少年院も刑務所も規模縮小。政治への参加も熱心で、選挙の投票率は九〇パーセントを越え、しかも与党支持。これは、全世代に見られる傾向です。
(ポチよりエージェントのみなさんへ。「紅」を発動。紅のマイクロ波、照射開始せよ)
珈琲がはいったようです。どうぞ。
―ああ、いい香り。もちろん、善々珈琲ですね。
気に入っていただいているでしょうか。ご存知だと思いますが、うちの農園で選りすぐりの木を交配させて生まれた「紅の善」、あれの特に高級な豆を使ったハイグレードなものですよ。
―わあ。ありがとうございます。ポチが、おすすめですよ、って言っているような顔をしていますね。
若竹さんのことが好きみたいですよ。どうぞ、ゆっくり味わってください。
―あの、申し上げたかったのは、法律施行後には、病気の罹患率だけではなくて、人々の体格や性格にまで変化が生じているようだ、ということです。
遺伝の話をしているのではないのですか。
―つまり、精子と卵子を選別する段階で、病原遺伝子を省くだけではなくて。体格をある範囲に収めるとか。優れた知能、体制に対して従順だとか争いを好まない気質といったものも、選択されているのではないかと。
それは遺伝子を過大評価していますね。気質なんて、遺伝子でコントロールできるものよりも、環境の影響がずっと大きいですよ。一卵性双生児を別々の家庭で育てたら、学校の成績だって性格だって、随分と変わるでしょう。親だの友達だの、周りにあるものが及ぼす力の方が圧倒的に強い。若竹さんは専門家だし、そのくらいのことは、ご存知のはずですが。
―もちろん、環境因子の影響はとても大きいです。しかしですね、犬ひとつとっても、人間に有益な形質が選ばれて、交配を制御して現在があるわけですよ。胴長のダックスフントはアナグマ猟向き。パピヨンのような愛玩犬。人為的な選択でもって多数の犬種が作り出されたのは、ほぼ一九世紀。そこで爆発的に生じているのです。
ですから人間だって、今なら望みのままに。
まさかそんな。種の根本というのは、変えようとしても変えられませんよ。確かに、色んな犬種というのは、人の手で交配を繰り返したから存在するわけだけれど。逆に言えばどれだけ工夫を重ねたところで、その程度の変化しか生まれないということで。犬からカラスを作ることはできませんからね。
―ヒトという種の中で新たな動きが生じていると思うのですよ。国民の体格を小さくすれば、エネルギー必要量は減り、食糧は少なくてすみます。粒ぞろいの優れた知能、従順な気質、争いのない集団、なんと都合の良い社会が出来上がることでしょうか。
(ポチよりエージェントのみなさんへ。珈琲は全量摂取、紅のマイクロ波は限界量まで照射。判定は効果なし。「紅」は効果なし)
あははは。貴女の話すことは、SF小説みたいだ。
そうそう、今度の夏に向けて新しい豆を売り出しますよ。アイスコーヒーにもってこいだと思ってね。持って来させますから、感想を聞かせてください。
(ポチよりエージェントのみなさんへ。「燦々」を発動。燦々のテラヘルツ波、照射開始せよ)
―これはまた、味わい深いですね。苦味とコクが絶妙で、クセになりそう。
あらすみません、汗が止まらなくなってきて。
(ポチよりエージェントのみなさんへ。体温上昇は想定範囲内。続行よし)
エアコンの温度を下げましょう。
―ありがとうございます。お話の続きを。えっとえっと。大統領が進化論や、遺伝学にも造詣が深くていらっしゃることがよくわかりました。それであの、遺伝と政治、ということで、「国民健康遺伝子法」についてお聞かせいただければと。
<続く>
ヘッダー画:R. Bonyari
お気持ちありがとうございます。お犬に無添加のオヤツを買ってやります。