ミズ・ミステリオーザ -ふくらはぎの刻印- (4)
ホニョーラの憂鬱
キミはどこ、とダーリンさんが叫んでいる。
意外と寂しがりなのでしょうか、とホニョーラは考察する。
「ガルデーニア、キミがいない」
はいはい、ただいま、とミステリオーザ婦人が現れると、ダーリンさんは哀しげに指を差して見せる。人差し指の向こうに目玉焼き。黄身の部分だけが見事に消え失せている。
うふふふ。
「このところ、不思議なことが立て続けに起きています」カラス型コッコーラが首を傾げた。「縄文人が迷い込んで倒れていた。アブラムシ(アリマキ)の形をしたロボットが侵入して、薬草園が焼けた。そして黄身がいない」
婦人がそういえば、という。「この間ね。ケーキを焼こうと卵を三つばかり割って、ちょっと外して戻ってみたら、黄身だけ消えていたのよ」
「そういえばこの間、あたし変なものを見た」と猫のアブラダモッチ・ティグレ。「月のようなものを咥えて、黄色い毛の生えたもじゃもじゃの生き物」
お屋敷パトロールに使命感を燃やすホニョーラ・マニョーリアは、大きな白い体に緊張をみなぎらせた。
瀟洒な白壁のお屋敷、本日の朝食はsunny-side upのsunny抜き。
「世界から太陽がなくなると、こんな風に味気ないのだろうか」と、ダーリンさんが嘆いている。
朝食が済むと、ホニョーラは定例パトロールに出掛ける。火事のあと植え付けられた薬草の苗は、水無月の湿り気と、初夏の陽射しを浴びて順調に育っている。
花壇に真っ白な紫陽花がきらきらしているあたりに差し掛かったとき、バサバサと音がして、黒い影が脇に降り立った。
「ホニョーラ、これを見てください」カラスが持ってきたのは新聞。「似ていると思いませんか」
『善々珈琲の副社長が失踪』
「そうですわね、髪を切って整えて、髭面にしたら、あの縄文人にそっくり」ホニョーラは記事に目を通す。
『善々珈琲の副社長、高梨洸一氏が失踪したと、警視庁より発表があった。最後に姿を確認されたのは、自身の店の一つ。そこで、大学院時代の後輩であった稲木大学准教授と珈琲を飲む姿を目撃されたのが二ヶ月前のことである。
准教授の証言「店の向かいの公園を通って、港へ向かう交差点のところで別れました。山へ行きたい、学生時代の趣味だった登山をしてリフレッシュしたいとおっしゃっていましたが、まさかどこかの山で遭難なんてことは。心配です」
善々珈琲の現社長は高梨大統領の一人娘、高梨良子氏。洸一氏は娘婿である。家族で愛犬を囲んだ写真は誰もが一度は目にしたことがあるだろう。
善々珈琲は春に三十周年記念ブランド「燦々の善」を発表したばかりで、その味わいはホットもアイスにも合うと評判だ。会社は業績好調であり、洸一氏の人柄は温和で恨みをかうようなこともなく、失踪の理由は思い当たらないと関係者は首をひねっている』
「たいしたことは掴めていないようですこと」
「おかあさまとアブラダモッチにもお話してきます」
「お願いしますね、コッコーラ」
コッコーラは犬になると平仮名しか読めないので、カラスでいる時に、新聞だの本だのをまとめ読みするのだ。カラスと犬の変身をコントロールする術は、自分でもわからないらしい。
カラスが去ると、ホニョーラは緑の野を揺らしながら森へ向かってリズムよく歩く。ログハウスまで来ると扉の前に寝そべって、前脚にあごを乗せた。ふさふさの尻尾に、ひらひら、蝶々が遊ぶ。
こうしているといろんなことを思い出す。
台風の通り過ぎた朝、ずぶ濡れのコッコーラが花壇のところにうずくまっていたこと。根気よく、いろんなことを教えてやって。
「おかあさま、コッコーラは平仮名が読めるようになりました」
「すごいわ」
ある日、三人で絵本を見ていると。
しゅううう。
黒い犬の全身が煙に包まれ、カラスへと変身したのだった。
ホニョーラと婦人は、まあ、そんなものかも、と頷き合った。
カラスは賢く、あっという間に全てを理解した。飽くなき知識欲の持ち主で、特に化学には並ならぬ興味を示し、屋敷には彼女のための実験室が完備されるに至った。今や、百科事典よりも頼りになるブレインである。
アメショ猫のアブラダモッチ。花壇のところから現れたと思ったら、そのまま居着いている。とりすましている割にはしょっちゅう、あたくしの背中に乗りたがって。実は寂しがりの甘えん坊でしょうけれど、ちょっと斜に構えたり、拗ねちゃったり。でもまあ、このまま見守っておけば大丈夫だと思いますの。
しゅううう。
だってアブラダモッチも、まあ、そんなものかも、と言いましたの。
けれどもダーリンさんは、まだ見たことが無いはず。おかあさまの大切な人だとはいえ、用心するに越したことはありませんの。何事も自分で腑に落ちるまでは。
そして、目下の問題点としまして、
アブラダモッチは、あれを見ましたの?
コッコーラは、気づきましたの?
きゃあああああ。
考えごとは、悲鳴で中断された。
真っ先に駆けつけてみると、お庭の一画にワカメが派手に散らかされているのだった。
ロングヘアーのご婦人が、犬型コッコーラがそこかしこに掘り散らかした穴にやられたらしかった。
「こんな良くしていただいて、ありがとうございます」
婦人の淹れてくれたお茶で、ひと心地ついた若目婦人は名刺を取り出してご挨拶をしてくれる。
あらま。稲木大学准教授、若竹翠。
「人を探していたのですが、素敵なお屋敷に見惚れてしまいまして、ついふらふらと」
「どちらから入って来られたのですか」と婦人。
「あの、花壇のあるあたりです」指差すワカメ。
あらま。なぜに、花壇が見えるのでしょう。ホニョーラはそっと婦人の顔を見る。
婦人も、あらま、というように目を細めている。
しゅううう。
このタイミングでカラス、黒犬へ。
ガッシャーン。
カップを取り落としてしまうなんてワカメ若気の至り、ですわね。リチャードジノリの果物柄が無惨ですの。でも動揺一つ見せないなんてさすが、おかあさま、とホニョーラは静かに尾を振る。
婦人の静かな声。「驚かれたようですわね」
「すみません、大切なお茶碗を。どうしよう」動揺するワカメ。
ホニョーラも尋ねる。「驚かれたようですわね」
「え」振動するワカメ。
犬がしゃべった、って顔に書いてありますの。
ややあって、ワカメは口を開く。私、動物の遺伝の研究をしているのですが、このような生き物を見たのは初めてでして。
「驚いてるってわけ」これはアブラダモッチ。
あらワカメさん、適応が早いです。犬がしゃべるなら猫だって、って顔に書いてありますの。ホニョーラはじっと観察する。
コッコーラは、というとテーブルの下で震えている。婦人の呼びかける声。
「お茶碗が割れただけよ」
「こわいの」
「そう、コッコーラ、怖いのね」
「とてもこわい。この人、音もしないのよ」
「そうね。おかあさまが抱っこしてあげるから、大丈夫」婦人はコッコーラを片手で抱きあげると、もう一方の手で悠然と破片を片付ける。「それで、人を探してらっしゃるとか」
「ああそうでした」ワカメ色のバッグから写真が取り出される。「この人を見ませんでしたか」
あら縄文人。副社長。
「新聞に載っていた方かしら。こちらでは存じません」と婦人。
「あたくしも存じません」とホニョーラ。
「あたしも知りません」とアブラダモッチ。
「こわいの」とコッコーラ。
婦人があやすようにコッコーラを撫でながら引導を渡す。「お役に立てず、残念です」
みんなの大好きなハンバーグを作りましょう、とおかあさまが言った。卵も届いたことだし、ふわふわの素敵なやつを。ホニョーラは嬉しくなって婦人の周りをうろうろする。
ボウルに卵が割り入れられて、あ、おかあさまちょっとあちらへ行っちゃったし、うふふふ。
「まただわ」
婦人がもう一度新しい卵を出し、ハンバーグを練る。犬猫の分は、玉葱の代わりに白菜が入る。
漂う肉の甘く妖艶な香り。待ちきれなくてそわそわする。
「あはは」とアブラダモッチ。
「うふふ」とコッコーラ。
「おほほ」と婦人。
きょとんとするホニョーラ。みんなの視線が自分の胸に注がれていて、ああ豊かな黄色の毛並み。恥ずかしさのあまり身悶えする。
「ごめんなさい。あたくし黄身をいただきました」
「前からみんな知っていましたよ」
「えええ」
もうコッコーラの掘った穴に隠れてしまいたい。
「食べ過ぎは良くないのよ。卵は毎日一つずつにしましょうね」
「おかあさま、コッコーラ、アブラダモッチ。本当に、ごめんなさい」
夜も更けて、居間には今、ホニョーラと婦人が二人。
「おかあさま。あたくし、見えました」
「見えたのね。お話してもらえるかしら」
「ええ。準備しておきます」
「お願いね」
「あの、おかあさま。ダーリンさんは、まだコッコーラのことを」
「オルテンシアは、コッコーラが犬のときにしか、居合わせたことがないわね」
「大丈夫でしょうか」
「どうかしらね。でも、コッコーラはあの人に怯えたことはないわ。今日のあの、ワカメに対してのように」
ホニョーラはしばらく、瞳に三日月を映して考え込む。そうですわ、ダーリンさんのことは当面の問題ではなくて。
「あたくしは心配なのです」
「ダーリンが?」
「いえ、あのワカメが戻ってくるような気がするのです」
<続く>
ヘッダー画:R. Bonyari
お気持ちありがとうございます。お犬に無添加のオヤツを買ってやります。