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ミズ・ミステリオーザ -ふくらはぎの刻印- (13)

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ガルデーニア・ミステリオーザ・・・瀟洒な白壁の屋敷の女主人
ホニョーラ・マニョーリア・・・大きな白い犬
コッコーラ・ネロ・・・小さな黒い犬/カラス
アブラダモッチ・ティグレ・・・尻尾の白いアメショ猫
オルテンシア・ヴェルナーレ・・・ミステリオーザ婦人のダーリン
若竹翠・・・新進気鋭の遺伝生物学者。稲木大学准教授
高梨洸一・・・善々珈琲副社長。化学者。善造の娘婿
高梨善造・・・善々珈琲創始者。現職大統領。洸一の舅


たましいの音


 アブラダモッチもホニョーラも、なかなかの喧嘩けんか巧者なのである。
 そこへ、コッコーラが空中から加勢してくれる。
 チロもジローも、ミックス犬のゴールデンドゥードル。大きな体には猟犬の血が流れ、身のこなしは達者。
 しかしながら、常日頃より五三八〇坪の敷地内を駆け巡っている犬猫コンビ、鍛えられ方が半端ない。
 ホニョーラが山のように立ちはだかり、二匹を転がす。アブラダモッチはその機を逃さず躍りかかり、鋭い爪で腹を狙う。たたみかけるようにホニョーラが牙をたてる。チロとジローが体勢を立て直そうとすると、コッコーラが舞い降りてきて、くちばしで突く。
 この野郎、とわめいていた二匹の犬が、次第に無口になっていく。分はこちらにある、と、そんなちょっとした油断というやつが忍び込む隙があったかもしれない。
 何度目かのコッコーラの降下、低すぎる、とアブラダモッチは直感した。あっと言う間にに、チロの牙が左の翼を捉える。振り回されるカラス。
 張り詰めている戦いの糸が変な方に揺れる。
 しゅううう。
 カラスは黒犬になってしまった。
 こわい、こわい、たすけて。
 犬型コッコーラは、左の前脚を引きずりながら無茶苦茶に走る。
「コッコーラ!」ホニョーラの気がそれる。
 その瞬間を、ジローは見逃さなかったようだ。茶色い体が白い犬を一気に組み敷いた。柔らかい喉元を狙っている。白いふさふさの毛が、すぐに致命傷を負うのを防いでいるが、ジローの若くて立派な牙が、じりじりと頸動脈けいどうみゃくに迫っていく。
「ホニョーラ!」アブラダモッチは加勢しようとするのだが、チロが立ち塞がり、前脚を噛み砕こうと真っ赤な口を開ける。
 木蓮の根元に震える小さな黒犬。
「コッコーラ、ホニョーラを助けて!」チロの攻撃をかわしながら、アブラダモッチは叫ぶ。
「こわい、こわいの」
「あなたならできる、コッコーラ」
 どうすればいい。アブラダモッチは願う、大いなるものよ、いでたまえ。
「行け、コッコーラ」
 えっ、本当に出た。違う、あれは、ダーリンさんの声。さっきコッコーラを抱いてなだめてくれていたダーリンさんの。
 はじかれたようにコッコーラが、たたたた、と走り始める。そしてホニョーラを押さえつけているジローの後ろ脚をカプ、と咬んだ。
 大した攻撃ではなかったが、背後から急に襲った効果はてきめんだった。
「うわあああ」ひるむジロー。
 刹那せつな、ホニョーラの全身が弓のようにしなり、跳ねた。血走った赤い眼の白い犬が、ジリジリと二匹に迫る。
「おいジロー、あれでやっちゃえよ」チロがニヤリとする。
「いっちゃいますか」ジローはひょいと尻尾を振ると、
 ぶううううううう。
 盛大におならをしてみせた。
「なんてお下劣な」ホニョーラが顔をしかめ、
「くさーい」コッコーラが怪我をしていない方の前脚で、鼻を擦る。
「ほんとお下品」アブラダモッチは木蓮の上の枝へ駆け登って避難することにしたのだが、あれ、下の様子がおかしい。
 大きな白い体がよろけている。小さな黒い体はパッタリと倒れてしまう。
「毒ガスよ、逃げてアブラダモッチ」振り絞るようなホニョーラの声。
 チロが、舌舐めずりしながらホニョーラとコッコーラに近づいていく。
「ホニョーラさん、お上品に構えていたって、そのザマじゃあもうおしまいですね。ひひひ」
「卑怯者。邪悪な犬」ホニョーラの声が消えそうに小さい。
「好きなだけ、ほざけばいいでしょう。綺麗な白い毛が、血に汚れて台無しだ。ぼくたちが洗って、毛皮にして、とうさんの居間に敷いてあげましょうか。ひひひ」
 アブラダモッチの中で大きな塊が爆発しようとしていた。毒ガスを使うなんて卑劣な。許さない、絶対に許さないんだからね。
 あたしの大切な仲間たちをこんな目に合わせるなんて!
 今までに感じたことのない、極彩色の感情が心を満たしていた。
 あ、あれはホニョーラの音、これはコッコーラの音。そして自分の音。鳴って、共鳴して、響いて広がって、遠くから寄り添ってくるのは、おかあさまと、ダーリンさんの音だ。なんて力強いハーモニー。
 これだったんだ。わかる、あたし、音がわかる!
 自分が自分でなくなるような感覚。そして、むずむずするような、全身がひび割れていくような。はじめての感じ、でも、不愉快じゃない。むしろ本来の自分へ回帰していくような安心感がある。
 あたしは仲間を守る。
 アブラダモッチは枝からぽとりと落ちていく。
 それは、真っ白な大蛇であった。
 あ、そんなものかも。仲間たちがそう呟くのが聞こえた。
「ひええええ」
「こわいよ、助けて、とうさん」
 チロとジローが尻尾をさげて、一目散に逃げ出そうとしている。
「逃しませんよ。あなた方を、大統領のところへ返すわけには参りません」
 そう言ってそびえ立ったのは、防毒マスクを被ったミステリオーザ婦人。薬草園のホースを構えると、蛇口を最大にひねり、二匹の犬めがけて放射する。さすがおかあさま、と感嘆しながらヘビ型アブラダモッチは水をものともせず、のたりのたりと近づいていく。
「くるなあああ」
「やめろおおお」
 わめき散らす邪悪を、大きな口の中へ、水とともに呑み込むと宣言した。
「前面のご婦人、後面の大蛇。新しい諺の誕生よ」

 薬草風呂。口元には薬草茶がスポイトで流し込まれる。
 苦いよう。ホニョーラとコッコーラがシンクロする。
「あら、苦いって言ったわね。もう大丈夫ね」婦人が二人のからだを撫でている。
「アブラダモッチはどこ」と二人。
「あたしならいま、ちょっと取り込んでるから」
 居間の隅に、山のようなバスタオル。そのいただきでアブラダモッチは奮闘中。揺れるヘビの尻尾。
 むにゅにゅにゅにゅ。ころんころん。
 卵が二つ。
「任務完了。ああくたびれた。悪いんだけど、あとよろしくね」
 慎重な手つきでダーリンさんが卵を拾い上げてくれたのを確認すると、アブラダモッチはあくびをし、すやすやと眠りはじめた。

 二週間ほどすると、ホニョーラもコッコーラも普通に歩き回れるようになった。とはいえ、コッコーラはまだ飛ぶことができない。
 アブラダモッチはちょっと元気がない。おしりが痛い。
 オシッコとウンチと赤ちゃんというのは、別々のところから出てまいりますね。誰しも、そう思っておりますね。
 突然何、当たり前のことを。
 それは、あなたが哺乳類だからなのであって。
「鳥類も爬虫類も両生類も魚類も、ほぼほぼ、これを一つで済ませています。これを総排泄腔そうはいせつこう、といいます。哺乳類でもカモノハシはこちらです」
 とコッコーラが解説してくれるが、理屈がどうあろうが痛いものは痛い。
 ヘビ型アブラダモッチは二個の卵を産み、産後すぐに猫になったもので。痛めたところが三つに分かれないといけなかったわけで。
「おかあさま、痛いの」
 さすがのミステリオーザ婦人も、薬草の調合に手間取ったようであった。

 赤い屋根のテラスに、赤とんぼ。
 さわさわと揺れる木の葉も赤く色づき始めた神無月かみなづき
「秋の風だわね」婦人がお茶を片手に呟く。
「春先から、色んなことが起きたね」ダーリンが相槌をうつ。
 アブラダモッチは、山羊ミルクを飲み終えて婦人の隣に寝そべっている。
「洸一さん、これから、どうなさるおつもりですか」と婦人。
「僕はやはり、このままではいけないと思っていて」
「洸一。こんな目に合ったというのに、まだ闘うの」翠さんが涙ぐんでいる。もう、ワカメではなくて、名前で呼んであげることにしよう。
「大統領が私にしたことは、確かに恐ろしいことだった。でも、病気になる人もいない、犯罪者もいない。この世界は間違っているのかしら」
 翠さん、あなたは。アブラダモッチは尻尾をくねらせるけれど、惻隠の情を表明しきれない。
「私はね、学者でもないし難しいことは良くわかりません。でも、妙なお話だなあと、思いますよ。一部の人間が全国民の遺伝子を思うままにしているなんて。珈琲まで作って、同じ枠の中に閉じ込めてしまうなんて」婦人が、つと、木蓮の梢の方を見る。「気分が悪くなってきますわ。それでは理由になりませんかしらね」
 アブラダモッチも同じ方向へ視線を遣った。飛べるようになったコッコーラが、枝に止まることを楽しんでいるようだった。 
 ホニョーラがふさふさの尻尾で床を叩くぱたぱたという音が、木の葉の鳴る音に混じって響く。それに合わせて、赤とんぼがダンスするようにとびまわる。
「さて、ガルデーニア。新しい住まいを探した方が良いと思うね」
「そうね、ダーリン。ここはとても気に入っていたのだけれど。引き上げた方が良さそうね」
「それがいいと思いますの。いつまた、ポチ、タローが現れるやもしれません」と、ホニョーラ。
「洸一さん、どうなさいますか。私たちと一緒に行かれますか」婦人が問いかける。
「僕にはまだやることが残っています。ただ、翠のことが心配で。翠を連れていってやっていただけませんか」
「残念ですがそれはできません」キッパリと言い放つ婦人。
 その顔を驚いたように見ている洸一と翠。やはりまだ気づいていないのだな、とアブラダモッチは思う。
「翠さん、あなたはまだ、こちらへ来るべき方ではありません」
「お願いです、ミステリオーザさん。翠が失礼なことをしたのは、まだポチに噛まれた影響が残っていた頃のことで」
 これを説明するのは大変だ。
 アブラダモッチの思いを見抜いたかのように、ホニョーラがこちらを見ると、寝そべっていた床から身を起こす。トコトコと歩いてお気に入りの椅子に飛び乗ると姿勢をただす。真っ白な椅子に真っ白い大きな犬。
「あたくしには、翠さんの頭の中が見えます」
「えっ」驚きの声をあげる翠さん。でももう、お茶碗を割ったりはしないみたい。
「翠さんはあたくし達とは違いますの。たましいの音が、まだ聞こえない方ですから」
「たましい」翠さんは、初めてその言葉を口にした、という体でフワッと発音する。
「はい。あたくしは初めておかあさまに出逢ったとき、たましいが共鳴することを知りました。ああ、見つけた、と思いましたの」
 ホニョーラとおかあさまが、目を合わせてにっこりするけれど、あたしはヤキモチなんて妬かない。だって、みんなで仲間だってわかったもの。
「コッコーラも、アブラダモッチもそうですの。あたくしたち、みんな響き合って、鳴ります。そうやってお互いのことを感じ合いますの。あ、ダーリンさんもそうだ、ってわかりました」
 ダーリンさんが嬉しそうににっこりする。
「コッコーラがカラスだったり犬だったり、アブラダモッチが猫だったりヘビだったり。でもずっと同じ音のままだから、別に不思議とも思いませんの。見かけが変わるだけのこと」
「私は、お茶碗を落とすくらいにびっくりしたから」
「翠さん、勘のいい方ですこと。いつか同じ音が鳴るのかもしれませんけれど、今はまだその時ではございませんの」ホニョーラが、真っ直ぐに翠を見つめる。
「僕の頭の中も見えた?」と洸一。
「音が鳴っている人の頭の中は覗けませんの」
「あ、そうか。僕からは話を聞いたんだものね」
 うふふふ、とホニョーラは微笑んだ。「ダーリンさんが洸一さんをここへ運んだ、そうですわね」
「えっ、ヴェルナーレさんが僕を」
「バレたか」頭をかくダーリンさん。
 あ、そうか、やっぱり、とアブラダモッチは確信する。「あたしに、あそこへ行ってごらん、って言ったのもダーリンさんね」
「バレたか」
「あら、アブラダモッチ、わたしもその声を知っています」いつの間にか犬型コッコーラが隣にいる。「だから、ダーリンさんの声を聞くとなんだか安心して」
「バレたか」
「あたくしは、ダーリンさんが現れる前に、おかあさまに拾ってもらいましたの。ダーリンさんのたましいの音が共鳴するって気づくまで長い時間がかかりました。いままで、そっけなくして、ごめんなさいましね」そう言ってアルカイック・スマイルを浮かべるホニョーラ、あんたってほんと賢くて、強くて、誠実。
「どういたしまして。僕は、ガルデーニアさえいれば、みんな大丈夫だと思っていたから」
「あの、ダーリンさん」コッコーラの声に緊張が混ざる。「わたし、どこから来たんですか。まさか、あのおぞましい大統領の」
「それは違う。ずっと善々珈琲研究所を調査していたのだけれど、その形跡はない。むしろ、ジロー経由で翠さんの目撃談を聞いて、君を攫おうとしたんだよ」
 黒犬が地面にふにゃりとなった。「ああ、よかった」
「コッコーラ、あんた今、犬じゃないの。それなのにそんなことがわかるの」アブラダモッチはすかさず問いかける。
「そう、わたしはカラス。色々つながってきたんです、あの闘いのあとから」
「あら。もうお間抜けなことは言わないの? 面白かったのに」
「からかわないで、アブラダモッチ。わたしだって、ちょっとはおとなになるのよ」
 マヨネーズの地団駄ダンス、見られなくなったらさみしいな。
「行こうか、翠」洸一が覚悟を決めたように立ち上がる。
 アブラダモッチはカゴを咥えてくると、二人の前に置いた。
「お餞別」二つの卵。「チロとジローを初期化したわ。あたしがおしりを痛めて産んだのよ、ちゃんと面倒みてよね」
 犬の卵。さすがの卵好きホニョーラも、こればかりは食べないであろう。
 婦人の言葉は鐘の音のようだ。「私達の本質は、たましいです。たましいまで邪悪なものはいません。ただ、時に、存在を忘れてしまう」
「あの邪悪なものたちも、元はたましいを閉じ込められた、可哀想な犬」アブラダモッチは、目を伏せて祈った。「もしかしたら大統領も元は、人々を統べることへの純粋なたましいを持っていたのかも。それがどこかで間違って、鋼(はがね)の箱に入ってしまったのかも」
「僕も、あと一歩でそこに入るところだった」呻くような洸一の声。「だから、その箱を壊しに行かないと」

 翠と洸一が去った晩、全員で缶詰の残りを平らげた。
「いい香りのお茶だね。あの時植えた苗かな」
「オルテンシア、あなた一緒に来てくださらないのですか」
「ガルデーニア、君に名前を呼ばれると嬉しいよ」ダーリンさんが笑っている。
「洸一くんはまだ自分がどういう状態なのか気づいていないようだ。それなのに闘おうとしている。僕なりに、出来ることをしてやろうと思う」
「教えてあげるわけにはいかないものね」
「そうだね、洸一くんも、翠さんも、自分で気づくしかないんだ」
 アブラダモッチは頷く。そうね。自分のことを知るって大変なことだもの。あたしもやっと、入り口に立ったばかり。
「また逢えるよ。君がどこにいようと、きっと見つけるから」
「ダーリンさん、おかあさまのことは、きっとお護りいたします」アブラダモッチは誓う。だってあたしたちのハーモニーは極上だから。

 霜月しもつきが過ぎ、師走しわすも駆けていこうとしている。
 このあたりだったような気がするけれど、あの瀟洒な白壁のお屋敷はもうどこにも見当たらない。翠は、黙ってたたずんでいた。
 真冬に、真っ白な花が咲いている。ここに花壇があったように思うのだが。
 冬の日にこそ咲く花があるのです。婦人の声がしたような気がするが、辺りを見回しても誰もいない。そっと名前を唱えてみる。
「オルテンシア・ヴェルナーレ」
「冬の紫陽花」
「ガルデーニア・ミステリオーザ」
「謎の梔子くちなし
「不思議な人たち。イタリア人には見えなかったけれど」
 ひらひらと雪が舞い、白い花びらが、一層白くなってゆく。差し出された手を握り、翠は洸一の横顔を見上げた。

<第一章 了>
 
<第二章へ続く>

ヘッダー画:R. Bonyari


お気持ちありがとうございます。お犬に無添加のオヤツを買ってやります。