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ミズ・ミステリオーザ -ふくらはぎの刻印- (12)

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ガルデーニア・ミステリオーザ・・・瀟洒な白壁の屋敷の女主人
ホニョーラ・マニョーリア・・・大きな白い犬
コッコーラ・ネロ・・・小さな黒い犬/カラス
アブラダモッチ・ティグレ・・・尻尾の白いアメショ猫
オルテンシア・ヴェルナーレ・・・ミステリオーザ婦人のダーリン
若竹翠・・・新進気鋭の遺伝生物学者。稲木大学准教授
高梨洸一・・・善々珈琲副社長。化学者。善造の娘婿
高梨善造・・・善々珈琲創始者。現職大統領。洸一の舅


三度目の正直


 みんなで話に聴き入っていたら、すっかり日が暮れてしまった。
「なんのお構いもできませんが、お夕飯を一緒にいかがですか」
 そう言われて、本当に何のお構いもないものが出てくると思う人は、どのくらいいるのだろうか、とアブラダモッチは思う。
 冷蔵庫から出てくる卵と納豆、このあたりの肝の据わり方はさすがおかあさま。あたしは卵かけ納豆ご飯、大好きだけど。
「こんばんは」絶体絶命のタイミングで、山盛りの缶詰を抱えて現れたのはダーリンさんだ。「やあガルデーニア、珍しいものが色々と手に入ったから、一緒にどうかと思ってね」
 ぱたぱたぱた。小さな黒犬になったコッコーラが駆けてきてとびついた。天真爛漫てんしんらんまんとは、彼女のためにあるような言葉だ。
「いらっしゃいダーリンさん、ずいぶんとひさしぶり」
「やあコッコーラ、元気にしていたかい」
「ダーリンさんもお元気そうで何よりですの」ホニョーラは白いふさふさの尻尾を振っているけれど、ダーリンさんに対して壁がある、とアブラダモッチは睨んでいる。
「あら、猫缶もあるじゃない。さすがね」アブラダモッチはめざとく、高級マグロの表示に反応する。
「ダーリン、今夜はお客様がおいでなのよ。一緒にワインでもあけましょう」婦人の嬉しそうな声に、お構いできそうで何よりです、とアブラダモッチはつぶやいた。

 缶詰もお皿に盛りつけられて嬉しそうである。
「はじめまして。高梨洸一と申します」
「お名前はかねがね。私はオルテンシア・ヴェルナーレと申します。ガルデーニアの古い友人です」
「失礼ながら、どちらかでお目にかかっているでしょうか」
 ダーリンさんの表情は変わらない。「いえ。気のせいでしょう」
 それ以上は自分のことへ触れさせず、話は洸一の仕事の内容へ誘導されていく。
 巧みだ、このひと。アブラダモッチはその様子を観察しながら、感心する。
 おかあさまは、ダーリンさんが何をしている人なのか、良く知らないと言っていた。二人がどこの生まれ育ちであるとか、どのように暮らしてきたとかいう話をしているのを耳にしたことはない。アブラダモッチにも尋ねてきたことはない。そのあたりの距離感が心地よいのであって、相手の全てを知る必要はないと思う。
 けれども、気になることはある。
 音。みんなには聞こえているのに、あたしにはわからない音。さっきも、ホニョーラが洸一さんに向かって言ってた、音の感じがよろしくてよ、って。ワカメさんは音がしないらしいし、ワカメさんの犬も無音。何のことだろう。
 ダーリンさんの相槌にのせられ、洸一さんは楽しそうに横文字を並べ、自分のやってきた研究について語っている。洒落たつまみとワインがご機嫌を後押ししているようだ。
 婦人は黒犬を抱いたまま、ソファの背にもたれて気持ちよさそうに眠っている。すーすー、すすー。二人の寝息がかけ合いのようで微笑ましい。
「ねえ、ホニョーラ」
 アブラダモッチとホニョーラは、リビング正面の大きな掃き出し窓の前で寝そべっている。今なら、誰にも聞かれずに話ができそうだ。
「なんですの、アブラダモッチ」
「ホニョーラは、ダーリンさんのことが好きじゃないの?」
「あら」
「どうしてなの?」
 ホニョーラの表情がちょっと真剣になる。「嫌い、というわけではありませんの。ダーリンさんのことがよくわからないから、ちょっと距離を置いているのですわ」
「おかあさまの大切な人なのに」
「そうですわね。でもあたくしは、だからといってすぐに信用するわけではありませんの」
 ホニョーラがもぞもぞと動いて、アブラダモッチにピタッと体を寄せてくる。内緒話はこれで完璧と言わんばかりだ。
「自分で確信するまでは中立。そうやっておかあさまとお屋敷のみんなをお護りするのが、あたくしの仕事ですの」
 あたしがもし、音がわからないと告白したなら、警戒して、離れていってしまうのかな。
「最初はあたくし、自分がやきもちを妬いているのかしら、って思いましたの」ホニョーラがそんなことを。
「あたくしは仔犬のときにおかあさまに見つけてもらいました。ずっと二人きりで過ごしていて、ダーリンさんが現れたのはかなり後のことでしたの」
 こんな話をしてくれるのは初めてだ。
「でもね、ダーリンさんのことを大切にするのと、あたくしのことを大切にするのとは、おかあさまの中では別の籠に入っていますの」うふふふ、とホニョーラは微笑んだ。「それがわかったから、やきもちはもうありませんの」
「籠」
「おかあさまはたくさんの籠の持ち主ですから。一人一人に特別な籠がありましてよ。アブラダモッチの籠、コッコーラの籠」
 特別なのはホニョーラだけかと思っていたのに、あたしにもそんな籠が?
「ダーリンさんがいると、どうしてだかコッコーラは変身しませんの。ダーリンさんの前でコッコーラはいつも犬なのです。それはたまたま、なのか、それとも何か訳があるのか、まだ測りかねていますの」
 重大な秘密を次々と打ち明けられた気がして、アブラダモッチは目をぱちくりさせる。ホニョーラの大きな瞳が真っ直ぐこちらを向いている。
「あの、あたし、音が」
「あたくし、アブラダモッチの音、大好きですの」
「あたしの?」
「ちょっと低めで独特の余韻がありますのね。とっても素敵ですこと」
 自分にも音がある。アブラダモッチは一瞬キョトンとなった。驚きと喜びが遅れて押し寄せてくる。でもわからないの、どうすれば聴けるようになるの。そう続けようとしたとき、ホニョーラの大きな体が信じられないくらい敏捷に動いた。
 うずらのたまごが、コロコロとリビングの床を四散していくのであった。どうやら、酔った洸一の手がお皿に当たったものらしい。
 ダーリンさんがクスっとして、アブラダモッチに向かってウィンクしてみせる。アブラダモッチもウィンクを返す。あたしは、ダーリンさんのこと、好きだな。
 ホニョーラは尾を振りながらたまごを追っている。全部見つけるまでは戻ってこないだろう。いつか、この話の続きを聞こう。アブラダモッチは眠ることにした。

 雨が上がり、濡れそぼった薬草園に朝日がさす。静寂と光の織りなす広い屋敷の佇まいは、この世のものとは思われぬほど美しく壮麗である。
 それを切り裂く者は呪われし者。
 きゃあああああ。
 二度あることは三度ある。
 三度目の正直。
 ことわざというのは、それなりに真実なのだ、とアブラダモッチは学んだ。
 泥だらけのワカメ。やっぱり学習しないのね、またコッコーラの穴で転んだのだ、この雨上がりの朝に。
「洸一、ああ良かった、無事だったのね」
「翠、このままでは君が危ないと思って」
「お話中失礼いたします。そのままお屋敷にお入りいただくわけには参りませんので、ごめんあそばせ」ホニョーラが、薬草園のホースを咥えてきたので、
「せーのっ」アブラダモッチは栓を開ける。ワカメは豪快に洗われていく。
 それを遠巻きに眺めている黒犬はガタガタ震えている。アブラダモッチは言いようのない不安にとらわれる。ワカメ、あんたは一体何をしようとしているの。ダーリンさんが、なだめるようにコッコーラを抱き上げて撫でている。咲き始めたばかりのオレンジ色のコスモスが揺れ、一緒にコッコーラをあやしているようだ。

 アブラダモッチは若干ツンケンしながら翠をシャワールームへ案内してやった。
 婦人のお洋服を借りた翠をまじえ、みんなで温かいお茶をいただく。犬猫には温かい山羊ミルク。
「それで、翠さん、全部思い出しておいでなのですか」
 おかあさま、ここでそんな話をしてもいいの?
 アブラダモッチは、いきなり話が核心に迫ったのに驚く。ホニョーラの表情も固い。ダーリンさんがいるけどいいの、月を覗いたときにいなかったし、洸一さんの話だって聞いていない。
 無言の問いかけが聴こえたように、婦人の手がアブラダモッチの背中をとんとんと叩く。
「いっとき、色んな情景が混ぜこぜになって動転しました。でも落ち着いてきて、今の記憶は、かなり正しいのではないかと思っています」と翠。
「そう。だから、お一人でこちらへみえたのですね」
「はい。洸一さんが、犬は裏切る、って言ったのを思い出して。それでジローを預けてから来ました」
 そのとき、コスモスを踏み荒らす音がして、覚えのあるこの不快な、邪悪な匂いは。コッコーラが悲鳴をあげ、アブラダモッチはホニョーラとともに庭へ飛び出した。
「みどりさん。ひどいよ、ぼくを置いてお出かけするなんて」
「こういちくん、ここにいたんだね」
 茶色い二匹の犬。
「ジロー」
「チロ」
 飼い主達は顔色を失っている。
「あなた方をこのお屋敷に、一歩たりとも入れるわけにはまいりません」
「ホニョーラさん。随分なご挨拶じゃありませんか。ボクたちはただ、みどりさんを探しにきただけですよ」とチロ。
「笑わせるわ、この裏切り者が」
「アブラダモッチさんも、ひどいことを言うなあ。とうさんが、みどりさんはここにいるはずだって花壇の場所まで連れてきてくれたんです。さあ、一緒にとうさんのところへ行きましょう、みどりさん」とジロー。
「オヤジも来ているのか」洸一の顔が青くなっている。
「ここにはとても強いエネルギーが集合しているから、とうさんは入るのをやめたんです。だってほら、大統領ですからね、唯一無二の方ですからね、身を守るのは最重要事項ってわけで」チロが得意そうに言う。
「チロ、僕が一緒に帰ろう。翠は見逃してくれ」
「こういちくん。自分の置かれている状況がわかってないんだね。はっきり言いましょう。こういちくんは、もう使えない」チロは洸一を小馬鹿にしているようだ。
「さあ、そこをどいて。とうさんはみどりさんが要るんだ。ボクはまだこどもだから、チロにガブっと噛んでもらう。そしたらみどりさん、きれいさっぱり忘れて、ボクたちと一緒に行きたくなりますよ」無垢で、無情、ジロー。
「あなた方は大統領の犬。でも、洸一さんも翠さんも全身全霊を傾けてあなた方をいつくしんだ。それを平気で裏切るなんて、共鳴しようとしないだなんて、そういうもののことをあたくしは」ホニョーラが昂然と真っ白な頭をもたげる。「邪悪と呼ぶのです」
 アブラダモッチも言い放った。「あんたたち、可哀想な犬ね」
「うるせえ」ジローが唸りながら飛びかかってくる。
「おかあさま、みなさまを安全なところへお連れください。翠さんを再び、記憶コントロールウィルスに晒してはなりません」ホニョーラの凛とした声がひびきわたる。
「おかあさま、あたしたち負けないから。さあ、ホニョーラとあたしに任せて、早く」アブラダモッチも声を張り上げる。
「わたしもおてつだいします」そう言いながら、コッコーラがカラスに。
 しゅううう。
 ダーリンさんが頷いている。うん、まあ、そんなものかな。
 アブラダモッチの目に、ホニョーラのアルカイック・スマイルが映る。あたしたちは間違いない、大丈夫。
「ダーリンさん、おかあさまをお願い」
 アブラダモッチは気迫を込めて邪悪な犬たちに対峙した。

<続く>

ヘッダー画:R. Bonyari

お気持ちありがとうございます。お犬に無添加のオヤツを買ってやります。