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ミズ・ミステリオーザ -ふくらはぎの刻印- (17)

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眠り姫


 アブラダモッチとコッコーラは、屋根から二階のベランダへひとっ飛びした。
「寒の戻りです」カラスが羽繕はづくろいしながら言う。日向ぼっこしていたら、みるみる空の色が変わり、猛然と雪が降ってきたのだった。
「濡れちゃった」アブラダモッチはアメショ模様を整えると、恨めし気に空を見上げる。「猫としては顔洗いたくなったから、降るのかなって思ったけどつい」
「確率ゼロ、って天気予報に惑わされました」
「自分のセンサーを大切にしないと、痛い目にあうってこと」
「あ、おかあさまが呼んでます」カラスが嘴で窓を叩くと、足音が近づいてきて、
「急に降ってびっくりしたわね」ミステリオーザ婦人が窓を開けてくれる。
 屋敷中に漂うダージリンと、ふわふわのビスケットの香り。お茶の時間だ。アブラダモッチは我慢できなくなり、舌なめずりする。
「ホニョーラがまだなのよ」と婦人。
 大きな白い犬が、姿を見せていない。いつもなら、敷地のパトロールを終えてとっくに帰っている頃だが。
「さっきの雪のせいでしょうか」そう言いながらコッコーラの視線もビスケットに向かったのを、アブラダモッチは見逃さない。
「森で様子を見ているのかしら」と言う婦人と一緒にあたりを眺めていると、雪はあっという間に通り過ぎ、弥生やよいの空が青に戻っていく。
「じゃあ、ログハウスでお茶しましょうか」婦人がお茶を魔法瓶に移し、ビスケットを一緒にカゴに入れた。
 アブラダモッチはいそいそと歩き始めた。
 お屋敷の敷地は広大で、ちょっとした森のようになっている。木々の枝に若芽が小さく膨らんで。飾り程度に雪の粒が残った地面には緑色の模様が広がり始め、白いハコベや薄紅のヒメオドリコソウが顔をのぞかせる。
 その一角に立つログハウス、デッキの上に白いかたまり。
「ホニョーラ、やっぱりここだったのね」アブラダモッチが駆け寄ると、
「ビスケット持って来ましたよ」カラス型コッコーラも周りをぴょんぴょんと跳ぶ、けれども。
 白犬はすやすやと寝ている。
「パトロールお疲れさま、ホニョーラ。お茶の時間ですよ」
 婦人がそう言って体をぽんぽんと叩くと、大あくびとともに犬は目をぱちくりさせる。
「あら、おかあさま。ちょっと雨宿り、というか雪宿りのつもりでしたのに。あたくしったら」
 ホニョーラは大きく伸びをして、嬉しそうにビスケットに近づいた。

 婦人は三人にミルクを振る舞ってくれる。牛乳は犬猫のお腹にあまり優しくないので、山羊ミルクである。少し余った分を手元のお茶に注ぎ入れている。
「春眠暁を覚えず」アブラダモッチが歌うように節をつけると、
処処啼鳥しょしょていちょうを聞く」コッコーラが朗々と続く。
「ねえ、その鳥ってあんたのことかしら」
「アブラダモッチ、わたしは迷惑にならないように鳴いているつもりですけど」
夜来風雨やらいふううの声」ホニョーラが繋ぐ。
「花落つること知る多少」婦人が一旦締めてから尋ねる。「眠たいのね、ホニョーラ」
「あたくしこのところ、ちょっと横になるとすぐに寝てしまいますの。雨音に気づかなかったりすることもあります。これでは、夜中に何かあっても気づかないんじゃないか、って思うと心配ですの」
「わたし、できるだけ犬になって寝るようにして、お手伝いします」と、コッコーラ。
「あたしも気をつける。そんな時はお互い様よ」
「コッコーラ、アブラダモッチ、心強いですの」
「あなた、疲れているのかしら。あの戦いの後で、引っ越しもしたりして」婦人の手が犬の頭に触れる。
「でもおかあさま、起きているときは、特に何ということもありませんの。どこも辛くないし、パトロールだっていつも通りだし、ごはんだって美味しいし」
「パトロールを減らしてもいいのよ」
「それはあたくしの大切な仕事ですから」ホニョーラがキリッとなる。
 責任感の強い白い犬、使命感に燃える大きな眼。その誇りを傷つけてはならない。おかあさまもわかっているはずだ、とアブラダモッチは思う。
「もちろんよ、パトロール隊長。コッコーラは空から、アブラダモッチは木の上から、お手伝いして頂戴ね。隊長は、部下を上手に使うこと」
「はい」とコッコーラ。
「うへえ」と答えながらも、さすがはおかあさま、とアブラダモッチは感心する。
 ふさふさの尻尾をゆらゆらと振ったホニョーラの全身が、急に硬化する。「居ますの」一気にその場の緊張が高まる。「白い帽子を被って白い靴を履いた男」
「この間の男?」アブラダモッチは聞いてみる。
「匂いがしないのでわかりませんが、見た目はそっくり。あっ」ホニョーラは唸り出しそうだ。「その後ろから、青の帽子を被って青の靴を履いた男が」
 猫の聴覚は犬より鋭い。それに嗅覚だって犬ほどではないが鋭い。でもあたしにはわからない。
「わたしにも見えないのです」カラスの聴覚や嗅覚は大したことないが、視覚は鋭い。
 どこだろう、ホニョーラの言う男とは。アブラダモッチは耳と鼻を一層研ぎ澄ませる。「ねえ、どこ」
「あの栗の木の向こうで身を屈めるようにして、あ、栗のイガを踏みましたの。今なら捕まえられます」駆け出しておどりかからんばかりの大きな白い犬。
 婦人がそっといさめる。「悪いやからとは限らないわ」
 ホニョーラは、渋々引き返してくる。
 秋の間におかあさまが栗は全部拾って、栗ご飯にしたじゃない。あの木の周りにはもう、そんな大きなイガは残っていないはずなんだけど。アブラダモッチは胸騒ぎを覚えた。

 別の日。
 婦人が薬草園のお手入れをするのを、皆、めいめいの場所から見ている。ホニョーラは少し離れた木蓮の木の根元。アブラダモッチは松の木の上。カラス型コッコーラは、時々婦人を真似るように草の向きを整えたりなどしている。
「また居ますの」ホニョーラが警告を発する。
「白い帽子を被って白い靴を履いた男?」
「青の帽子を被って青の靴を履いた男?」
 アブラダモッチとコッコーラの声が重なる。
「そう。その後ろから、黄色の帽子を被って黄色の靴を履いた男」
 アブラダモッチはコッコーラと、顔を見合わせる。婦人がそっとこちらを見るので、首を振る。
「ホニョーラ、その男たちはどこに居るの」
「おかあさま、あの赤い椿が咲いている向こうに」
 大変だ。
「わかったわ。今日はもうこれでおしまい。みんなで中へ入りましょう」おかあさまの顔色も蒼白になっている。
「でもおかあさま、あの男たちが」
「大丈夫。いいのよ、ホニョーラ」
 部屋へ戻ると何事もなかったかのように、婦人はみんなにビスケットをくれた。

 それから一週間も経っただろうか。
 朝食を済ませたあと、あろうことかホニョーラは、パトロールの時間になっても眠りこけていた。前代未聞のことである。
「隊長。パトロール隊長」
「行きますよ」
 アブラダモッチとコッコーラは、犬の体に登ったり尻尾を引っ張ったり、耳元で騒いだり、散々手間をかけてやっと起こすことに成功した。
「あたくしったら、何てこと」こんなに狼狽するホニョーラを見るのは初めてだ。
「こんな時くらい、サボったっていいじゃない」
 アブラダモッチはなんとか宥めようとしたのだが、白い犬は耳をかさずに駆け出していく。アブラダモッチはコッコーラとともに、後を追う。そんなわけでいつもの時間よりずっと遅れて、パトロール隊は帰還したのであった。
「みんな、お疲れさま」
 おかあさまが、ビスケットを振る舞ってくれるのに、みんな、口数が少ない。こんなんじゃ、美味しく食べられない。アブラダモッチは歯噛みする。
「ああっ」
「どうしたのホニョーラ」
「白い帽子を被って白い靴を履いた男と、青の帽子を被って青の靴を履いた男と、黄色の帽子を被って黄色の靴を履いた男と、」
 全員で凍りつく。
「その後ろから、赤い帽子を被って赤い靴を履いた男が」
 婦人が立ち上がり、ホニョーラを優しく抱いた。「大丈夫、大丈夫よ。ねえ、あなたの大好きな茹で卵を作ってあるから、おあがりなさい」
「でも、おかあさま」
「いいのよ、食べたら少し眠って、それからゆっくり話しましょう」
 ホニョーラは不承不承ふしょうぶしょうといった様子で、お気に入りの真っ白な椅子に上がった。茹で卵を貰うと顔つきがやわらぎ、前脚を手入れしたりなどしていたが、やがて寝息を立て始めた。
 白い体を撫でている婦人の眼から、涙が溢れだす。
「おかあさま。あたしにもコッコーラにもわからないけど、でもホニョーラだけが感じる特別な何かが、本当に居るかもしれないじゃない」いたたまれなくなってアブラダモッチは叫ぶ。「コッコーラと、センサーは大事にしないと、って話していたのよ。ほら、天気予報とか信じるより自分のセンサーを」
 婦人の声が、号泣しそうなのを堪えているのがわかる。「赤、って、あなた、わかるの、アブラダモッチ」
 アブラダモッチはイヤイヤをするように頭を振る。言わないで、ねえ言わないで、それを。
「犬や猫の眼には色素を感じる細胞が二種類しかありません。だから、赤を知りません」博学なカラスがゆっくりと口をひらく。「わたしはカラスでいる今なら、赤がわかります。でも犬になると、赤い椿は灰色に見える」
「それなのに、あの娘は、赤い椿、赤い帽子に赤い靴って、ねえ、どうして」婦人の眼から涙がとめどなくこぼれ落ちる。
「だってホニョーラは特別だもの、わかるのよ、わかるのよ」アブラダモッチは我慢できずに泣きだす。
「何か見つけた時に、犬型のわたしなら匂いと、感触で判断しますね。せいぜい形くらいまで。色で表現しようだなんてこれっぽちも思いません。ねえ、アブラダモッチだって、そうでしょう」コッコーラの目からも涙が湧き出す。
「ホニョーラ、どうしちゃったのかしら」
 みんなでホニョーラを抱きしめて静かに、静かに泣いた。

 そして、これがホニョーラと話をした最後の日となった。

<続く>


ヘッダー画:R. Bonyari

お気持ちありがとうございます。お犬に無添加のオヤツを買ってやります。