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蓮實重彦のひねくれには訳がある(『世紀末のプロ野球』レヴュー)

革命的野球評論の登場

 2016年度の第29回三島由紀賞を『伯爵夫人』で受賞した蓮實重彦の受賞会見は、蓮實のまるで空気を読まない発言によって純文学に関心のない人達にも注目された。記者会見でのやり取りに対しては、「なんとまあ偏屈な年寄りであることか」というのが一般的な反応ではなかっただろうか。70~80年代にかけて「蓮實節」とも呼ばれた華麗な文体で一世を風靡し、「映画の観客は映画の画面をまったく見ていない」といった挑発的な言辞で、正統派を自認する教養人たちの眉をひそめさせることも多かったが、意外にもというか、あるいは当然というべきか、蓮實はじつはきわめて正論をしか語らないような人なのである。1982年に突如として文芸誌上に現れた蓮實重彦の筆によるプロ野球批評は、「運動」を巡る正論によって構成された言説であった。

 事の発端はこうである。中央公論社の文芸雑誌『海』の編集者安原顕がコラムのページを作ることを思い立ち、演劇、ミステリー、コミック、ファッションなどの欄が立ち上げられた。けれどもスポーツ欄のライターだけがなかなか決まらず、安原が蓮實に相談を持ちかけたところ、蓮實は「適任の人を知っている」と、草野進という名の「フランス帰りの女流華道教授」を紹介したのである。だが、じつは草野進は蓮實のペンネームで、蓮實は涼しい顔をして女性になりすましたのだった。

 かくして『海』1982年7月号に、蓮實による野球評論が掲載されたのだが、第1回目の原稿が掲載されたその日から、新聞、週刊誌、ラジオ、テレビ等々から「草野進とは何者か?」との問い合わせと取材申し込みの電話が殺到し、中央公論社の社屋全体が一時パニック状態に陥るほどだった。この例を見ない野球評論は1984年5月まで連載が続いたが、当時駆け出しのプロ野球ライターだった玉木正行をして、「はっきり言って勝ち目はない。俺はこれからどうしたらいいんだろう・・・・・」と途方に暮れさせたという。では、蓮實の野球評論とはいかなるものだったのだろうか。

艶やかな運動を擁護する

 蓮實のスポーツ評論の要諦は、スポーツ選手によって演じられたこの世のものとは思えぬ運動の艶やかさを前にして、恋する人間のようにその魅力を隅々に至るまで全身で受け止めること、この一点に尽きる。ホームランをどれだけ多く打ったか、あるいは打率がどれほど高いかは、たんなる数字に過ぎない。それよりも大切なのは記憶に焼きつくような、運動それ自体の美しさと出会うことではないか。ぼてぼての内野安打で打率を稼ぐことよりも、長嶋茂雄の爽快な三振に胸をときめかせることの方がどれだけ貴重か。巨人戦で何が一番面白いかって、江川卓が敗戦投手になることほど、面白いことがあろうか。

 江川がもっとも見事に負けてみせた試合は、デビューした年の夏のヤクルト戦である。これこそゴメスの負けた83年東京マラソンにも比較すべき名勝負であった。松岡と投げ合って一対零で敗れたのだが、その一点は、松岡のホームランである。だが、プロ野球が好きなものなら、勝利投手となった松岡ではなく、敗戦投手たる江川が見せたこの日の投球術を、球種と球速とともに丸ごと記憶すべきである。(略)おそらく、このとき以来、彼は江川が負けた試合の快楽にとりつかれたのではないかと思う。無意識の領域で江川からこの快楽への衝動を奪うのはきわめて困難だろう。また、この衝動を放棄した江川は、たんなる勝ち試合の多い大投手になってしまうに違いない。だがそれにしても、江川が負けた試合ほど人を興奮させるものもまたとあるまい。江川の負けを新聞やプロ野球ニュースで知って喜んでいるだけの連中には、とうていベースボールの魅力はわかるまい。

世紀のプロ野球

 退屈な勝利よりも面白い敗北のほうが選ばれるのは、言うまでもなく、そこに運動の艶やかな魅力が充満しているからだ。そうした価値観を持つ者は、運動の艶やかさを抑圧する者を徹底的に嫌う。凡庸な勝利しか目指さないかに見える増田明美への敵意を蓮實は隠そうとはしない。

 増田明美という小柄な長距離ランナーが女子マラソン界の希望の星だという。だが、あの官僚的で創意を欠いた走法はあまりにも醜い。明治欽定憲法の克己奮励主義の亡霊と、戦後的繁栄の現状肯定的な鈍感さとの野合ぶりが、彼女の律儀な腕の振りに露呈していて思わず目をそむけたくなる。ああ、こんなところにも日本が図々しく居直っている。自分には徹底して欠けているスピード感への郷愁すらあの走法には感じられない。修学旅行的な平均主義を疑うこともない増田明美の二宮尊徳的な選手像がスピード走法の前に崩壊するとき、日本のスポーツ界は初めて新たな世界を獲得するだろう。ここに来てにわかにスピード感を増したかにみえる佐々木七恵の、あのサラ金を踏み倒して逃げているみたいなせっぱつまった走りかたこそが、われわれにとっての真の希望の星なのだ。

世紀のプロ野球

 このような文章から垣間見えるのは、大勢を形づくる官僚的感性への蓮實の苛立ちである。このような部分に人は蓮實のひねくれた性格を見るのかもしれない。おそらく高度成長神話の信奉者には、蓮實の言葉は、不愉快なものに感じられる。一方、蓮實の側から見れば、高度成長のイデオロギーをスポーツが模倣してしまうことには、人間精神の許しがたい退廃が感じられる。蓮實のスポーツ評論は、スポーツ選手の肉体の表情の中に、時代の政治的影をも見いだす射程の深さがあった。

新自由主義時代のスポーツ観?

 蓮實は先の増田明美と佐々木七恵との対比に続けて次のように書いている。

 女子マラソンにおける二宮尊徳的な耐久走法とサラ金逃亡型スピード走法との対照ぶりは、プロ野球における打順決定を支えるイデオロギーにそっくり反映している。福本=高橋(慶)的な一番打者は原理において増田系であり、田尾=松本型は佐々木系なのである。前者は、川上V9野球の高度成長期的なイデオロギーにつらなるものだが、小柄でも駿足であればチームの優勝に貢献しうるというその耐久レース的な発想は、スポーツというよりは権力維持のための戦略に過ぎない。

世紀のプロ野球

 蓮實が目論んでいるのは、スポーツを高度成長のイデオロギーから解放することだった。確かに盗塁記録保持者であった阪急福本の小柄な体格やその佇まいは、60年代で期限切れという雰囲気があった。そのぶん懐かしさを感じさせた。一方の松本は足の長さがいかにも高度成長以降の日本人のイメージと重なるところがあった。60年代的ダサさを払拭していた。

 なるほど蓮實のこの文章が書かれた1982年は、高度成長(前期資本主義)とポスト高度成長(後期資本主義)がせめぎ合いを演じていた時代であった。重厚長大的な製造業と軽薄短小的な広告業がぶつかっていたのである。むろんのこと鉄鋼産業に勝ち目はなかった。オイルショックによって日本の製造業に牽引された高度成長は息の根を止められていたのである。オイルショックが起った1973年に、江川卓が甲子園を沸かせて全国に名を知られるようになったのは、いかにも象徴的である。江川は高度成長以降のキャラクターである。

 そしてまた、1982年という年は中曽根康弘が総理大臣に就任した年でもあった。アメリカのレーガンやイギリスのサッチャーと並んで、中曽根は、日本電信電話公社や国鉄を民営化し、日本に新自由主義を導入した。国家が資本を集中的に鉄鋼産業に投下して経済成長を実現する、という国家社会主義的な経済モデルは、耐久期限を過ぎ、行き詰っていた。当時中曽根は「民活=民間による活力」という言葉を、盛んに使っていた。NNTやJRの民営化によって、日本経済の次へのステップへの歩ませる、という中曽根のヴィジョンは、スポーツを高度成長のイデオロギーから解放して更新する、という蓮實のスポーツ評論の言説と小指と小指が触れ合う程度には、今となっては通じ合っているようにも見える。例えば電電公社がNTTとなった1985年に、蓮實の近傍にいた文芸評論家の渡部直己がNHKのラジオ番組に出演したことがあって、「江川卓は貨幣のような存在だから、彼がマウンドに立つと、市場で商品が交換され活気づくように、グラウンドが盛り上がるのだ」といかにも新自由主義的な発言をしていたのである。

 とはいえ、スポーツが演じる運動に繊細な感性を広げる蓮實のスポーツ評論は、やはり、画期的であり、かつ正論であった。「一点に泣くという言葉がありながら、一点に笑うとはだれもいわぬところを見ると、野球における一点とは、どうやら失うものであって得るものではないらしい。過剰ではなく、欠落としての一点。これはいかにも通俗的な考えである。泣いても笑ってもいいはずなのに、一点をめぐっては必ず泣くことが選択される。(略)これはいささか醜悪な事態というべきではないか。われわれは、一点に笑う姿勢で野球を見たい。一点に泣くという安易な比喩を、プロ野球から追放しなければならぬ」という正論を、蓮實以外の人が言ったことがあるだろうか。




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