石和義之

文芸評論とSF評論を中心に書いています。主な著書としては『3・11の未来 日本・SF・…

石和義之

文芸評論とSF評論を中心に書いています。主な著書としては『3・11の未来 日本・SF・創造力』(作品社)、『しずおかSF 異次元への扉』(財団法人静岡県文化財団)、『北の想像力』(寿郎社)、『海外SFハンドブック』(2015年)、『ハヤカワ文庫SF総解説2000』など。

最近の記事

月と六ペンス 故郷を恋うひと

少年マンガとしての『月と六ペンス』 サマセット・モームの代表作である『月と六ペンス』を読むことは、私にとっては、懐かしい快楽を体験することなのだが、その「懐かしい快楽」は少年マンガの快楽によく似ている。そしてその快楽は、昭和世代の日本人男性と波長が合っているのではないか。この作品には、昭和の少年マンガの王道要素が出そろっている。  まずはそれが「ヒーローもの」であること。よく知られるように、『月と六ペンス』はフランスの画家ゴーギャンをモデルにした芸術家小説である。「スポーツ

    • 半村良の防御的虚構

       半村良の作品において、登場人物たちは、そうとは意識していなくとも、それが自分たちの属性であると確信しているかのように、ディフェンスに徹しきっている。自分の身を守るにせよ、あるいは、自分とは異なるが関わりを持った他人を庇護するにせよ、彼らは守ったり守られたりする役割を、身についた本能を発露するがごとく演じている。  半村良の記念すべき直木賞受賞作「雨やどり」のタイトルが象徴するように、急に降られた雨に立ち往生するかそけき佇まいの弱き人々に傘をさしだしたり、一時の避難所を提供

      • 石黒達昌の慎ましいSF

         石黒達昌の作品には、追いかける者が頻繁に登場するが、彼らが追い求めるものは、肉親の難病のための治療法であったり、あり得ない動植物の謎であったり、複雑怪奇な事件の真相であったりする。まあ一言で言ってしまえば、世界の真理である。世界の真理を探究する彼らは、よって、科学者であったり、医師であったりするのであり、作品の言葉は客観的叙述に徹する科学論文のような冷静沈着さを纏うのだが、その行間というか言葉の端々からは、なにか異様ともいえる過剰なものが顔をのぞかせている。唐突で意外な組み

        • 『岬一郎の抵抗』における東京の変容

           1980年代半ばに「毎日新聞」に連載された半村良の『岬一郎の抵抗』は、第9回「日本SF大賞」を受賞した(1988年)。同時代の社会的事件である「メキシコ大地震」や「いじめ自殺」などを取り込みつつ展開するこの作品は、東京の風景の変容を通して、同時代の日本を覆っていた気分やメンタリティをヴィヴィッドに捉えることに成功していた。  では80年代の東京においては何が進行していたのか?一言でいえば、それは新東京による旧東京の解体現象とでも呼ぶべきものである。そして旧東京という共同体

        月と六ペンス 故郷を恋うひと

          社会学の身体感覚とその夢

           新書としては破格とも言える600ページを超えるボリュームである。『社会学史』というタイトルを持つ大澤真幸の著書は、タイトル通り、「社会学の歴史を全体として論じた本」を実現すべく書かれ、「『社会学』という学問領域の下に包摂されてきた重要な事項や人物」を網羅し、「バランスを失することなく、すべてを視野に収めた」、テキストの王道を行くテキストとして仕上がっている。「意欲ある人に直接語ることを通じて執筆したい」という著者の希望に沿い、講談社の4人の社員を前にして、講談社の会議室で実

          社会学の身体感覚とその夢

          東京再開発の暴力に抗って(『思想としての東京』)

          上書きされる東京 磯田光一の『思想としての東京』を読んでいると、フロイトが心的装置を説明するにあたって用いた「マジック・メモ」のイメージが思い浮かんでくる。「マジック・メモ」というのは、今や、昭和の遺物となった感があるが、昭和40年代にはどの家庭にも一台はあった子供のためのお絵かき玩具のようなものであった。  その形状は、全体としては、泉屋のクッキー・セットの四角い缶で、ふたの部分を透明なセルロイドとパラフィン紙から成るカバー・シートが覆っていて、その下には蠟盤がある。子供

          東京再開発の暴力に抗って(『思想としての東京』)

          確信犯の時代錯誤・磯田光一

          聖なる時空の消滅 『殉教の美学』や『思想としての東京』といった著作で知られる磯田光一の原稿を読んでいて、第一に印象づけられることは、一種独特な緊張感である。行楽地にて思い切りリラックスして休息を満喫する、というのどかな気配は微塵もない。むしろそのような安息感を斥けて、自分と周囲との間に摩擦と葛藤を積極的に呼び寄せ、その居心地の悪さを引き受けることに生の手応えを感じているかのようだ。万能感を保証された幼児の黄金期ではなく、そこからの追放の苦痛こそが精神の運動の起点となっている。

          確信犯の時代錯誤・磯田光一

          1983年のロマンティスト(『写楽殺人事件』)

          (※本稿は若干のネタばれがありますので、未読の方はご注意ください)    学問というのは、あるいは、生きることのある局面は、ほとんど探偵小説に近いということなのか。べつに、ことさら奇をてらっているわけでも、誇張を弄んでいるわけでもない。学問の究極的目標でもあり、人生につきものの「発見」という事象が、事態を「探偵小説」と瓜二つのように見えさせるのだ。  1983年度江戸川乱歩賞受賞作品『写楽殺人事件』(高橋克彦)は、美術史家による謎の浮世絵師写楽の実体究明が、そのままミステリ

          1983年のロマンティスト(『写楽殺人事件』)

          ポスト・モダンの光景

          『ワンパンマン』のバックグラウンド 常識的に言って、「平成」という元号は1989年に始まることになるのだろうが、私の個人的な歴史感覚で言うと、1974年に「昭和」が終わり1975年からは「平成」へとステージが移行している。75年前後に日本の文化的風景は変わった、というのが正直な体感である。たとえば、吉本隆明と雑誌『試行』を編集していた村上一郎が日本刀による自殺を遂げたのが1975年であった。70年代は吉本隆明に大きな精神的動揺を与えた時期であった。村上一郎の自死のほか主だった

          ポスト・モダンの光景

          戦中派の仇討ち

           山田風太郎の『太陽黒点』は、傑作との呼び声が高いミステリであるが、ある特定の世代ならではの固有の生存感覚を感じさせて、とても興味深く忘れがたい作品に仕上がっている。山田風太郎は1922年生れの戦中派であるが、本作を読みながら思い浮かべた名前を、本作とのつながりの濃い順に並べてゆくと、荒地派の鮎川信夫(1920年生れ)と田村隆一(1923年生れ)。松本清張(1909年生れ)。山川方夫(1930年生れ)。江藤淳(1932年生れ)。森村誠一(1933年生れ)。小松左京(1931年

          戦中派の仇討ち

          蝶たちは今・・・・(明治と大正の狭間で)

          ミステリ・マインド溢れる好著 ふしぎなタイトルにかねてから気になっていた『蝶たちは今・・・・』(日下圭介)を読んでみた。面白かった。ミステリ・マインドに溢れているところがよかった。「ミステリ・マインド」という言葉に一般性があるかどうかわからないが、子供の頃初めてミステリに接して、ハラハラドキドキするあの感じである。私がミステリを読むとき最も重視するものがこれである。綾辻行人作品にも強烈にそれを感じるが、日下圭介もまた幼いころから推理小説に親しんでいたらしい。そういう人が書いた

          蝶たちは今・・・・(明治と大正の狭間で)

          1983年のゲーム・ミステリー

          (※本稿は「ネタばれ」を含みますので、未読の方はご注意ください。)  その界隈では、伝説的作品と称される『幸せな家族――そしてその頃はやった唄』(鈴木悦夫)に興味をそそられ、読んでみた。なるほど確かに面白い。ぐいぐい読ませる力がある。そしてまた、この作品が書かれた80年代の文化的雰囲気のことをまざまざと思い出したりもした。  まずは書誌的情報を――。  作者の鈴木悦夫は1944年生まれ。団塊の世代の少し上の世代だが、ほぼ同世代といってよかろう。早稲田大学在学中から児童文学

          1983年のゲーム・ミステリー

          BGMは昭和なロックで(大崎善生追悼)

           作家の大崎善生が亡くなった。対象への入り込み方のバランスが非常に素晴らしい、稀有な書き手だった。追悼の意を込めて、ここに3年前に書いた原稿をアップします。 一枚の写真 プロ棋士を目指す少年や若者たちがしのぎを削りあう「奨励会」の姿を、現場で接し続けた者ならではの生々しさで描いた大崎善生の『将棋の子』は、「心の片隅に貼りついてしまったシールのように、剝がそうとしてもなかなか剥がすことのできない一枚の写真がある」という印象的な一行で始まる。その写真には、「東京将棋会館の4階の

          BGMは昭和なロックで(大崎善生追悼)

          アンチ・ボディビルダー(木下古栗)

           アリストテレスは「自然は真空を嫌う」と語ったが、人間もまた、「真空」に恐怖を覚え、そこから逃亡しようとし、「過剰」へと駆り立てられてゆく生き物である。戦後を代表する作家三島由紀夫は、戦後という時代の空虚を嫌悪し、彼の精神を蝕まずにはおかない空虚を、物語=意味で充填せしめんと、異様な情熱で物語を紡ぎつづけた(時には「天皇」を持ち出して)。  三島の観念への傾斜という悪癖は、彼のスポーツとの関わり方において、特に顕著に表れているようだ。天才的な運動音痴とも評された三島は、つい

          アンチ・ボディビルダー(木下古栗)

          そんな奴はいねーよ(もしかしたらいるかも)

          「エグさ」の料理人 木下古栗の『人間界の諸相』は、そのタイトルが示すがごとく、幾人かの登場人物たちの生活をスケッチ風に切り取った短編小説集あるいは連作短編集である(最後の第14話で1本の糸のようにすべてが繋がるので、「連作短編集」と呼ぶのが妥当かもしれない)。  『人間界の諸相』というタイトルから、普通の感性の持ち主であれば、避けようもなく苦しい親子の諍いだの、小波乱に揺れ動きつつも元の鞘に収まる若い恋人たちのプチ・ロマンスだの、わけもなく夕陽に見とれる部活帰りの中学生たち

          そんな奴はいねーよ(もしかしたらいるかも)

          燃えるストイシズム(大原富江・「婉という女」)

          ストイシズム・男篇 大原富枝の代表作「婉という女」およびその関連作品「正妻」「日陰の姉妹」は、歴史小説であると同時に、弱者の救済装置としてのストイシズムの生態と真実を、哀切深く描いた作品だと言える。文芸評論家の福田恆存は、ストイシズムの特異な性格について次のように述べている。  作品「婉という女」から伝わってくるひりつくような空気感、人間の温もりがいっさい奪い去られた後の残酷な寒々しさは、まさに「現実のすべてを自分にとって不利なものと見なし、自分の手で自分を守らねばならぬと

          燃えるストイシズム(大原富江・「婉という女」)