石和義之

文芸評論とSF評論を中心に書いています。主な著書としては『3・11の未来 日本・SF・…

石和義之

文芸評論とSF評論を中心に書いています。主な著書としては『3・11の未来 日本・SF・創造力』(作品社)、『しずおかSF 異次元への扉』(財団法人静岡県文化財団)、『北の想像力』(寿郎社)、『海外SFハンドブック』(2015年)、『ハヤカワ文庫SF総解説2000』など。

最近の記事

蝶たちは今・・・・(明治と大正の狭間で)

ミステリ・マインド溢れる好著 ふしぎなタイトルにかねてから気になっていた『蝶たちは今・・・・』(日下圭介)を読んでみた。面白かった。ミステリ・マインドに溢れているところがよかった。「ミステリ・マインド」という言葉に一般性があるかどうかわからないが、子供の頃初めてミステリに接して、ハラハラドキドキするあの感じである。私がミステリを読むとき最も重視するものがこれである。綾辻行人作品にも強烈にそれを感じるが、日下圭介もまた幼いころから推理小説に親しんでいたらしい。そういう人が書いた

    • 1983年のゲーム・ミステリー

      (※本稿は「ネタばれ」を含みますので、未読の方はご注意ください。)  その界隈では、伝説的作品と称される『幸せな家族――そしてその頃はやった唄』(鈴木悦夫)に興味をそそられ、読んでみた。なるほど確かに面白い。ぐいぐい読ませる力がある。そしてまた、この作品が書かれた80年代の文化的雰囲気のことをまざまざと思い出したりもした。  まずは書誌的情報を――。  作者の鈴木悦夫は1944年生まれ。団塊の世代の少し上の世代だが、ほぼ同世代といってよかろう。早稲田大学在学中から児童文学

      • BGMは昭和なロックで(大崎善生追悼)

         作家の大崎善生が亡くなった。対象への入り込み方のバランスが非常に素晴らしい、稀有な書き手だった。追悼の意を込めて、ここに3年前に書いた原稿をアップします。 一枚の写真 プロ棋士を目指す少年や若者たちがしのぎを削りあう「奨励会」の姿を、現場で接し続けた者ならではの生々しさで描いた大崎善生の『将棋の子』は、「心の片隅に貼りついてしまったシールのように、剝がそうとしてもなかなか剥がすことのできない一枚の写真がある」という印象的な一行で始まる。その写真には、「東京将棋会館の4階の

        • アンチ・ボディビルダー(木下古栗)

           アリストテレスは「自然は真空を嫌う」と語ったが、人間もまた、「真空」に恐怖を覚え、そこから逃亡しようとし、「過剰」へと駆り立てられてゆく生き物である。戦後を代表する作家三島由紀夫は、戦後という時代の空虚を嫌悪し、彼の精神を蝕まずにはおかない空虚を、物語=意味で充填せしめんと、異様な情熱で物語を紡ぎつづけた(時には「天皇」を持ち出して)。  三島の観念への傾斜という悪癖は、彼のスポーツとの関わり方において、特に顕著に表れているようだ。天才的な運動音痴とも評された三島は、つい

        蝶たちは今・・・・(明治と大正の狭間で)

          そんな奴はいねーよ(もしかしたらいるかも)

          「エグさ」の料理人 木下古栗の『人間界の諸相』は、そのタイトルが示すがごとく、幾人かの登場人物たちの生活をスケッチ風に切り取った短編小説集あるいは連作短編集である(最後の第14話で1本の糸のようにすべてが繋がるので、「連作短編集」と呼ぶのが妥当かもしれない)。  『人間界の諸相』というタイトルから、普通の感性の持ち主であれば、避けようもなく苦しい親子の諍いだの、小波乱に揺れ動きつつも元の鞘に収まる若い恋人たちのプチ・ロマンスだの、わけもなく夕陽に見とれる部活帰りの中学生たち

          そんな奴はいねーよ(もしかしたらいるかも)

          燃えるストイシズム(大原富江・「婉という女」)

          ストイシズム・男篇 大原富枝の代表作「婉という女」およびその関連作品「正妻」「日陰の姉妹」は、歴史小説であると同時に、弱者の救済装置としてのストイシズムの生態と真実を、哀切深く描いた作品だと言える。文芸評論家の福田恆存は、ストイシズムの特異な性格について次のように述べている。  作品「婉という女」から伝わってくるひりつくような空気感、人間の温もりがいっさい奪い去られた後の残酷な寒々しさは、まさに「現実のすべてを自分にとって不利なものと見なし、自分の手で自分を守らねばならぬと

          燃えるストイシズム(大原富江・「婉という女」)

          神的な光を人間化する(『もしかして聖人』論)

          聖人の誕生 『もしかして聖人』の主人公イアン・ベドロウはいい奴だ……悲しいくらいに。「悲しい」と留保をつけたのは、作品のいたるところで、イアンがのめり込む贖罪のふるまいに、周囲の多くの人々がたじろぎ、そうしたふるまいによって、イアンが崇高な聖人に変貌しつくしてしまうことを防ぎ止め、愛すべき悲しい人間の領域に繫ぎ止めているがゆえに、あえて「悲しい」という言葉をイアンに差し向けるのである。作者アン・タイラーによるタイトル『もしかして聖人』(原題は『Saint Maybe』)の「も

          神的な光を人間化する(『もしかして聖人』論)

          青年期との訣別(『パッチワーク・プラネット』論)

           読書界の一部では、熱狂的な支持を得ているアメリカの作家アン・タイラー(山田太一曰く「私にはこのよさが分かるけど、他の人にはどうかな?」じっさい、タイラーの作品は、日本では初版が出た後、重版されたことがないのではないか)の小説に『パッチワーク・プラネット(A Patchwork Planet)』という作品がある。不思議なタイトルである。意味がよく呑み込めない。よくわからないのだけれど、語り口の巧みさと登場人物たちの生き生きとした魅力に乗せられてぐいぐい読み進めてゆくと、物語の

          青年期との訣別(『パッチワーク・プラネット』論)

          母恋いの情動(丸谷才一の『エホバの顔を避けて』)

          戦中派としてのヨナ 1960年に刊行された丸谷才一の『エホバの顔を避けて』は、1925年生まれの丸谷の世代に共通する世界観を表出した作品であるとひとまずは言える。この世代には三島由紀夫(1925年生まれ)や吉本隆明(1924年生まれ)がいて、彼ら戦中派は押しなべて戦後の日本社会に対してニヒリスティックな視線を向けていた。『エホバの顔を避けて』の終盤で、主人公のヨナは「裏切られた……エホバに」と語るが、この言葉は「裏切られた……大日本帝国に」あるいは「裏切られた……戦後の日本社

          母恋いの情動(丸谷才一の『エホバの顔を避けて』)

          松浦理英子の風変わりなキャラたち

          価値としての奇貨 松浦理英子の小説に、もの悲しくもじんわりとした温もりを感じさせる「奇貨」という作品がある。主人公の語り手「私」は、本田という四十五歳の売れない私小説作家の男である。同性の友人をほとんど持たず、糖尿病による性的不能から女性との交渉もないこの孤独な中年男は、会社員時代の後輩であったレズビアンの七島美野(三十五歳)と奇妙な同居生活を送っている。本田の2LDKのマンションに「家賃を何割か負担するという条件」で、七島が入居するかたちとなった。当時、七島は、彼女が恋愛感

          松浦理英子の風変わりなキャラたち

          消滅しつつある闇のために

          ふるさととしての闇 上野昻志の名前を知ったのは筑摩書房から出ていた映画雑誌『リュミエール』に発表されたいくつかの映画評論によってだった。映画の具体的な運動をとらえることを目指す面白い評論を書く人だな、という印象を持ったが、上野の名は60年代から知る人ぞ知る伝説的なもののようだった。日本サブカルにおける重要雑誌『ガロ』で「目安箱」と題されたコラムを書き始めて注目され、美術評論家の石子順造がひとに上野を紹介する時は「『ガロ』で「目安箱」という評論を書いている上野さん」と、必ず言っ

          消滅しつつある闇のために

          アヴァター時代の短歌

          SFはコスプレがお好き 『ニューロマンサー』は広い意味でのコスプレSFではないか?そのように思うことがある。サイバーパンクの先駆と言われるジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの「接続された女」(『愛はさだめ、さだめは死』所収)は、ブスがテクノロジーの力を借りて世界的アイドルになりすます、という話である。言うなればアイドル・コスプレである。同じようにウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』は、神経質な虚弱児が「ハードボイルド」のコスチューム・プレイを演じている作品とは言えないか

          アヴァター時代の短歌

          ファンタジーとしての「忍ぶ川」

           三浦哲郎の代表作「忍ぶ川」を読んだのは、中学を卒業して高校に入学する直前の春休みのことだった。雑誌で紹介されていたのがきっかけだった。その時の印象は、古き良き綺麗な世界だな、というものだった。「志乃」というヒロインの名前が古風だったが、この世界に似合っている、と思った。中学生のことだから、それ以上の深い感慨を持つことはなかったが、「純文学」というのはわりといいじゃん、という程度の認識は持ったように思う。最近、数十年ぶりにこの作品をふと読み直して、「志乃をつれて、深川へいった

          ファンタジーとしての「忍ぶ川」

          男根を脱構築する――80年代の絓秀実

          1980年代と1920年代 たまたま1980年代に出た絓秀実の『探偵のクリティック』を目にしたのだった。懐かしくなってぱらぱらと読み返してみると、当時の文化状況のことが思い出されてきた。まずは都市論があり、それと連動して1920年代論があった。さらにはフェミニズムやオリエンタリズム論が人文学分野を活気づけていた(エドワード・サイードの『オリエンタリズム』の邦訳が出るのが1986年のことで、「オリエンタリズム論」は90年代には「ポスト・コロニアリズム」という呼び名で批評界の一角

          男根を脱構築する――80年代の絓秀実

          曖昧な妥協を拒む批評・柄谷行人

          差異を擁護する 批評家の柄谷行人は、『群像』新人文学賞を受賞した際、「受賞の言葉」の中で次のような言葉を残している。  この言葉に、柄谷の生のスタイルが集約されている。「自然過程」のような我が身を規定し拘束する外的な力の構造をとことん見極め、「意識」のような固有名としてある実存が感受する異和の感覚を唯一の武器に「いま・ここ」の自明性を転倒させる。柄谷が批評家としての長いキャリアの中で、反復してきたのはそのような行為である。自然過程の終着点としてある現在をすべてよし、とする日

          曖昧な妥協を拒む批評・柄谷行人

          土曜の夜と日曜の朝(マイノリティとしてのインテリ)

          アゲアゲ感覚 第二次世界大戦後、植民地の独立やスエズ動乱に直面し、19世紀に築き上げた輝ける帝国の崩壊期に突入した1950年代のイギリスに、「怒れる若者たち」と呼ばれる新世代の作家たちが登場した。その中のひとりアラン・シリトーは、1958年、デビュー作『土曜の夜と日曜の朝』を発表する。その作品は、のっけから、アゲアゲ全開である。  冒頭の第一段落だが、シリトーの書く言葉は、週末の昂揚した酒場の空気に染め上げられ、迫りくる小波乱への期待の高まりに同調しつつ、期待通り、主人公ア

          土曜の夜と日曜の朝(マイノリティとしてのインテリ)