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アンチ・ボディビルダー(木下古栗)

 アリストテレスは「自然は真空を嫌う」と語ったが、人間もまた、「真空」に恐怖を覚え、そこから逃亡しようとし、「過剰」へと駆り立てられてゆく生き物である。戦後を代表する作家三島由紀夫は、戦後という時代の空虚を嫌悪し、彼の精神を蝕まずにはおかない空虚を、物語=意味で充填せしめんと、異様な情熱で物語を紡ぎつづけた(時には「天皇」を持ち出して)。

 三島の観念への傾斜という悪癖は、彼のスポーツとの関わり方において、特に顕著に表れているようだ。天才的な運動音痴とも評された三島は、ついに、スポーツを観念的にしか理解できなかった。剣道のトレーニングとしてボディ・ビルディングを選択するという愚行は、三島のスポーツ上の知性の無さをあからさまに証している。

 スポーツ経験者なら、誰でも知っているが、アスリートは、おのが肉体という物質的素材を拠点に、すべてを唯物論的に計測しなければならない。例えば、背が高いか低いかで、選択するスポーツ種目は決まってくる。背が低いにもかかわらず、バスケットボールを選んだ者は、背の低い自分に何が可能で何が可能でないかを、冷静な知性において、判断しなければならない。知的な計測を誤れば、失敗が待ち構えているが、知性のみがスポーツを律するわけではない。そこには情熱や根性といった野蛮な要素も、決定的な要素として介入してくる。それがスポーツの醍醐味というものである。スポーツに根性は不要だ、という俗言は、体力にも気力にも見放された運動音痴の戯言にすぎない。

 とはいえ、三島のスポーツは、やはり、偽物だった。三島は、真のスポーツ的身体を、舞台衣装と取り違えてしまった。競技において要求される筋肉の量や、硬さや柔軟性といった物質的条件を、三島は理解できずに、それを装飾物としか受け取ることができなかった。彼のボディビルディングされた肉体は、そのまま、彼の華麗と呼ばれる文体を映し出している。彼の美的な文体は、ボディビルディングされた肉体にすぎないのであって、ものの実在感を感知することは難しい。

 三島のボディビルディングの話を持ち出したのは、木下古栗の『ポジティヴシンキングの末裔』にも、ボディビルダーめいた不穏な情熱を触知するからである。圧倒的な空虚を前にして、木下もまた、その空虚を言葉の綾で埋めようと、マニエリスムの意志を踏襲するのだが、木下は、美の世界を強靭な意志で回避することで、三島的なボディビルディングされた肉体とは異なる、異形のボディを読者の前に提示する。

 それは、たとえて言うなら、ボディビルダーの本質的な滑稽さのみを肉体の表層に纏わせようとする小島よしおのようでもあるし、ブルース・リーの無残なパロディであるがゆえに、その貧相な肉体が悪魔的なオーラを発散させる江頭2:50の禍々しさにも通じている。「病んだマーライオン」の主人公内藤のアパートの部屋に、「毎晩のように無断で侵入してきては、持ち主は指一本触れなくなって久しい数種のトレーニング機器を使用して肉体をいじめ」抜く中山は、「そんなの関係ねぇー」と叫んで、周囲に反感と共感と敵意のカクテル空気を立ち昇らせるボディビルダーの孤高の不穏さを漂わせている。中山の肉体から発せられる強烈な体臭に堪えかねて、「殺すぞこの野郎!ひとんちで何勝手に鍛えてんだよ!」と切れる内藤の姿は、逆境で頭に血を登らせ、受身のリアクションをとる江頭2:50のようだ。小島よしおも、江頭2:50も、自殺を禁じられた躁鬱病患者のようにポジティヴである。

 芸術の条件である本質的な欠如を前にして、19世紀的な大文字の「芸術」の記憶をきっぱりと我が身から切り離す木下は、欠如を過剰に取り戻そうとするその情熱を、禍々しい無償なエネルギーの浪費とともに、無意味さに徹し切ろうとする。例えば、「大人のけんか術」というタイトルを持つ作品では、「板張りの床にワックスの照り輝く体育館らしき空間」の中で、「血気盛んな比較的薄着の青年たち」が「いっせいに意味不明の言葉を」怒鳴りあいながら、とことん無意味なエネルギーの浪費の祭典を演じている。「着用している丈夫なタンクトップを引き裂き切れずに雄叫びを上げたり、目を血走らせ歯ぎしりをしながら腰のフラフープを激しく回したり、熊の縫いぐるみの柔らかな腹部を取り憑かれたように殴り続けたり、猛烈なお辞儀をするようにして額をキャベツに打ちつけたり、大道芸人さながらにボールの上に立ち乗りして抱き枕を振り回したり」と、とてもまともな神経ではつきあいきれないグロテスクなまでに滑稽な光景を、彼らは現出させている。この光景は、実は、「国内屈指の日本刀の名工」が「平和を映像で表現する」というシンポジウムで使用した映像で、彼は上映後に次のような結論めいた言葉を口にする。「本当の平和というのはこういうものなのです。彼らは自分でもコントロールの利かない暴力衝動を必死に抑え込もうと、常に内なるマンモスと戦いながら、それでもなお決して暴力を振るうことなく他者との共存空間に身を置いているのです」これこそが21世紀の真空の処理の仕方だ、と哄笑とともに、読む者は、深く頷かずにはいられない。

 小島よしお、江頭2:50と、孤高のピン芸人の名が登場したついでに、悩める繰り言を紡ぎだし一時期ブレークしたが、最近ではテレビでは見かけなくなったヒロシの語りのような長いモノローグを「ミドルエイジ・クライシス」から引いてみよう。

 「人間はあまりにも乱雑に散らかった部屋に直面すると、頑張って片付けようにも、どこから手をつけていいか全然わからなくなる。それはまさに、性器が突然五つに増殖した状態に似ている。いじくろうにも、どれからいじくればいいものやら……手が迷うのだ。直感でコレと決めていじり始めても、それが膨張していくうちに、他の萎びた四つの見るからに元気のないぐったりした様子が気に掛かって仕方がなくなり、やる気までもが萎えていく。その結果、一つずつ地道に処理するという現実的方策を意識が追放し、すべてを一気に処理せねばならぬような切迫感に支配される。あっちを刺激したりこっちを刺激したり慌ただしくまさぐって、すべてを均等に膨張させようと躍起になる。だが無理がある。最早、人間の能力の限界を超えているのだ。あっちを刺激すればこっちが萎み、こっちを刺激すればあっちが萎み、まさぐりのシャワーを絶えず浴びせていないと枯れてしまう花たち。A→B→C→D→Eとローテンション制を採用して刺激しても、Eを刺激する頃には、既にAは取り返しのつかないほど萎んでしまっている。取り敢えず他は無視して一つに集中しても、それを懸命に処理した後には最早、残りの四つを刺激する気力は残っていない。そうなるのがわかっているから、結局、指一本触れないまま途方に暮れるのだ」

「ミドルエイジ・クライシス」

 いささか長い引用になってしまったが、木下の凄みある特徴は、滞空時間の長い描写力であり、なおかつそれが「意味」という大地への接地点を持たないまま、空中浮遊を持続させるところにある。瞬間的な跳躍によって、「意味」という大地との靭帯を切断し、自由なる「無意味」の世界を垣間見るという技法は、それなりに実現可能だが、持続に耐えるためには苛酷な文化的体力が要求される。木下は、あたかも、悲劇の英雄という特権を剥奪されたシーシュポスのようだ。木下が、ボディビルダーと重なって見えるのは、空虚を意味で満たすことへの誘惑と文学的重力に、類まれなる反射神経と鍛え抜かれた筋力によって、抗ってみせるからである。

 おそらくはドイツ・ロマン派のようなベタな文学的資質を十二分に備えていながら、そこに惑溺する贅沢が自分に用意されてはいないことを聡明に覚る木下は、内面という時代遅れの価値に閉じこもることも、意味を攻撃するというポストモダン的な小賢しい振る舞いを選択することもしない。彼がエネルギッシュに没頭するのは、どれだけ自分がくだらなくふるまえるかを、肉体の恍惚として競い合う幼稚園児の特権であるガキの矜持のようなものだ。ドリフの人気番組『8時だョ!全員集合』での加藤茶のギャグ「ウンコチンチン」を、肉体の官能として、連呼して飽きないガキの意味不明の元気さを実践することが、木下のポジティヴィティである。じっさい、ウンコ・ネタを、木下ほど、魅力的に描いた作家は、日本文学史上、そう多くはいない。

 しかし何よりも特筆すべき点は、その肛門から盛り上がり出る極太便にある。ひび割れてゴツゴツした岩壁のような風格の、ほとんど黒に近い焦げ茶のボンレスハムが、ミチミチと恐るべき音を立てながら、厳しい締め付けの出口を気迫で広げながら徐々に頭角を現してくる。これは並外れて重そうで、たぶん両手で受け止めても優に五キロ以上は感じられるに違いない。……薫煙された加工肉よりもなお野性味の濃い、微かにほろ苦い香辛料じみた匂いを風に漂わせて、とうとう重々しい極太の塊がドスンと、一面黒々と焦げ付いた焼け野原に受け止められた」

「自分―抱いてやりたい―」

 小島剛夕(『子連れ狼』の作画担当者)の力強い描線で描かれたかのようなこのリアルな描写からは、貧しい下品さとは一線を画した風格ある詩情さえ立ち昇ってきそうである。「ミチミチ」という擬音がなんとも素晴らしい。あるいは、「この冬…ひとりじゃない」という作品では、深夜のコンビニで、突如便意に襲われた交換留学生の黒人青年の必死の戦いが、120行近くにも及ぶ文章を費やして描写されるが、サム・ペキンパーのスローモーション撮影によるスペクタクルを髣髴とさせるこの場面では、教会の神聖な緊張のイメージがフラッシュバックする。「本当に、もう事態は真剣にクライシスなのだ。一瞬一瞬が我慢の天王山。……しかし悶絶寸前の肉体は天上に召される救済のイメージを無残にも引きずり下ろし、悪魔の腹痛で引き裂き、よりいっそう研ぎ澄まされる下腹をえぐるような過激な便意の前途に、暴力的な圧力で封印をこじ開けんとしている塊がとうとう下着の中に勢いよくなめらかに滑る出る予感、それが湿地帯の臭い汚泥に倒れまみれる限界まで疲弊した兵士のイメージを喚起する。……人間としての尊厳は捨てるべきではないが、もはや為す術はない。便意が肉体の全権を掌握する。地獄の門が無抵抗に緩んでゆく。臨界に達する最低最悪の可能性に理性がホワイトアウト。そして次の瞬間、崇高な讃美歌の満ち渡った空間に、湿り気のある放屁が下品極まりない凄まじい音色で炸裂した。慌てて緊急再封鎖するジャクソン」キリスト教的な垂直を軸とした上昇と下降の運動を模倣するかのように見えた言葉の連なりは、「湿り気のある放屁」という言葉の導入によって、すぐさま横方向へと逸脱する。そしてまた、他の作品では、潔癖症の男の肛門であるがゆえに、地獄のような苦しみを強いられたのだ、と恨み節を述べ立てる肛門までもが登場するが(「自分―抱いてやりたい―」)、件の肛門の独白は140行余りにわたって延々と続くだろう。

 かように、一般的な文学の風土からは、遠く離れた僻地のような世界で、営まれているかに見えるのが木下古栗の作品であり、ゆえにそこに意味を見出そうとするのは無益な試みにしかならないが、それでも、もしかしたらこれは近代文学へのシリアスな応答ではないか、と勘繰ってみたくもなる作品も存在し、例えば、それは「ある未明、有閑マダムたちの――」であったりする。「有閑マダム」という言葉が、バルザックあたりのフランス小説を髣髴させるし、日本文学でも、フランス文学に影響を受けた心理小説の書き手が幾人か存在する。だが、この作品の冒頭の1行は次のようなものだ。「ある未明、有閑マダムたちの住む高級住宅地の路地に大量の馬糞がばらまかれた」木下お得意のウンコが「有閑マダム」もの文学を脱臼させにかかる。続く1行は「犯人は金持ちの金銭的余裕を妬んで止まない貧乏人」と続き、ここで作品は文学的ある定型をなぞろうとするかにみえるのだが、じっさい、この作品は、近代文学のプロトタイプを律儀に反復する作品ではあるのだ。「馬糞」が「爆発物」に置き換わったならば、幸徳秋水、社会主義弾圧、石川啄木「時代閉塞の現状」など、日本近代文学史のキーワードが次々と連想されるだろう。

 日本近代文学史の定説によれば、自由民権運動の挫折によって、内向化したリビドーが、内面を形成し、新たなる文学言語を確立することになったとされるが、「ある未明、有閑マダムたちの――」の主人公もまた、おのが内部へと沈潜し、日本近代文学のメインストリームの登場人物たちの系譜に連なろうとするかのようだ。「青年は何事も他人の身になって考えてみる傾向を備えており、もし家の中に馬糞をまき散らされたらさぞかし困るであろうことを想像せずにはいられなかったのである。決行せねば満足を得られぬ。決行すれば迷惑をかける。この板挟みに苦しめられて精神が鬱々と消耗していった」内面を深化させずにはいられない良心の葛藤と懊悩、そしてその告白というのが、近代文学の王道であり、二律背反に引き裂かれる自己の物語は、人類普遍のものだと、言ってもいい。だが、「馬糞」によって、栄光のメロドラマはその特権を掠め取られてしまう。引用部の数行先には、「後始末の経緯を新聞記事で知った犯人の男は、遅まきながら肛門の閉じるような激しい申し訳なさに苛まれた。自分を厳しく叱りつけた。もともと正義感の強い性格だったのでこれは当然の心理である」という言葉が読まれるが、ここでも「肛門の閉じるような激しい申し訳なさ」という言葉が、上昇と下降を巡って綴り得たかもしれないキリスト教的な精神の物語を横滑りさせてしまう。犯罪に手を染める青年の内面の懊悩の物語は、「この板挟みに苦しめられて精神が鬱々と消耗していった」のすぐ直後の改行で、次のように転調する。

 「ここがサンフランシスコか」
 思い切って海外に渡って気分が晴れた。馬糞をばらまくなんて不毛で幼稚な行為よりも、ゴールデンゲートブリッジから見渡す太平洋の眺めは最高だ。この宝石箱の中身が飛び散ったかのような海面のキラキラした輝きはどうだ。まさに目が洗われる。

「ある未明、有閑マダムたちの――」

 「ここがサンフランシスコか」というフレーズが、途方もなくゴキゲンだが、ここにある紋切り型の言葉は、紋切り型であるがゆえに、ショボくさい三流の物語を、「宝石」のごとく輝かせてみせる。この作品の末尾は、「背負っていたケースからウッドベースを取り出し、身体を揺らしながら大好きなエルヴィスの曲を弾く」と締めくくられるが、青春の過ち→それを巡る懊悩→改悛→精神の真の解放→再生、という一連の流れは、トルストイや白樺派の作品といった、近代青年のビルドゥングス・ロマンを読むようだ。木下は、それを鮮やかな一筆書きの手捌きで、無意味なショート・コントのように描き出す(じっさい、無意味なのだが)。紋切り型の羅列に過ぎないのだが、紋切り型を逆手に取って、紋切り型を突き抜けて遭遇したかのような「太平洋」の鮮烈な青さは、やはり魅力的で、安藤元雄の名詩「船と その歌」の「目はここでいぶかるだろう/初めの日から空がこうまで青かったかと」という詩句を思い出したほどである。

 と、以上のような書き方をしてしまうと、「ある未明、有閑マダムたちの――」は、初々しい青春小説の名作のように見えてしまうが、やはり、ここはそのような安易な感動への傾斜を踏ん張って堪えて、名作のふりをするいかがわしいモノマネ芸人としておのれをまっとうしようとする木下の本意を尊重すべきであろう。

 木下古栗という作家は、おそらく、技量も気合も十分に兼ね備えたイミテーション職人なのである。「ある未明、有閑マダムたちの――」が近代文学の挫折と再生の物語のコピーであるように、木下が相当の力量を見せつけながら、実践してみせる描写の場面は、格調高い風景画の精巧な複製のようなものだ。

 押し寄せる白く泡立った磯波を尻のあたりに受けて背後に飛び散らせながら、力なく脇に垂れる両腕にぶら下げられた指先を水面にかすらせながら、膝を高く上げて水を切ることもせずに、太腿まで海水に埋もれた脚をいくらか鈍重そうに腰で引きずり、それでいてもどかしげでもなく、返す波にわずかにのけぞりそうになるのもこらえて、厳然と身をそびえさせてゆっくりと浜辺に近づいてくる。いかった肩と分厚そうな胸板がいかにもたくましげなからだつきだが、顔は浮かべる表情を探し出せずにいるような締まりのなさで正面遠くへ向けられていて、そのせいか筋肉質の身体がどことなく空虚な惰性によって動かされているように見える。

「糧」

 「糧」という作品の一節だが、木下を特徴づける息の長い描写がここでも演じられている。スピード感を要求される現代の物語にあっては珍しく見えてしまう、緩慢さを導入せざるを得ない緻密な描写への傾斜は、よく指摘されるように古井由吉の文体を思い出させる。かつて古井の息の長い文体を指して、三浦雅士は文体が狂気に染まっているという意味のことを語った(『主体の変容』)。そしてその文体の異様さが文学的価値を高めていた、とも言える。だが、木下の文学的で格調も十分備えている美しく見える文章を読んでいても、読者は名文に接しての文学的感慨といったものを、あまり感じることができない。おそらく木下の中に、名文への文学的信仰といったものがほとんどなく、むしろ名文を巧妙にモノマネすることの方に、おのれのうちの文学的昂揚感をより多く、享受してしまう傾向があるからではないだろうか。それはギリシア彫刻のように鍛え抜かれた肉体を持ちながら、オーソドックスな陶酔に浸ることができずに、ボディビルダーへの密やかな蔑視を浴びることに芸人としての快楽を覚えてしまうボディビルダーのパロディスト小島よしおが手放せない性癖に似ているかもしれない。

 木下古栗という作家は、「複製技術の時代」の芸術家にふさわしく、コピーのいかがわしさを類まれなる勤勉さで19世紀の芸術家のように追求した結果、いかがわしさやくだらなさや馬鹿馬鹿しさといったものに、不思議な生命力を付与することに成功したバッタもん職人のアーティストなのである。古井由吉のひりつくような狂気を伝える文体や、三島由紀夫の高貴な抒情を潜ませた風景描写とも違って、木下は文学的意匠をあくまで衣装として提示することによって、文学らしさそれ自体を滑稽なものに見えさせてしまう傍迷惑なパロディストなのである。

 未佐子は困惑をふくんで口につぐみ、目を伏せながらおのずと男の股間に見入っていた。その股間は相変わらずぼってりとしたふくらみで、ビキニの内に肥えた濡れ鼠の死体でも入れているのかと思うほど生気がつゆ感じられなかった。それが不意に空恐ろしくなり、まともに凝視するのもはばかられて、舌の下に湧き出る唾をゴクリと飲み込むと瞼をかるくおろした。細目のかすんだ視野に映るふくらみにふと鳩の胸を連想させられた。

「糧」

 男女の運命的な出会いを詳細に描写する場面の一部なのだが、オーソドックスな文学の言葉を模倣していた言葉は、やがて上の引用部のように非文学的な滑稽さを纏ったリアリティと出会ってしまう。「ぼってり」といった副詞や「肥えた濡れ鼠の死体」という比喩が2人の男女のちぐはぐな滑稽さに精彩を与える。哄笑の爆発というレベルまでには至らないのだが、どこかちぐはぐなおかしさが妙に生々しいところは、「ビッグコミック・スピリッツ」に連載中の『パパがも一度恋をした』(阿部潤) の不思議なおかしさに似ている。じっさい、「糧」という作品のオチは、不条理ギャグ漫画のような展開なのである。

 と、いかにもそれらしく評論らしい言葉を書き連ねてきたが、このようなふるまいほど、木下古栗の風土から、ほど遠いものもあるまい。くだくだしい意味の詮索など、木下への裏切り行為に他ならない。それでもこのような行為に及んだのは、やはり、より多くの人に木下古栗という特異な作家の存在を知ってほしかったからである。おそらく、木下は読者を選ぶ作家である。しかも共感が得られることは、極端に少ないだろうな、と確実に断言できるところは、孤高のアングラ芸人のようである。だが、木下が演じる壮大な浪費は、語の正当な意味において芸術的である。『がきデカ』や『マカロニほうれん荘』や『伝染るんです』といった不朽のギャグ漫画が、われわれの感覚に心地よい回し蹴りを入れてくれたように芸術的である。これらのギャグ漫画にしびれたあなたにこそ木下古栗はおススメの作家である。

 さて、サンフランシスコが登場したので、西海岸周辺の音楽を。まずはボズ・スキャッグスの「ロウ・ダウン」。彼の名を一躍世界に知らしめた大ヒットアルバム『シルク・ディグリーズ」収録曲。AORはここから始まった。

 次いで、ハートの「マジックマン」。ハートというと、「バラクーダ」や「ネヴァー」が有名であるが、このバンドの名を知ったのはこの曲によってだった。中3の夏のことである。

 次はスティーヴン・ビショップの「オン・アンド・オン」。このころはAORの全盛期であった。そしてブリティッシュや東海岸では断末魔の叫びのようなパンクが登場した。

 ラストは、ワン・チャンの「To  Live  And  Die  In  L.A.」。映画『L.A.大捜査線/狼たちの街』のテーマ・ソングである。北野武のデビュー作『その男、凶暴につき』は、この映画を参照しているのではないか。

(この原稿は2010年に書かれたものです。)

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