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そんな奴はいねーよ(もしかしたらいるかも)

「エグさ」の料理人

 木下古栗の『人間界の諸相』は、そのタイトルが示すがごとく、幾人かの登場人物たちの生活をスケッチ風に切り取った短編小説集あるいは連作短編集である(最後の第14話で1本の糸のようにすべてが繋がるので、「連作短編集」と呼ぶのが妥当かもしれない)。

 『人間界の諸相』というタイトルから、普通の感性の持ち主であれば、避けようもなく苦しい親子の諍いだの、小波乱に揺れ動きつつも元の鞘に収まる若い恋人たちのプチ・ロマンスだの、わけもなく夕陽に見とれる部活帰りの中学生たちの後ろ姿だの、定年を迎えて職場を去ることとなった老人の胸に去来するひそやかな無常感だの、そのようなささやかな人生の諸相を思い浮かべるかもしれない。通常の文学的アルゴリズムであれば、ことはそのように展開する。けれども、木下の読者ならだれもが周知しているように、木下古栗という書き手に搭載されたアルゴリズムは、そのようには機能しない。「本屋大賞」が「本屋大将」と変換されてしまうおかしな表出機能を持つこの作家は、近代文学史のどこかで、50パーセントの記憶障害たる突然変異を自分の素であると自覚したらしい。100パーセントではなく、50パーセントの記憶障害と呼んだのは、鬼面人を嚇すような異形の言葉を暴力的に喚き散らすふるまいに打って出ることはなく、50パーセント程度にはオーソドックスな文学的教養を身につけているようだからである。

 ミシュランガイドで2つ星(☆☆)の評価を得そうな職人シェフの風格を身につけているのである。木下古栗の作風を一言でいえば「くだらない」となるが、その「くだらなさ」を木下は腕利きシェフの手さばきで料理して見せる。

 菱野時江は唇に黄色い口紅をつけ、真っ白なフェイクファーのボア生地のツナギを着て、自宅の上り口脇に設置された姿見の前に立っていた。手首や脛先の裾こそ締め付けるリブになっているが、そこ以外はまるで羽毛のようになめらかにフサフサしている。さながら着ぐるみのボディスーツだが、一般的なそれと異なるのは背中にではなく、前にファスナーがあることで、ゆえに一人きりでも着脱が容易なつくり。とはいえその部分は比翼仕立てになっており、さらにボア生地が絶妙にフサフサしているので、それをうまいこと撫でつけたり少し掻き乱したりすることで、前合わせのラインを目立たぬよう隠すことができるのだった。
(略)
 仕上げにあちこちの毛並みを念入りに整え、また姿見に映り込むとそこにはどう見ても、立派な雌鶏と化した時江自身が立っているのだった。くるりと半ば背を向けて尻を突き出せば、そこには羽ハタキに似た尾も生えている。
(略)
 じろじろと行き交う通行人に見られながらも、徒歩五分のコンビニエンスストアの裏に到着すると、すでに先んじて二羽がたたずんでいた。時江は最も一般的な「白色レグホン」だったが、渋崎咲子は「名古屋コーチン」を着こなしており、毛色はキャラメルのような艶やかな茶、鶏冠と肉髯は上品な薄紅色、尾は真っ黒で、足元はマルタン・マルジェラの往年の珍品、白ペンキの塗りたくられた足袋ブーツを履いている。その隣の古河内栗美は「比内地鶏」の出で立ちで、鶏冠と肉髯は咲子とほぼ同じだが、毛色はより濃い茶、とりわけ腹から下半身にかけて焦げた褐色になり、漆黒の尾は制作ミスなのか雄っぽく茂ったもので、足元は時江とお揃いの黄色い地下足袋だった。

「鳥貴族」

 「鳥貴族」という印象的な居酒屋の店名(創業者はオシャレな店名で女性客を取り込む目的があったらしいが、どういうセンスをしておるのか?)にインスピレーショを得て、木下特有の妄想が全開した、ニワトリのコスプレに興じる意味不明な女3人衆(「鳥貴族」と思しき居酒屋に乗り込んでゆく)を描いた作品だが、ホントにくっだらねーよな(←ほめている)。

 読むが如く、江戸時代の戯作者の作風を思わせるおかしな世界を支える文章自体は、近代文学の王道を行っている。けれどもそれに支えられる世界は幼児あるいは男子中学生の世界である。男子中学生といっても「スクールカースト」に組み込まれていない孤独な幼児のような中学生である。

 「スクールカースト」がラカン用語でいう「大文字の他者」であるとするなら、孤独な幼児は「小文字の他者」である。木下古栗は、「大文字の他者」の記憶や方法論は身につけているが、その装置の暴力性に加担することはない。もう少しかみ砕いていうと、凡庸なギャグ漫画家やお笑い芸人が「痛い奴あるある」として「大文字の他者」の論理に則って書くところを、「そんな奴いねーよ」の強度で無視して「小文字の他者」の魅力を発散し、「大文字の他者」の世界とは別の場所で人を、爽快なくだらなさに目覚めさせてくれるのだ。

 「爽快な」という言葉を使ったが、木下の作風は近代文学の王道=大文字の他者とエロゲーに熱中する男子中学生=小文字の他者の奇妙な接合と呼んでいいかと思われるものの、息苦しい窒息感や陰惨な印象は皆無である。次のような男子中学生の戯言のような記述も馬鹿馬鹿しさの魅力が勝っている。

 人間はあまりにも乱雑に散らかった部屋に直面すると、頑張って片付けようにも、どこから手をつけていいか全然わからなくなる。それはまさに、性器が突然五つに増殖した状態に似ている。いじくろうにも、どれからいじくればいいものやら……手が迷うのだ。直感でコレと決めていじり始めても、それが膨張していくうちに、他の萎びた四つの見るからに元気のないぐったりした様子が気に掛かって仕方がなくなり、やる気までもが萎えていく。その結果、一つずつ地道に処理するという現実的方策を意識が追放し、すべてを一気に処理せねばならぬような切迫感に支配される。あっちを刺激したりこっちを刺激したり慌ただしくまさぐって、すべてを均等に膨張させようと躍起になる。だが無理がある。最早、人間の能力の限界を超えているのだ。あっちを刺激すればこっちが萎み、こっちを刺激すればあっちが萎み、まさぐりのシャワーを絶えず浴びせていないと枯れてしまう花たち。A→B→C→D→Eとローテンション制を採用して刺激しても、Eを刺激する頃には、既にAは取り返しのつかないほど萎んでしまっている。取り敢えず他は無視して一つに集中しても、それを懸命に処理した後には最早、残りの四つを刺激する気力は残っていない。そうなるのがわかっているから、結局、指一本触れないまま途方に暮れるのだ。

「ミドルエイジ・クライシス」(『ポジティブシンキングの末裔』所収)

 ホントに馬鹿馬鹿しくてくだらないのだが、このくだらなさに同調して宙につられてもいいような気分になってくる。この場合、「宙につられる」とは「大文字の他者」の論理が象徴する社会の取り決めだとか、孤独な個人に内面化されてしまった一般大衆の視線だとか、いまや毎日のように耳にする同調圧力だとかからの開放を意味する。ラカンの「大文字の他者」という概念は、マルクスから発想を得ているし、だからそれは構造主義者のいう「構造」に等しいわけだが、「構造」が無機質なものを連想させるのに対して、「大文字の他者」は有機質で自然に近い。であるがゆえにそれは「構造」よりも厄介だといえる。こういう存在を相手にするには幼児の無邪気さはもとより老成した知恵や認識も必要だろう。

 例えば、「大人のけんか術」というタイトルを持つ作品では、「板張りの床にワックスの照り輝く体育館らしき空間」の中で、「血気盛んな比較的薄着の青年たち」が「いっせいに意味不明の言葉を」怒鳴りあいながら、とことん無意味なエネルギーの浪費の祭典を演じている。「着用している丈夫なタンクトップを引き裂き切れずに雄叫びを上げたり、目を血走らせ歯ぎしりをしながら腰のフラフープを激しく回したり、熊の縫いぐるみの柔らかな腹部を取り憑かれたように殴り続けたり、猛烈なお辞儀をするようにして額をキャベツに打ちつけたり、大道芸人さながらにボールの上に立ち乗りして抱き枕を振り回したり」と、とてもまともな神経ではつきあいきれないグロテスクなまでに滑稽な光景を、彼らは現出させている。この光景は、実は、「国内屈指の日本刀の名工」が「平和を映像で表現する」というシンポジウムで使用した映像で、彼は上映後に次のような結論めいた言葉を口にする。「本当の平和というのはこういうものなのです。彼らは自分でもコントロールの利かない暴力衝動を必死に抑え込もうと、常に内なるマンモスと戦いながら、それでもなお決して暴力を振るうことなく他者との共存空間に身を置いているのです」

 これまた、いかにも木下らしい馬鹿馬鹿しさであるが、存外ここにはけっこうシリアスなものが含まれているかもしれない。エグいのだけれど妙に奥深さのある味わいなのだ。「そんな奴いねーよ」の世界は、何というか「意識高い系」の次元にどこかでつながっているのかもしれない。「創造的破壊」に登場する次のような「若手文芸編集者」が神の領域に足がかかっているのかどうかは、判断に苦しむが。

 株式会社集英社の若手文芸編集者、稲松吐夢は総務に電話して確保した小会議室の中、全裸で小説の原稿を読み込んでいた。作家が本気で書いてきた原稿に誠心誠意、何の先入観もなく剝き出しの自分で向き合うために誰にも教わらずに編み出したやり方で、いつからかこれが稲松の「精読の流儀」になっているのだった。

「創造的破壊」

 「こんな奴いねーよ」と思うが、いたならばそれはそれでゴキゲンな気持ちにもなる。すべてのヒエラルキーを決定づけているかのように見受けられる「大文字の他者」――それをもういっそのこと日本人の共通感覚(あるある感覚)と呼んでしまおう――の抑圧から遠く離れて、くだらなさからなにがしかの養分を受け取る瞬間は、人生には確かにある。

エグいけれど忘れがたい名曲

 エグいし、だからコミックソング扱いされている名(迷)曲というものが世の中にはあるが、たんに笑って消費するだけでなく、思わず鑑賞するような態度を要求してくるような心に染み入る楽曲もあったりする。

 例えば、ホット・ブラッドの「ソウル・ドラキュラ」。この曲がヒットした頃(1976年)、「運命76」(ベートーヴェンの「運命」のディスコ・アレンジ)のような冗談みたいな曲が流行ったが、私はこの曲をけっこうまじめに聴いていた。ポップソングとして成立している。

 平田隆夫とセルスターズの「ハチのムサシは死んだのさ」も、エグいコミックソングみたいに受け取られていたフシがあるが、私は少年アニメのテーマソングのように聞いていた。けっこう高揚するヒロイズムを感受していたものである。実際、作詞した内田良平は全共闘の学生たちをイメージしていたと語っていた。それにしても動画に映る平田隆夫がエグくていかがわしい。似合いすぎている髯がマンガのようだ。当時の若者たちは愛されキャラを拒んでいるようで、そこが私は好きだった。

 細川俊之と中村晃子の「あまい囁き」も生真面目さがエグさと結びついている逸品で、木下古栗ワールドと重なり合う。中村のヴォーカルも上手いが、安易に冗談にはしないぞ、と言わんばかりの細川の生真面目な芝居に細川の役者魂を見た。二枚目のパロディを真面目に引き受ける細川俊之の達観は貴重だ。


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