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蝶たちは今・・・・(明治と大正の狭間で)

ミステリ・マインド溢れる好著

 ふしぎなタイトルにかねてから気になっていた『蝶たちは今・・・・』(日下圭介)を読んでみた。面白かった。ミステリ・マインドに溢れているところがよかった。「ミステリ・マインド」という言葉に一般性があるかどうかわからないが、子供の頃初めてミステリに接して、ハラハラドキドキするあの感じである。私がミステリを読むとき最も重視するものがこれである。綾辻行人作品にも強烈にそれを感じるが、日下圭介もまた幼いころから推理小説に親しんでいたらしい。そういう人が書いた作品だと思う。

 私の考えるミステリというのは、歩行しながらのジグソーパズルといったイメージである。ミステリの最終目的はジグソーパズルを完成させることにあるが、読者(探偵)に提示されるピースはとりわけ謎めいていなければならないし(奇怪な手毬歌や首なし死体など)、ピースを拾い集める作業は山あり谷ありの弾むような時間制(波乱万丈の物語)を伴っていなければならない。だから私は、物語の停滞を余儀なくされる「アームチェア・ディテクティブ」というジャンルが好きでない。あれは苦手だ。

 『蝶たちは今・・・・』は、山荘での外国人男性と日本人女性による心中事件、登場人物の一人を怯えさせる蝶の版画の葉書、旅先で取り違えられたバッグから出てきた死者同士で交わされた手紙の謎、死者からの電話、目前から消えた人物と読者の心を逸らせずにはいられない魅惑的な謎が仕掛けられて、ミステリの王道を行っている。主人公の二人は大学生なので、「隅の老人」とは違って、行動の自由度があり、好奇心の赴くままに世界のあちこちを移動できる。また、作品世界が同時代(1973年)に設定されているので、風俗的な雰囲気もそれなりに味わえる(同時代のチック・コリアを聞いているとか)。

 ただひとつ難を言えば、シナリオ・ライター志望でシナリオの勉強をしていた作者の作法は、カットバックの効果的な使い方やスピーディーな展開には目を見張るものがあるが、言葉で世界を構築するという作業に力不足が露呈していて、ありていに言ってしまうと、文章がスカスカになるところが無きにしも非ずである。たとえば、奥泉光のような作家であれば、夏目漱石を模してねっとりと緻密な文章を編み上げるだろうし、タイトルにもなっている「蝶」のイメージも澁澤龍彦であれば濃密な強度で輝かせるだろうが、わりと薄いものにとどまっている。

 「蝶」について言うと、詩的喚起力は今一つであるが、新聞記者でもある作者による「蝶」にまつわる雑学や情報はめっぽう面白い(「蝶」の知識が事件の真相を解く鍵にもなっている)。とりわけ感動的ですらあるのが、ウラナミシジミという「謎の蝶」を巡る蝶マニアたちの情熱のエピソードである。主人公の一人康雄が調査に力を貸してもらう蝶マニアの講平によると、謎めいたウラナミシジミの生態を解き明かしたのは、磐瀬太郎というアマチュア学者である。磐瀬は東京大学経済学部を首席で卒業した後中企業の重役を勤めた人物で、戦後は鎌倉蝶話会を主催し、昆虫採集でも有名な養老孟司は子供の頃その会のメンバーだった。ウラナミシジミは、東京では8月9月頃しか見られない蝶なのだが、いったい彼らはそれ以外の季節をどこでどのように過ごしているのか。てがかりはフジマメなどの豆科を食うということである。磐瀬は仮説を立てる。ウラナミシジミは東京に土着せず、渡り鳥のように、南から北へと移動する。だが、磐瀬は病床にあって調査に着手できない。

 そこで彼は、連日葉書を書いた。全国の蝶の愛好家、特に少年の研究家に対してであった。葉書の量は数百枚に達するだろう、と彼自身書いている。「機関銃のように、電報より速く」とマニア達は噂した。
 十余年にわたる彼の根気と努力は、昭和三十年になって、実った。
 千葉県保田町の鈴木晃という高校生から便りが届いた。彼は磐瀬の葉書に刺激され、自転車で野外調査を続けていた。南房総、保田付近は気候温暖の上、豆の促成栽培が盛んである。年中、花が絶えないが、ここでは、ウラナミシジミが冬も死に絶えず、幼虫や蛹の状態で越冬しているというのである。そして春を迎えると、アズキやソラマメの畑で、二世三世と世代を交代しつつ、北へ広がる力を養うというのだ。
 ウラナミシジミには、冬の休眠状態がない、といことが分った。磐瀬は勇気づけられた。彼は、健康も回復し専門誌に「さまよえるウラナミシジミ――その生態をみんなで調べよう」という記事を書いた。同時に、彼は東北や北海道のマニアに、フジマメの種子を大量に送った。
当時東北でのウラナミシジミの採集例は三例しか報告されていなかった。北海道での記録は皆無であった。
 磐瀬が北国の愛好家に種子を送ったのは、ウラナミシジミを誘致しようという目的ではなかった。この蝶が、もし北国に飛来しているものなら、必ずフジマメに立ち寄るだろうと考えたのだ。確認がねらいだった。
それが的中した。
 同年九月、函館の猪子竜夫が五稜郭にまいたフジマメに、彼女は飛来したのである。その上、卵まで産んだ。
 北海道から同様の報告が相次いだ。秋まで十八匹が発見されたのである。

『蝶たちは今・・・・』

 まるでミステリ小説のようなエピソードである。日下自身が意識していたかどうか定かではないが、このエピソードが『蝶たちは今・・・・』という作品全体の喩となっているようにも思われる。また、懐かしさも感じる。「昭和三十年」という具体的な日付を背景とする調査に関わった人々の熱意と努力は、まるで、松本清張作品に登場する執念の刑事の姿を思い出させもする。たとえば、『砂の器』(特に映画版)において、丹波哲郎と森田健作二人が演じる刑事が、夏の太陽のもと、血の染まったシャツの切れ端を求めて、線路沿いを歩き続ける汗だくの姿。『蝶たちは今・・・・』という作品は、松本清張作品の熱からは距離を置いたクールな仕上がりだが、そのことに軽い苛立ちのようなものも抱えているかのようである。ウラナミシジミのせいで命を落とした妹尾秀人という人物に対して70年代半ばの大学生康雄は「うらやましいな」という言葉をつぶやく。

 康雄が示す羨望は、作品全体には何の関りも持ってはいないのだが、妙にリアルなのである。作り物めいたこの作品にあって、この言葉には人間の体臭が感じられる。「今の俺に、命を懸けさせる何があるだろうか」とも康雄はつぶやくのだが、この場面より前の場面で、妹尾秀人の知り合いだった岸田との会話でも康雄は似たような感慨を吐露している。「妹尾と二人でよく飲みました。酔いつぶれるまで議論したものだった。砂川、内灘……学生運動が盛り上がってる時期でしてね。我々も賭けたんです。青春をね」と昔話をする岸田の言葉に、「おれは賭けたろうか。青春を」と自問せずにはいられない。また、康雄の女友達の和子は、情痴沙汰の被害者である直子に対して「うらやましいわ」という言葉を発している。康雄や和子が表明する、世代間のずれや熱量の差は、事件の真相とはまったく関係ないし、これらの台詞がなくとも作品は十分に成立する。けれども彼らの言葉は妙に引っかかるのだ。かれらの言葉に注目すると、『蝶たちは今・・・・』という作品の歴史的位置が見えてくるし、この作品が第21回江戸川乱歩賞を受賞した1975年前後の時代の空気感が具体的な手触りを伴って思い出されてくる。

 唐突だが、その時代の雰囲気は、明治時代と大正時代のせめぎ合いとして演じられていた。

明治と大正のはざまで

 『生活の探求』で有名なプロレタリア主義の作家島木健作の特徴を述べるにあたって、磯田光一は面白いことを言っている。北海道開拓者三代目の島木にとって、よって立つところは、武士的なエトスであり、それは農村を解体する力として働く商業資本と鋭く対立するものであった。素朴な宗教的なメンタリティをもってマルクス主義に入り込んだ「島木の理想社会のヴィジョンもまた、商業資本侵入以前の北海道開拓者の姿を通じて、ひとつの自然的共同体のイメージとして存在した」のだった。古き良き時代のモラルを信仰する島木の世界への態度の取り方は、都市よりは農村、近代よりは反近代という形をとることとなった。

 島木における都会(東京)と農村との空間的対立は、同時に歴史的には「大正」対「明治」という時間的な対立にもつながるものであった。そして明治の開拓者たる祖父の土地を侵食するのが大正期の新しい商業資本家であったことを考えれば、島木の理想主義は、明治的エトスの復活による大正的個人主義の克服という要因を多分にもっていたのである。島木が都会の労働者をかえりみずに農民運動に入っていったのも、また転向後に復古思想の枠内に容易に入り込みえたのも、彼の内部における「近代」と「反近代」との接合の仕方に深く根をもっているように思われる。

「農本主義の思惟構造」

 ここで言われていることは、日本近代史における北海道のみに限定されるわけではない。このことは、いつでもどこでも起こりうることだ。現に90年代以降の世界史においては、資本の野放図な動きに対して、宗教やナショナリズムが復活してきたのである。日本近代文学の歴史において、それを見るなら、資本の運動による超越的価値の解体現象は、大正文学の享楽性による明治文学のストイシズムの解体現象と重なるであろう。

 ここで近代日本について多少の文学史考察を試みたい。私はさきに、島木が自己の内部に明治的要因と大正個人主義の要因との対立を自覚していたことについて述べた。いまかりに、島木が明治精神の特質とする「国家を先にする」心を「攘夷論的思惟」と名づけるならば、新感覚派、新興芸術派によって象徴されるモダニズム的心性こそ明治的ストイシズムを拒否したインターナショナルな「開国論的思惟」と呼んでよいように思う。それはストイシズムに対するエピキュリアンの心性であり、明治的人格の解体とモラル・アナーキーを基盤として発生したものにほかならない。

「農本主義の思惟構造」

 島木や小林多喜二のようなストイックな殉教精神を持つ左翼とは無関係なエピキュリアンのひとりに江戸川乱歩がいた。乱歩が大正時代に登場させた明智小五郎や「屋根裏の散歩者」の主人公は、ストイックな生産とは程遠い、消費に興じる無為徒食な都市の遊民者であった。絓秀美は、1986年に書かれた「探偵のクリティック」において明智小五郎のような遊民者を探偵的知と呼んで、生真面目な警察的知と対立させている。言うまでもなく、警察的知は島木健作や小林多喜二のようなマルクス主義文学の在り方であり、探偵的知は江戸川乱歩のような大正文学に対応している。絓秀美は、「探偵のクリティック」を80年代論として書いているわけで、近代的な知の終わりを宣言したのだった(ポストモダンの勝利?)。80年代に大正時代というよりは1920年代を語ることは、当時のトレンドみたいなもので、1920年代論や都市論はくさるほどあった。この背景には経済学者コンドラチェフによって唱えられた景気60周年説(技術革新によって歴史が60年周期で反復されというもの)があるわけだが、柄谷行人や蓮實重彦らによる共同討議でも日本の1980年代は大正時代の状況と似ていることが指摘された。

 批評家の視点や分析ではなく、実作者として大正時代の反復を演じてしまったのが、日下圭介やその周辺のミステリ作家たちであった。日下圭介の『蝶たちは今・・・・』は、1973年を舞台にして、1975年に江戸川乱歩賞を受賞したわけだが、1973年に明治時代が終わり、1975年あたりから大正時代に突入する、という歴史感覚を、頭脳的な知識によってではなく、肉体を通して意識することなく会得しているようだ。登場人物たちがしきりに「うらやましい」「おれは賭けたろうか。青春を」という言葉を発するのは、前の世代に対する引け目を感じているからではなかろうか。日下圭介は1940年の生まれである。世代的には60年安保の世代である。彼がどのように60年安保と関わったかは知らないが、60年安保が明治的な精神に属しているのは確実だ。磯田光一は「国会に突入した急進派のうちに、私は戦時下の〝特攻精神〟の蘇生を見ていたのである」(『比較転向論序説』あとがき)と語っている。日下は大正時代を舞台にして書き始めたミステリ作家だった。明治時代を背景に、ミステリを書いたのは、さしずめ、「社会派」と呼ばれた松本清張だろう。代表作である『点と線』が1958年、『ゼロの焦点』が1959年、『砂の器』が1961年というふうに、清張の重要な作品は1950年代から60年代前半に書かれている。近代の坂を駆け上がる明治的運動の反復と言ったらいいか、そもそも戦後日本の重工業に国家資本を投入するやり方は、戦中(40年代)に用意された総力戦体制であった。そうした状況下で、民権運動活動家よろしく、反骨精神溢れる刑事や市井の人々を清張は描いたのだった。

 戦後期における明治の反復は、オイルショックによる重工業の行き詰まりで終息し、代わって情報産業やサービス産業を中心とする大正時代的なものが1974年あたりから開始される。江戸川乱歩の反復である、雑誌『幻影城』が創刊されるのが1975年である(1979年には終刊)。この雑誌には日下も作品を発表しているが、1940年生れの日下はやや明治よりである、といったところか(日下は「社会派」と呼ばれたりすることもある)。『幻影城』の中心人物は、連城三紀彦(1948年生れ)や竹本健治(1954年生れ)のような戦争を知らない子供たちである。彼らの作品は人工的な様式性を前面に押し出してくる作風であり、一種の「時代劇」である。この流れを汲む80年代後半に登場した「新本格派」のひとりである綾辻行人の「館」シリーズや学園ものホラーも様式で成り立っており、現代の時代劇である。綾辻行人はデビュー作で、松本清張のことをけちょんけちょんに貶している。80年代後半には明治の記憶は、完全に失われた、といったところか。

 私は80年代以降の文化やサブカルチャーには強い執着は持っていないのだが、『蝶たちは今・・・・』が発表された1975年から1979年あたりのカルチャーや風俗には愛着がある。明治的なもの、大人っぽいものが、ほんの微かだがまだ残っていたから。80年代のアイドル全盛の時代はまだ到来しておらず、その代わりに、音楽の世界ではフュージョンが力を持っていた。明治的なガチなジャズの残り香のようなもの。わりと歯ごたえのある大正的なもの。それがフュージョンではなかったか。

フュージョンというジャンルがあった

 日下圭介は、早稲田大学に在学中、「3Mの会」というサークルを作っていて、「3M」は、それぞれ、ミュージック、ムービー、ミステリーのことを指していた。『蝶たちは今・・・・』においてもミュージックは登場し、マイルス・デイヴィス、チック・コリア、ショパン、ワーグナーの名が言及されている。おそらく、時期から言って、ここでのチック・コリアはフュージョン色の強い「リターン・トゥ・フォーエヴァー」のことではないか。実際のところはよくわからない。『蝶たちは今・・・・』の感触からすると、心地いいフュージョンのテイストである。1975年はフュージョンの時代であった。実際1975年から1985年くらいにかけて、フュージョン作品がよく作られていて、作品のクオリティも高かった。

 70年末の頃、私は音楽好きの高校生だったが、ロックも歌謡曲もつまらなくて、聞く音楽がなく、ジャズやクラシック音楽に手を伸ばしていたころ、フュージョンというジャンルを知った。これは気に入った。私がそのころイメージしていた大学生っぽかった。実際に大学生になると、「あれっ」という感じだった。アイドル歌謡か冗談音楽みたいなものしかなかったのである。フュージョンを聞くと、70年代後半の明治と大正のはざまに漂う重厚さの記憶のほんのりとした感触がある独特な空気感を思い出す。

 フュージョンから何曲か。まずはフュージョンというジャンルを始めた聴いたとおぼしき曲が中学生の時に聴いたアル・ディ・メオラの「地中海の舞踏」。すごいテクニックだなあ、と感心した。ここではパコ・デ・ルシアとジョン・マクラフリンを加えたスーパー・ギター・トリオ・ヴァージョンで。

 次いでパット・メセニーの「スプリング・エイント・ヒア」。この物憂げで気怠い感じが気に入っている。

 アップテンポの曲をいれて高中正義の「スピード・オブ・ラブ」。70年代後半から80年代前半にかけて色んなところから引っ張りだこだった記憶がある。

 同じく日本人ミュージシャンのカシオペア。名曲がたくさんあるけれど、ここはかなりマイナーな「Far  Away」。私はこの曲が好きで、カシオペア・ベスト・ファイブに入れている。

 ラストはジョー・サンプルの曲で。人気アルバムを連発していたが、私が一番好きなのは『The Hunter』である。同アルバムからタイトル曲を。


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