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「事実」と「思い(意見)」の違い

どうも、えんどうです。

ぼくがこうやって冒頭に挨拶を書くようになったのって、いつ頃からかご存知ですか。知りませんよね。そこまで読み返すのも面倒だし、僕がわざわざ書かない限り、それを気にする人もいないだろうと思います。

でも、この記事にもそうだし、最近の記事内容に「書いてある」のは確認できるし、過去記事を漁って行けば調べることも可能です。

これは「事実」と「思い(意見)」の話ができそうだな、と思ったので、それとなく書いてみようかな、と。もし、お付き合いいただけるのであれば幸いです。

事実と思い(意見)について

まず、先に触れた「どうも、えんどうです。」ですが、ぼくがどんな思い(意見)を抱いて書いているのかという感情が入り混じる部分は、誰もわからない。わかるはずがありません。どこにも書いてないし、誰にも伝えていませんから。

ここにおいて、ぼくの思い(意見)はどこにも反映されていないわけです。

だけど、事実として「書いてある」のは確認できる。

いつ頃から書き出したのかも、面倒だけど過去の記事を漁って行けば辿り着けます。

もしかしたら2014年から複数年、同じような書き出しをしていたのかもしれないけれど、していないのかもしれない。だけど、調べることはできるため事実確認は可能です。

ないだろうけれどある会社の上司が「#えんどうnote で冒頭の挨拶っていつからはじまったの?」なんて部下に聞いた際に、部下がするべき報告は「YYYY年MM月DD日からで、それ以前は確認できませんでした。」になります。

だけど「いつから記載があるのか」って事実確認をしてない場合、「MM月DD日あたりからだと思います。」なんて具合にフワッとしたり、「本人が誰にも伝えてないって書いてるので、書いてる理由はわかりません」みたいにトンチンカンな報告をしてしまうことにもつながってしまう可能性すらあります。

なんで、こんなことになるんでしょう。

自分の思いを共感してもらいたい

上司側からすると「いや、思いはどうでもいい。客観的な事実だけ、情報として入手したい。」のです。

なぜなら、上司側は他にも決めるべきことがたくさんあるからで、余計な見識や認識という「解釈」が入ってくると情報が淀んでしまうため、判断を下す際に誤った判断をしてしまいかねません。それを避けたいのです。

どうしても部下側は「自分が見た世界」を忠実に言語を駆使して再現した上で上司に伝えようとするのですが、過去を人間の解釈が入った状態で正確に言葉だけで伝えようとすることには限界がありますし、何よりもそれをやろうと思ったら時間が足りません。他にもやるべきこと・やらなければならないことは上司も部下も沢山あるのです。

上司と部下の関係を離れて、友人や知人との関係でも同様のことは起こります。

たとえば、友人とAという駅で待ち合わせをしていたとして、時間に余裕を持って電車に乗り込んだものの、待ち合わせ場所であるA駅の1駅前のB駅で人身事故が起こり、遅延発生。現在は4駅前のC駅である。

この際に友人に対して伝えることはなんでしょう。

「ごめん、遅れるかもしれない。人身事故が起こったみたいで電車が遅れるっていうから、たぶん、大丈夫だと思うけど、もしかしたら遅れる。」

そうじゃない。

「みたい」とか「たぶん」とか「だいじょうぶ」とか「もしかしたら」と、とにかく相手に自らが不安に感じている状況を伝えたい気持ちは理解できますが、ここで相手が知りたいのは「あなたが待ち合わせ時間に間に合うのかどうか」なわけで、あなたの「間に合わないかもしれない不安」に共感したいわけではありません。

状況
・B駅で人身事故発生
・電車の運行が遅れる
・自分が乗る電車はC駅で止まっている

見解
・余裕を持って出てきたので間に合う可能性はある
・ただ、間に合わないかもしれないので場所を変えるのはどうか

みたいな提案まで含めた伝え方ができたらいいのかもしれませんね。

これは情報の整理の話

いずれにしても、これらの話は情報をいかにして整理した上で伝えるのかと言った話で、上でも触れているように「状況」と「見解」を分けるなどして、フレームワークみたいなものを用意しておくといいかもしれません。

状況は事実把握が必要ですが、見解は状況を踏まえた上での理解や見え方なので、整理する必要があります。

部下側が述べてしまいがちな「大丈夫だと思います」は、それを述べている時点で上司側からしたら大丈夫ではないのです。

何をもって大丈夫だと思うのか、事実として「何が」「誰が」「どんな状況」なのかを把握した上で、「大丈夫」なのか「ダメ」なのかを判断していることがわからないと「大丈夫だと思っていること」に対しての判断もできません。

だから、情報は整理しましょうね、となるのです。

難しいんですけどね。

ぼくもこんなふうに書いておきながら、未だにできているのかどうかは自信がありません。ただ、ここに書けるようになっている、ということは少なくとも意識をして生活をしているし、整理するようにしているからこそ、です。

随分と絞られた記憶は、いまだに拭えませんし、いい記憶だったとも思えませんが、しっぽりと定着記憶になってしまっているので注意したいと思っている次第なのですが、この話は上司側にも「どんな情報が欲しいのか」を丁寧に説明する機会を省いてしまってる可能性、つまりは落ち度があります。

交通事故と一緒です。歩行者だろうが自動車だろうが、お互いに気をつけることが大事なわけで、「大丈夫だろう」と「思っている」と事故が起こってしまいます。

指差し確認するぐらいに余裕を持っていきましょうよ。

それでは、また。


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