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「広告的」か「広報的」か。いや、「丁寧な意思疎通」だ。

組織をどんな定義づけをして運営するかを考える際に、広告的な組織なのか、広報的な組織なのかを明確にすることは、非常に意義があり、大切なことなのだと理解しはじめました。

コーポレートブランドやサービスブランド、プロダクトブランドを打ち出していく際に、それを広く、もしくは深く認知してもらうためには発信をする必要があるのはいうまでもありません。人々は自分の生活圏にどんな情報や機会が潜伏しているのかを自ら取得しようとするものではなく、発信されている情報を受けて、損得計算と感情的に合致するのかを図り、機会的な意味での時間があれば能動的に行動をしてくれますが、多くの場合は受動的に待ち受けているものですし、気にもしていない人の方がほとんどです。

なぜなら、関係がないから。

自分の生活や時間に関わる箇所がない、という意味でもそうですし、そのブランド名やサービス内容、提供してくれる物品などとの関係性が乏しいこともそうです。

石焼き芋屋がスピーカーで連呼する理由

石焼き芋屋さんが「いーしやーきぃいもー、おいも。」とスピーカーで流しながら、ゆっくりと走っているのは「自分が石焼き芋を売っていること」をアピールするためであり、自宅内にいる人や、少しだけ離れた位置にいる人に対して自分の存在を示す発信をするため。

ただただ騒音を撒き散らしているわけではありません。実際、それで買い物をしにきてくれる人がいるのであれば、立派な宣伝活動と販売促進として成立することになるのですから、見習うべきものです。

見習うべきは「スピーカーを使えばいい」とか「象徴(キッチンカー)を作ればいい」といった方法論ではありません。石焼き芋屋さんが発信している「姿勢」であり、根幹的な「態度」です。

組織や個人は規模の代償を問わず、「〇〇をしている」と自ら発信しなければ誰も認知してくれません。自分で発信もしないのに「認知されない」とか「いい製品なのに」とか嘆いていても仕方ないのです。焼き芋屋さんのなかにそんな人たちはいません。とにかく、自分たちでできることを明確にする過程で「発信すること」の必然性が出てくるのであれば積極的に取り組むべきです。ここを理解・納得できていない組織や人も一定数ありそうだし、いそうだよなと感じています。

「大声で叫べばいい」といっているわけではありませんが、注目をされるように努力をすべきでしょうね、とはいいたいのです。

「広報」と「広告」

それぞれの意味についてWikipediaで調べてみると、以下のように記載があります。ちなみに、どちらも文量が多いので読み応えがあるので、一読を勧めさせていただきたく存じます。

広報
広報(こうほう)とは、企業だけでなく行政や各種団体の活動内容や商品などの情報発信を行う業務、またはその担当者や部署。広告と混同されることがあるが、広告が新聞や雑誌、テレビなどの広告枠を買って商品や企業の宣伝を行うことであるのに対し、広報とは情報を受発信することで、新聞や雑誌などの媒体に記事として取り上げてもらったり、従業員や株主、消費者などのステークホルダーに活動内容などを理解してもらうことを含む。
広告
広告(こうこく、英: advertising)は、非人的メッセージの中に明示された広告主が所定の人々を対象にし、広告目的を達成するために行なう商品・サービスさらにはアイデア(考え方、方針、意見などを意味する)についての情報伝播活動であり、その情報は広告主の管理可能な広告媒体を通じて広告市場に流されるものである。

ここ最近、広報「的」な組織や個人が増えているため、多くの発信を見受けるようになりました。見受けられるようになりましたが、自ら発信することが前提化したというよりは、やってない人や組織に対して「なんでやってないの」と思われる節すらあります。要は周りの空気を見ている人たちが増えた、という方が適切かもしれません。

たとえば、TwitterやFacebookで公式アカウントを持つことが前提になっている組織もあれば、そもそもアカウント保有することに対しての閾値が高い組織もあります。どちらが「いい」とか「悪い」といった具合に良し悪しを決めることはできませんが、現代においては前者の方が認知される機会は増えるでしょうし、そんな風に取り組む組織や人が増えたのは間違いありません。

では、必ず企業アカウントを保持した上で発信を繰り返せればいいのかと問われれば、その答えは「組織体・製品・サービス内容にもよる」と答えざるを得ません

「反応のしがいがある」場合において、前者は圧倒的に有利でしょうが、自らのことを発信する組織や個人が増えてきたという意味でいえば、広報的な人たちが増えてきたからだとみることができますが、その活用の仕方がに誤りがあるように感じるところも少なくはありません。

たとえば、インフルエンサーに宣伝をお願いする、いわゆるインフルエンサー・マーケティングも分類をするとしたら、広告的な発信ではなく広報的な発信となります。ただ、これを勘違いしてしまい、多くのファンを抱えているインフルエンサーに対し、広告的な依頼をしてしまう企業が少なくない印象です。

インフルエンサーを起用する場合、「広告」にしちゃダメな理由は感情にあります。いまはネット広告がTV広告を抜いて、広告業界におけるトップシェアを占める状態になりましたが、これによって広告における「遊び」「余白」がなくなっているといえ、今後も傾向としては増加の一途だと考えています。広告主や代理店は「広告を出稿する以上は費用対効果が絶対で、効果のない施策は打つべきでなく、数値で追えるものはすべて追うべきだ」と息を巻きますし、実務に即した広告出稿というのは、そういうものだろうことは異議ありません。

旧来的な広告制作現場で広告内で訴求をする際には、コピーライターが考えるキャッチや文章を書くなどの行為は、数値的なものを求める姿勢よりも、読んだ人のなかに共感できる要素を引き出すような、感情の共感を提供するようにしていたのだろうし、製品やサービスが届いて欲しい人の顔を思い浮かべて書かれるものでしょう。それは製作物も然りで、大手だから中小企業だから個人だからといって区別されるものではなく、製品やサービスを手に取った人が喜び勇んで利用し、体験し、満たされる様子を思い浮かべながら制作されるものが広告だったんだよな、と振り返っています。

いわゆるインフルエンサー・マーケティングに期待すべきものも同じはずで、依頼されるインフルエンサーは自分が発信する意見と立場を貫いており、発信に対する責任を持った上で各種SNSやメディアでの発信を考えていますが、根本的には「感情」を込めて発信するのです。

そうなると、「数値的な結果」を求め、広告的な発信を求めてくる「広告主」との相性が良くないのはいうまでもないでしょう。感情に対して訴えかける以上、数値的な結果"だけ"を求めるのは野暮だといえます。

丁寧な意思疎通を目指す人たちが増えた

とはいえ、先にも触れましたが販売促進を含めて自社の情報を多くの人へ届けるためには、数値的な結果を踏まえながら見なければならない場面も出てくることは一切否定しません。そこはぼくも理解してます。

同時に、自社情報をきちんと発信し、届いて欲しい人たちに向けて届ける手段や方法を駆使する、努力することを実践し始めている組織が徐々に増えてきているからこそ、そのための方法を模索しながらも懸命に努力をしている組織や個人が増えてきている印象を抱いています。

ぼくは、おそらく今後、「広告的な広告」はなくなりはしないものの、駆逐されていくのだろうと見ていて、その駆逐するのは何かといえば「丁寧なコミュニケーション」だろう、と。

広報的な組織なのかというと、そうではなく、その理由は「広報って言葉だけでは不足している」と思っているからです。

みんな気づいてるのです。「みんな一緒」なんて幻想であり、実際に振り返ってみたら「みんな」の中には2、3人しかいないことを。だったら、その2、3名かもしれないけど、確かに顔の見える人たちに対して丁寧にコミュニケーションを図るべきであり、意思疎通を図らなければならないのは、確かに存在して名指しできる「あなた」なのです。

顔や声の大きい人たちだけで、工業生産だけで回っていた時代がとうの昔になり、適当な人に適切な意味を持たせる組織や個人が、徐々に、だけど確実に存在感を増してきました。マス的な一方通行ではなく、数値的な結果だけを求めるでもなく、丁寧に意思疎通を図り、感情を見出せるような姿勢や態度。

それが個人でも、組織でも求められているし、そんな情報発信をしていくことが大切になってきているのだと感じます。


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