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「テレビゲーム」と「学習や教育」の関係

枕にかえて

どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

我が家というか、そもそも僕はゲームが好きなのだが大人になってからというか、子どもと生活をはじめてからは自らのやりたいと思ったゲームを購入してやり込むようなことはなくなった。むしろ、彼らと楽しめる要素がなければゲームに取り組む時間自体が確保できない。

時代によって子どもの学習や教育に悪影響を与えると槍玉に上げられるものは変わる。

テレビが普及した頃にはテレビが槍玉に上がり、一般化した状態ではテレビゲームがそれとなった。いまの時代はスマートフォンがそうであるように、何かしら視点や意識を確保しなければならないものが一気呵成に普及するとともに「子どもの学習や教育」と紐づけた上で批判される。

ところがどっこい、それが科学的にテレビゲームが勉強や成長に悪影響を与えるかどうかを証明することは事実的に不可能だが、それを短期的な視点のみで堂々と述べてしまう人たちを『バカの壁』を乗り越えることができない人たちだと断じた養老孟司には敬服するばかりだ。

そんなわけでゲームと学習だとか教育について考えてみる。

▶︎ ゲームだって学習の繰り返しである

話に入る前に「学習」や「教育」の定義を共通化しておくべきだろう。

心理学においては学習を『経験に通じて行動に持続的な変化が生じる、ないし行動パターンが変化する現象のこと』と定義している。(『初めて出会う心理学(有斐閣)』より)

一方、教育は定義が多岐にわたるものの、おおむね「教え育てること」であったり「知識や技術を教え授けること」、「人間に内在する素質能力を発展させ、これを助長する作用」とするなど、人が人に助言や支援を通して何かを得たり習得する手法や方法を指す場合が多い。

これを基に思考すると、学習とは当人が行うものであり、教育は誰かが介在されることであろうことがわかる。

ここから言えることは、あくまでもゲームは当人が行う「特化的な行動」であると理解できるとともに、そこには立派な効果があるだろうと判断できる。理由については以下で述べていこう。

▷ ゲームが短期的みれば学校教育における学習に悪影響

あくまでも短期的な視点で見れば、学校教育における学習に悪影響を与えるのはいうまでもない。

これはもう簡単なことで、ゲームを取り組んでいる時間は勉強の時間を確保できないからに他ならない。勉強をしないのだから、学校の試験対策や大学入試における共通テストの試験結果が悪くなることは当然の結果であろう。

1時間ゲームをするのであれば、1時間分の勉強をすることで相殺されるのかというとそういうことでもないのが勉強の悪いとこである。勉強には「種類があり、それぞれに攻略すべき内容が異なるのだ。

しかし、ゲームでやりたいことは一貫してステージやライバル、はたまたゲームシステムの攻略と一貫しているが、それを身につけるまでの時間と勉強で各科目ごとに攻略しなければならない時間は均等にはならない。

おそらく、ここが勉強の当事者である児童・生徒・学生の歯痒いところであることは僕自身が体験を持って理解できる点だ。

ゲームに没頭できるぐらい勉強に没頭できていたとしたら...そう思い描く保護養育者は多いだろうが土台無理な話であることは誰の目からしても明白で、そもそも射倖心を煽られない勉強に没頭できる人材は、そもそも遺伝的にそういう特性を持っていると言わざるを得ない。

だが、大半の児童・生徒・学生はそんなものを持ち合わせていないため、ついつい欲望に負けてしまう。それがゲーム以外の何かであっても結果は同じだ。LINEでもソシャゲであろうと「時間を食い潰すこと」と「勉強」の均等性など保つことが困難なのである。

▷ 教育は矯正することではない

約束事として「ゲームを取り組んだ同等の時間だけ勉強を行う」などとし、ある種の契約的な拘束力を発揮させつつ、律させることは子どもたちにとっても有効だろうが、教育とは強制することではない。

それは冒頭で書いた教育の多義的な定義を見れば明らかだが、どこにも「強制的に」や「矯正する」といった文言は入っていない。

教育とはあくまでも当人の意思に向けて導く行為であり、何かしらを矯正した上で無理矢理にでも取り組ませる人間性を損なった行いではない。それが性善説であると否定する人たちの感情はわからないでもないが、少なくとも教育における理念なんてものだろう。

たとえば、あまりにもゲームをやっている児童・生徒・学生がいたとして、その保護養育を担当する者が怒りに任せてゲーム機をどこかに隠したとしても、それは教育的な価値のある行動なのかというとそうではない。

ここでいう教育的な行動とは、相手に「どうありたいのか」を自覚させつつ、その自覚のもとに行動してもらう約束を取り付けることだろう。理想論だ。当たり前だ。理想論であることを重々承知の上で書いているのだから。

しかし、理想論を掲げることこそ教育がすべき事柄でもあるはずで、そこに魅力のある言葉や態度、姿勢が溢れるからこそ教育を享受する側も感化されて行動を見直したり、改めるような態度を取ることになるのだ。

ゲーム機を取り上げたり、スマートフォンを矯正的に取り上げ、それらをどこかへ隠してしまうことは矯正であるが、その矯正を他人から強いられることは苦痛であることを我々は知っているではないか。

そう、矯正されることは苦痛なのだ。

そんな時は「どうあるべきか」を問い、自身によって確認させたのち、契約的な強制力を「自身で決めさせること」で行動を改めてもらうことが善処ではないか。理想論だ。わかっている。しかし教育とは崇高なものだからこそ、理想論で語らねばならぬのだ。だ。だ。

▷ ゲームにも学習効果があるのはポケモンが実証している

では、ゲームには学習効果が期待できるのか。存分にあるだろう。冒頭に書いた学習の定義を見れば、それが間違いではないことを気づくはずだ。

経験に基づく、としている点こそゲームの本質がある。ゲームは反復が生じる。どんなゲームであれ、必ずCPUには再現性が組み込まれており、Aボタンを押したらジャンプといった形でコマンド入力が可能となっている。

結果、どこでジャンプをすればいいのか。その使い所を画面内のキャラクターを動かしながら判断し、実際にボタンを押す箇所を判定しながら次々に障壁を乗り越えていく。

仮に横スクロール型のゲームを取り組んでいたとして、1回目のゲームトライではジャンプできることを知らずに穴に落ちてしまったとしても「それを乗り越えるためには何か方法があるはずだ」と考えるはず。そこで色々とキャラクターを動かしてみたりするだろう。

2回目以降、複数回もあればしっかりとと障壁を乗り越える姿を目にできるはずである。

つまり、学習とは自らが能動的に気になったことや乗り越えたいと思えることに立ち向かう過程のことであり、それらを達成できた際には充足感となって当事者である本人に手応えを与えてくれる。

それを保護養育者のほとんどは子どもたちがポケモンの名前を覚えることから知っているはずだ。テレビアニメでもゲームでも構わないが、ポケモンに触れた子どもたちは能動的にポケモンたちの名前を覚え出し、いつしか全てのポケモンを画面に登場した瞬間に識別した上で名前を出すことを可能とする。

僕が小学生当時に発売されたポケモンは、いつしか長年続くベストセラー商材となっており、アニメも長らくシリーズを変えながら継続できている日本が、いや、任天堂が誇る巨大コンテンツである。

ポケモンに「能動的な学習体験」を与えてもらった児童・生徒・学生が多いことは、保護養育者や教育担当である大人たちは誇るべきことだ。能動的な学習によって「覚えること」や「どうやったら...」と思考することを体験させてくれているのだから。

感謝こそすれ否定することなど言語道断である。

そんなわけで、僕も子どもたちとともにポケモン(『Pokémon LEGENDS アルセウス』)を捕まえる旅にではじめたことをここに記す。

ゲームボーイの頃とは打って変わり、いま、ポケモンを探す旅は360度となり、実際に動くポケモンに向かった狙いを定めた上でモンスターボールを投げつけるのだ。やっぱり、コンテンツは偉大だと実感することができ、非常に嬉しい次第である。

ではでは。

えんどう

▶︎ おまけ

▷ 紹介したいnote

子ども時代、まったくゲームが思う通りにいかないことで癇癪を起こしていたことを思い出す。なぜうまくいかないのか。どうして思う通りに運んでくれないのか。そう思い悩み涙を流したことだってある。我が家の子どもたちも同様の姿を見ていると、ゲームっていいものだと思うばかりだ。

人生をボードゲームに見立てることをできるか。おそらく僕はできてこなかったタチである。おそらく、と言っている時点でどこか自分の人生に対して無責任な態度のような気もするが、その程度の人生なのであろう。しかし、子どもたちとの生活というハッピーライフは送れているので満足だ。

いま、ゲームはオンラインで誰とでも繋がることができる有機的な存在だ。ゲームによって社会的な接点を持つこともできれば、それによって救われる命がある。大袈裟でもなんでもなく、インターネットが施してくれた善良面だ。

▷ 本noteに関連する紹介したい書籍

ゲームデザイナーでもなければ、デザイナーでもなんでもないのだが、あまりにも面白くて水洗したくなってしまう。それが本書だ。ボードゲームなどを考える人たちは本当にすばらしいと思っているのだが、その一端に触れることができる。すべてのゲームを楽しんだことがある人に送るりたい。いや、買って欲しい。

▷ 著者のTwitterアカウント

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