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「同調」と「協調」って違いますよね?

これまで生きていて「足並み揃えろ」とか「他のみんなもやってるよ」とか「いうこと浮いてるよね」とか「普通はそんなこと考えないよね」とか言われた記憶が少なからずありますが、その理由を考えると、よく耳にするのが「日本は均一的な教育をしているからだ」ということ。

“他と違うこと”を許容できないから、他と同じことを求めるのが当然の世界ということですかね。そこで、言葉は意味をきちんと見てみます。言葉の意味を知り、正しく使われるべきだ、というのがぼくの持論でもあるので。

そこで、それぞれの言葉をコトバンクを使って調べてみたら、なんのことはない。根本概念からして全く異なるものだった、ということです。

同調というのは“他の調子に合わせる”とか“調子が同じこと”とか。もっと言えば、“他の人の意見に合わせる”なんてことが記載されてます。

協調には、“利害や立場などの異なるものどうしが協力し合うこと”という記載がございまして、もう、全く違いますね、と。

では、どちらの方が前向きな言葉なのかと言えば、協調という言葉です。


そして、付け加えて述べるのであれば、道徳教育の教科化には個人的に賛成はできないという立場を取っています。道徳教育を行うのであれば、法学教育をすべきだ、というのがぼくの意見です。

そもそも道徳教育は「教員の求める答え」を出すことが「正解」とされ、そんな綺麗で耳障りのいい回答をすることで道徳心を身につけたことができたと判断されるから、というのが理由です。

道徳の授業における課題については、この論文の内容に同意なのですが、そもそも物語の登場人物の心情を場面の移り変わりに乗じて考察を行う、ということが主だったものであり、その移り変わりにどんな心情の変化があるのか、と発展させることを考える人もいるそうだけど、そこまでするのであれば自分ではない他人の権利を認め、共存するための方法を考えることをした方が実社会における課題を解決するに適しているのではないでしょうか。

『効果的な道徳教育のための指導方法についての研究 ~道徳学習プログラムの実践をもとに~』新川 靖(関西福祉大学)

正解があることなんて、成長するほどにあるわけがないことを実感しますし、そんな耳障りのいい回答なんてものは人付き合いを重ねるにつれてあり得ないことを突きつけられていきます。

個人的な話になるのですが、ぼくは過去に中学校を不登校になった時期があります。当時は気恥ずかしさもあり、それを周囲のクラスメイトなどに話す機会は設けませんでしたし、今でもそんな彼らとの付き合いはありません。

ぼくはその時期、学校に行くことが嫌だったのはもちろんですが、それをすることになんら意義を感じていませんでした。

当時はバスケットボール部に属していたのですが、ちょっと体調を崩したことから、部活動への参加が滞ると、からかわれました。別になんの後ろめたいこともなかったので、それを契機に辞めたいと顧問に申し出ました。

しかし、顧問は「いま辞めたら、これから人生ずっと逃げるんじゃないのか?」と突き放しました。当時のぼくは、ぼくなりに追い込まれている状況であり、それを大して話も聞かず、聞こうともせず、突き放すことしかできなかったことは当時の顧問は相当な無能な教員だったな、と思います。

そして、当時の担任も同様の態度でしたので、ぼくとしては学校内に頼って話ができる「大人」が存在しなかったこともあり、学校に行くことの価値を見出せず、行くことが心底嫌になった、というわけです。

そういう意味でいうと、ぼくは過去に「属す」という意味で何度か失敗していて、小学校5年生のころに入った地元のサッカースポーツ少年団は、練習試合にも出さないという指導者の態度が嫌になり、やめたこともある。

中学校でいえば、野球部に入ったけど、ひたすら走らされた後にグローブを持つように支持を受けたので「いよいよキャッチボールか!」をワクワクしていたら球拾いしかできなかったので、やめました。

(ちなみにその後にバスケ部へ部活を変えたのですが、部活動を変える奴なんていなかったので、手続きに慣れていない教員の対応の不味さも嫌でした)

(いま考えると全くもって意味のわからない価値観ですが、一つの部活動で卒業まで辞める事なく継続した方が内申点が良い、といわれてました)

とか、ぼくは小学校高学年から中学校3年生にかけての数年間、クラブ活動やスポーツ活動において「属する」という点において、ことごとくうまくいっていないんですね。

あとはですね、ぼくの性格だと片づけるのは良いけども、そもそも(部活動を移るという)選択肢がない、もしくは少ないことのほうが問題であり、それを改善しなかったことは学校、もしくはクラブの怠慢ではないですか...と。

ここでぼくがいいたいのは別に文句ではなく、同じように不満を抱えていた人たちは何も考えずに続けたことに対する疑問しかないわけなんですよ。

そして、同じように部活内で気持ちが継続しなかった人たちは、部活動へ参加せずに実質的な帰宅部と化していましたので、仕組みや対応の仕方について全く連携や連絡体制が機能していなかったと容易に想像できます。

(ちなみに、ぼくは高校時代、きちんとサッカー部員として3年間をやり通し、運が味方したこともあり、最終的にはレギュラーとしてスタートメンバーに名を連ねることができた。なので、ただの根性なしと片づけるのは早い。と断言させていただきます 笑)


今回、扱っている「同調」と「協調」の違いをきちんと理解するためには、「属す」ことに依存するかどうかが大きいと僕は考えています。

なぜなら、属すことを目的にしてしまい、自分の居場所にしたいと考えてしまうことこそ、同調圧力が生じているからに他ならないというのを強く感じますし、そこからあぶれてしまった時に協調なんて夢のまた夢。

属すことを目的化してしまうことは、自らの意思と力を持って他人と協力して調和を生み出す機会を失うことになります。なぜなら、周囲と同じくなるための調整をすることと同義だからです。

「みんな」という集団的個別組織ともいえるよくわからない周囲にいる人たちの人生を生きようとした結果、「自分」の価値基準がわからなくなってしまいます。

「みんながそう考えてる」とか「みんながそうしてる」、「みんなが言っている」、「みんな我慢してるんだ」といった、会話の中に「みんな」という言葉を使い始めた瞬間から、他人の人生を生きようとしてしまっているのかも知れません。

今回のぼくのケースでいえば、クラス内、部活内、学年内、といったそれぞれの階層において、大半がそうしているからといった理由で同じことをしなければならない理由は全くありません。

しかし、それを許さないのが学校という閉じられた場所であり、その世界の在り方です。閉じられた環境は、その管理がしやすい反面、その中ではみ出してしまった人間は居場所がなくなってしまうことです。

事実、ぼくは学校での居場所を感じられず、それを探す魅力も感じられなかったこともあり、登校拒否という形で実行しました。


結果、ぼくは学校という場所に期待することをやめました。もちろん、いわゆる不良といわれる人たちのはみ出し方とは違い、ぼくはダサいはみ出し方をしたのかも知れません。

けど、「属す」ということに対して何も考えずに実行するという選択をしなかったことは、今となってはよかったと考えています。

かれこれと、これまでぼくは業種・職種を変えること4回を数える生活をしております。(社会評価的にはどうかわかりませんが、)ぼく自身は、それを悪いとは全然思っていなくて、むしろ経験値が高まっているとすら思ってます。

現実、業界をまたぐことで共通して考えられること、全く通用しないこと、何を引っ張ってきたらうまくいきそうなのか...という点で業界や職業固有の固定観念が働くことがありません

その前提は、自らと異なるパーソナリティを否定しないことです。どういうことかといえば、至極簡単なことで、協調しましょう、ということです。

相手の意見を尊重したうえで、あくまでも何が解決策として適切なのか。固執することなく、意見を闘わせ、考えましょう、という態度を持ち合わせることで実現します。

自分と違うということを否定しない。頭ごなしに相手を否定してしまうのは、どんな状況であれ、自らの意思にそぐわないパーソナリティの排除に他なりません。

そのためには「相手は自分とは異なる人格である」ことを認識することです。

家族であろうと、パートナーであろうと、兄弟であろうと、人は常に孤独な存在であることを認めるところから「協調」を求められるようになるのではないでしょうか。


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