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年始に抱負や目標を立てても仕方ないので生きたいように生きてくれ

 2022年になった。2000年を迎えるにあたりノストラダムスの大予言で大騒ぎしていたのがウソみたいである。あの頃から20年以上も経過しているのだ。当時15、6歳だった僕はすでに30代の後半。すっかり中年街道まっしぐらである。

 どうも、えんどう @ryosuke_endo です。年始になると「今年は…」とか「去年できなかった〇〇を…」といった意思表明があらゆるSNSで溢れかえるが、それに向けてのボヤきみたいなものをツラツラと。

▶︎ キラキラした自分なんて捨ててしまえ

▷ 忘れ去られる抱負や目標を立てるな

 新年を迎えるにあたり、自分自身への決意を改めるとともに対外的に認知を受けて自身への重圧をかける意味で目標を公表する人がいる。その様相はあまりにもキラキラと自身への希望に満ち溢れており、投稿を目にすることで目がチカチカする。

 しかし、その誓いは一ヶ月、三ヶ月、六ヶ月、年末に差し掛かるにつれて「なかったこと」になることだろう。少なくとも僕は、これまでの人生において、年始に立てた抱負や目標を年末まで覚えていたこともなければ、実行できたとしても2週間が限界だった。

 その経験から、30代になったのを契機に抱負や目標を立てることはなくなった。

 年始に立てた目標を周囲に喧伝し、「おぉ、やるんだな。がんばれよ。」なんて言葉をもらうために公表・表明する人間もいるが、上記同様に一ヶ月後、三ヶ月後に覚えている人などいない。誰もあなたの目標に興味を持って監視してくれる人などいないのだ。

 年を重ねたからといって細胞分裂が急速に進み、これまでの自分とは全く異なる人物になることなどありえないのだから、あまりにも突飛な目標や決意をすることなどやめてしまった方がいい。

 仮に、できなかったことを悔やんでしまうことを繰り返しているのであれば、むしろ立てずに暮らした方が充実するのではないか。

▷ 大事なのは縛ることではなく充実させること

 何より、自らの立てた目標や決意とやらによって行動を縛ることを喜ばしいと感じる人はどれほどいるだろうか。人生における目標や決意を達成できなかった際に不幸になるとでもいうのか。

 果たしてその生き方は、本当に自分が望んでいることであると胸を張って生活できるのか。

 僕が言いたいのは、そもそも日々の生活をいかにして充実させるのか、充実させることができるのかであって、常に人生を目標や決意を掲げ続けることをやらなくていいということだ。

 義務教育機関は児童生徒たちに冬休みで「今年のめあて」や「今年の目標」などを書かせた上で提出させる。毎年、できもしない目標や決意を立ててしまう人は、その頃の名残があるのかもしれない。

 しかし思い返して欲しい。その目標や決意とやらは自発的に出てきたものだろうか。むしろ、無理やり作りだした虚構の目標や決意ではないか。自らを虚構化させ空想上の「それができる自分」を羨むあまりに出来上がったしまった虚像だと考えることもできる。

 もし、そうなのだとしたら冷静になって考えてみるべきだろう。

 それは誰のための目標や決意なのか。教育機関から提出を求められたもの、保護養育者が求めてきたから何とか捻り出したもの、周囲が立てているからと仕方なく合わせる形で立てたもの…

 冷静に落ち着いて自身を見つめ直してみると、下手に目標や決意を立てることで自縄自縛となってしまっている可能性はないか。それで日々が充実し、人生の幸福を得られるのであればいいが、そうでないのだとしたら考え直した方がいいだろう。

▷ 生きたいように生きる決意をしよう

 そもそも日々の生活に追われているのであれば、いかにして平穏で余裕のある生活を獲得できるのかといった「日々の見直し」をすべきであり、見つめ直すのだとしたら「日々の生活を効率化」することにあるはずだ。

 「それを年始に目標や決意化してもいいではないか」

 そう言いたい人もいるだろうが、そんなことをわざわざ目標化したり決意化したりする暇はないはずだ。わざわざそれを目標として書き連ねている暇があれば、少しでも日々の生活における無駄や非効率な過ごし方を改善した方がいい。

 ひいては、自分が優先したい事柄は何かを見出すべきだ。

 例えば、日々の働き方がどうも生産的でないのだとしたら、短時間で多くのタスクをこなせるようにすべきであり、就業時間を余らせるように順序立てて業務に取り組むべきだ。しかし、仕事だけが生活ではない。そもそも自分自身が何を持って満足感を得られるのかを把握している必要がある。

 僕の場合は自宅に帰って家族との時間をいかにして確保するのか、その確保した時間でいかに子どもたちと濃厚接触をするのか、その時間を少しでも多く作り出すことを生きがいとしている。

 他にも映像や読書などコンテンツを享受する時間もつくりだしたい。

 それらの時間を作り出すためには24時間といった制限がある中で、どこに作り出すのかを明確にする必要がある。正直な話、家族との時間やコンテンツを楽しむ時間を確保するためには「仕事なんてしてる場合ではない」のである。

 僕にとって人生において優先すべきことや優先したいことは「仕事」ではない。また、自分が何をしているときに喜べるのかを明確に把握しているからこそ、「自分の働き方」、ひいては「生活の仕方」を日々改善し続けている。

 僕がよく自身の幸福感を表現するために「たまごごはん(たまごかけごはん)」の話を出す。

 ホカホカのごはんに生卵を入れるのだが、白身を入れるのか入れないのか。醤油なのかポン酢なのか。そこに調味料として七味唐辛子を入れるのかワサビを入れるのか、それともカラシをいれるのか。それらを複数掛け合わせることで無数の楽しみ方が実現できる。

 それを模索することと、実際に堪能することは僕の幸福感を感じることの一つである。小さなことだとしても、その味わい方を見出すことで何倍でも幸福度を増幅させることが可能なのだ。

 別に同じことをやれと言うのではなく、いかに日々を充実させるのかを考えた方がいいのでははないかという苦言である。参考にしてもらえたら幸いだ。

 ではでは。

えんどう

▶︎ おまけ

▷関連する紹介したいnote

「学ぶことが好きになるか嫌いになるか」という問いを人生の前半で立てた上でどんな解を出すのか。そのためには「自身の幸福度を高める方法」や「自身の幸福に感じる瞬間」を見出す必要があるよな、と再認識した。

こういう風に日常を言語化することができるのは偉大なのだ。なぜなら、大半の人は自分の生活を「なんとなく」過ごしてしまっているだろうから。それを言語化することで何が不足し、過剰なのかを把握することができる。

拠点を複数もった生活をすることは、移動時間も含めて仕事であり生活なのだ。そもそも拠点を複数構えることによって生活を設計しなければならないため、自身の喜びを何によって得られるのかを明白にできる。

▷ 参考書籍の紹介

生活考える、というのは自分がいつ死んで後悔するのかを考えることにもなる。そもそも日々が充実した生活を送れているのであれば後悔などしない。もしあと一年で人生が終わるとしたら…半年後に死んでしまうとしたら、明日死んでしまうとしたら…いくつも可能性を考える際に必要なのは、自分が何をもって幸福と感じるのかだろう。それを考える上でも以下を読むことはきっかけになるかもしれない。

▷ 著者のTwitterアカウント紹介

僕の主な生息SNSはTwitterで、日々、意識ひくい系の投稿を繰り返している。気になる人はぜひ以下から覗いてみて欲しい。何ならフォローしてくれると毎日書いているnoteの更新情報をお届けする。


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