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AIより価値のある文章を書けるのか

ChatGPTBingAIといったLLM(Large Language Model:大規模言語モデル)の技術がツール化し「文脈を考慮した文章生成AI」が登場したことにより、少なくとも、ぼくは自分の仕事について「あり方」を考えることになった。

白状すれば、ぼくの仕事なんて大半がこれに代替されてしまえるのではないかってことだ。

それらのツールの特徴は、簡単にいえば前後の文脈を見て、その文脈に適した文章を生成することができることにある。つまり、前後の文脈における確率的に人間が使用する頻度の高い文言を選択できるようになったのだ。

これによって平易でなんでもいい文章などが代替どころか駆逐されることになり、日本の商習慣から「お疲れ様です」や「お世話になっております」といった意味のわからない定型文がなくなる世界線が訪れたともいえる。

今日は、それらのツールよりも価値のある文章を書ける人間など、極めて限定的なんだよなって話を書いていこうと思う。

どうも、ゑんどう(@ryosuke_endo)です。

生成系AIよりも価値のある文章とは

そもそも、生成系AIが解き放つ文章よりも価値のある文章とは何かといった定義づけが必要です。以下は、この文章を書くに際してパッと思いついたもののため、いい加減なものも入っているかもしれないが、容赦いただきたい。

深い洞察のある文章

AIが生成する文章は、全体最適で偏りの少ない文章になりがちだ。もちろん、指示の出し方いかんによって、複雑さを表現することも可能だし、人類が経験してきた叡智の結晶(研究論文等)を集約した文章を生成することは可能でもある。

しかし、人間の経験や知識の得方は千差万別だ。

特に経験は人の数だけ固有のものであるため、効率的で合理的な文章を生成することが主たる役割であるAIには模倣しづらいものであることは言うまでもない。

独自の視点がある文章

上と被る部分もあるが、人間には固有の経験や知識の習得課程がある。つまり、学びの過程にある気づきや発見にも固有のものがあるのだ。

AIが「ごんぎつね」について要約したり、そこからの学びや気づきを全体的で標準的な表現を用いて記述してくるのに対し、きつねが生活圏に入り込んでくるように身近な存在として実感のある人は、その視点からの学びや気づきを意見として述べることができる。

つまり、AIが苦手な実体験を伴った独自の視点や感性が文章に反映されることで、他にはない表現やアイデアが生み出すことができるのだ。

そういった体験や経験から生まれる独自性は、AIが生成する文章では容易には再現できない。

感情の表現が豊かな文章

村上春樹や東野圭吾、池井戸潤などが書く小説は、なぜ、読まれるのか。物語の内容に引き込まれるのもそうだろうが、そこに登場する人物たちの感情表現が豊かである点は押さえておかなければならない。

再三となるが、人間には固有の経験や学びの過程、気づきの瞬間がある。それらを上手に文章へ落とし込むことができれば、感情や共感を伝える力が増幅される。

これは、物語や詩などの文学作品において我々が魅了される理由でもあり、それがあるからこそ我々読者はこころを動かされ、妙に感動した気分に浸ることができる。

もちろん、AIが「人が感動する文章」を学習していった結果、それらを模倣することはできるだろうし、それらに類似する作品を生成することも可能になってくるだろうが、そこの欠けるのは経験を伴った重みのある文章かどうかではないだろうか。

定型文でコミュニケーションが完了する人

上記のように、人には固有の経験や学びの過程、それらを基盤にした気づきの瞬間がある。それらを文章へ落とし込むことができた際に、はじめて魅力的で独創的な文章が生まれ、そこにこそ人が書く意義や価値があるように思う。

しかし、世の中でやり取りされる文章が全て独創的で、固有の経験に基づいたものであるべきなのかといったら、間違いなく不要だ。

日々、メールやチャットツールの中でやり取りをする内容で、独創的な表現を用いる必要はないし、豊かな感情表現で記載されるだけの理由もない。

もちろん、独自の視点から入れられるツッコミや指摘などは組織における事業進捗に貴重なものとなる可能性は捨てきれないが、それにしたって全数からいえば極めて少なく、誰もが持っておくべきものでもないだろう。

なぜ、我々はテキスト生成系AIの登場とツールから得る便益に驚き、恐れ慄くのかといえば、普段、自らが行なっている業務が抑揚もなく、定型的なコミュニケーションに終始していたことを自覚したからだ。

上記したように、仕事の場面で独創的な文章を書ける必要もなければ、独自の視点から切り込む必要もないし、豊かな感情表現をする場面なんてほぼ皆無で、「人間らしい」文章を書く必要のない場面ばかりが日常となっている。

そんな中に、全体的で標準的で一般的なのに、それらしい文脈で生成してくれる機械が登場したことに危機感を覚えるのは仕方のないことだ。

提携ですべてが解決するわけではないし、人が人にサービスを提供する以上、間で取り交わされる文章には感情が入るべきだし、慮るような表現が入るべきだろう。

しかし、それすらも学習した先に人間の行う仕事として文章を生成する、なんてことが不要になる世界線も近いと言わざるを得ない。望む望まないに限らず、やらなくていいやり取りが増えていくことになるのではないか。

おわりに

生成系AIを活用することによって得られるのは、ビジネス上の最適な解決策ではなく、自らの思考を掘り下げる壁打ちの相手としての価値だと述べている人がいた。

ぼくもそれらのツールを使っている中で、その意見へ納得する。むしろ、AIができるのは過去の履歴から文脈を探すことであって、その過去を基盤にした未来予測などできない。

しかし、人間ができる体験などは散々書いてきているように固有のものでしかないため、他の体験や経験の蓄積を調べる時間はない。だから、AIを利活用することによって人類が得てきた叡智から自己内省に利用しようと言うのだ。

そうすることによって、少なくともAIよりも価値のある文章を世に出すことはできないかもしれないが、自らの経験や学び、気づきを更新できる可能性はある。

そんな向き合い方、付き合い方でいいのかもしれない。

ではでは。
ゑんどう(@ryosuke_endo)


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