見出し画像

高度なウソが高速で通り抜けるインターネットの世界では「間違ったあとにどうするのか」が大事

はじめましての方から頻繁に起こしいただく方まで、ようこそ。 どうも、ゑんどう @ryosuke_endo です。

このnoteでは、特に読む必要がないと感じられることかもしれないけれど、ぼくがだれかと対面して話したい”雑談”を文字化するものなので、そんな雑談にお付き合いくださる方は、ぜひ読み進めてください。

はじめに

ブロガー、精神科医のシロクマさんが時代は「自分のアタマで考えるな」だと思うといったタイトルのはてなブログを投稿していた。

薄々、思っていたことではあるものの…。いや、申し訳ない。カッコつけてしまった。違う。そうではない。

ぼくは自分の頭で考えることをしたとて、他人にそれを主張しても採用されることがないほどの無能である。自分の頭で考えることが決して得意な人間でもなければ、偉そうに講釈を垂れるほどに知識や見識が優れている人間でもない。

シロクマさん曰く、情報に高度なフェイクが織り交ぜられていく中で、自分の頭で考えたとて間違ってしまうのであればやめてしまい、誰かが出す情報を鵜呑みにしたほうがいいのではないかという。

今回は、そんな高度な悩みについて考えてみたい。

高度なウソが入り込む「いまの情報」

『うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい』

上記は2ちゃんねる開設者であるひろゆきこと西村博之の言葉だが、これは2000年の西鉄バスジャック事件の犯人が2チャンネルに犯行予告を行ったことを受け、ニュースステーション(テレビ朝日)のインタビューに応じた際に放った言葉である。

余談だが、このインタビュー映像は恣意的に「秘密結社の総統」みたいな見せ方になっているため、いま見るとかなりおもしろい。ちなみに、ここでひろゆきが着ているスーツは借りたものであると述べていた気がする←

興味があるヒトはこちらからどうぞ。

当時の2ちゃんねるを知る人たちは、サイト内に自浄作用が働いていたことをご存じの方もいらっしゃるだろう。

2ちゃんねるは暇な大学生などが時間を溶かすために利用していたこともあり、デマやウソは「ソース(根拠や証拠)出せ」で潰されていた。

すべてではないだろうが、そういったユーザー間でのウソを許さないというかソースを求める態度があったからこそ、デマやフェイクが拡散するような自体は決して多くはなかったのだろうと推察できる。

いま、各種ソーシャルメディアではフェイクニュースに向けてずいぶんと厳しい態度をとるようになったが、2ちゃんねるのような自浄作用が働くことはない。働く前に拡散されてしまうのだ。

さらに「Stable Diffusion」をはじめとした高度なAIを利用した画像生成ツールもあるため、ド素人が高度なウソを拡散することが容易にできてしまうのである。

シロクマさんが「自分のアタマで考えるな」とする理由はそこだ。

AIが生成した「それっぽい画像」をパッと見で「これ、デマじゃん」と見抜ける人間がどれほどいるのか。

上記したひろゆきの「うそをうそであると…」も、ソースをたどることを求める態度なわけだが、それができないような人がたくさんいるからデマやフェイクニュースは生成され拡散される。

いくら賢くなるためにアタマを使ったところで、ツール自体が人間の賢さをひょいひょいと乗り越えていくのだから、太刀打ちできようもない。

シロクマさんが記事内で紹介している、ちきりんさんの「自分のアタマで考えよう」は何度も読んだし、いまも自宅の本棚に陳列されているが、読む度に「ちきりん、すげぇ…」で終わる。

ちきりんさんのような思考ができるのであれば、この本に頼らずに思考できているはずだし、もっとまともな人生を送れているのかもしれない。

そう考える人はぼくだけではないだろう。自分のアタマで考えるには、あまりにもいまは周りの情報が高度になり高速で流れてくるため、追随することすら困難なのである。

間違った後にどうするか

自分のアタマで考えることの限界を悟ったとて、そのままでいいのかといえば良くはないだろう。

自分のアタマで考えたところで間違ってしまうのであれば、間違った後にどうするのかを考えた方が建設的である。

ぼくにとってはこちらの方が本筋だともいえる。なぜなら、ぼくは無能側の人間であるため、よく間違える。判断もそうだし、行動もそうだ。本当によく間違えるため、妻さんからもよく罵られる。

高校時代にサッカー部の現場で「判断のミスは行動で挽回しろ」と言われたことを思い出す。

しかし、サッカーというリアルタイムに状況が変化する中で判断をミスしたとしたら、2秒後にはまったく異なる状況になっている。そこから行動で挽回しろと言われたとて、ちょっとむずかしい。

だが、自分のアタマで考えたとて間違ってしまう無能が生きるためには「間違った分だけ挽回する行動を取る」こと以外にないのだ。

繰り返すが、ぼくは自分でも呆れるほどに判断を間違えることが多々ある。ほんと、これまでよく生きてこられたなと思うほどにだ。

物忘れもひどく、コップを取りに席をたったとして、たった瞬間に忘れてしまうことなんてザラである。何のために立ったのか理解できないのだから困ってしまう。

家族でクルマに乗って出かける際にも、行き先を思いっきり間違ってしまい、ただのドライブになってしまうことだって度々ある。本当に困ってしまうほどにダメ人間なのだ。

だからこそ、自分自身への傾向と対策を練ることができる。

間違えるのだから、間違った後になにをしたらいいのかを対策する。間違えることを見越して記録を残したり、必ず視線を置く場所にメモを貼るなどして、とにかく自分対策を徹底する。

そのおかげか、タスク管理などの業務におけるミスは5年前10年前のぼくと比較しても優位に改善できているし、そのおかげか随分と生きやすくもなった。

自分のアタマで考えること、判断することは周囲の情報があまりにも高度で高速に流れてくることを踏まえると間違えることを前提にしたほうがいいのかもしれない。

ただ、だからといって思考停止のままでいることはするべきではない。前提となる情報を集めた上で意見や主張としてまとめることはすべきだろう。しかし、それでも間違ってしまうので、間違った時にどうしたらいいのかを模索するのだ。ただただ間違えることにだけ対応するのではない。

間違え方にも質があるといえばいいだろうか。無能なりに生きていると間違え方にも違いがあると理解できるものだ。

おわりに

なんだかそれっぽいことを書いてきたが、本当に多くの時間を間違ったことに費やしてきた立場としては、これからも間違える人が多発していくだろうし無意識にフェイクを拡散してしまう人は増えていくのだろうと考えている。

世の中にいる大人ぶってる人たちも、全員が賢いわけでも何でもなくて、賢いふりをしているだけだ。

なんで賢いふりをしているのかといえば、自分が序列の下になりたくないからで、序列の下に位置するのは子どもでもいいし大人でもいい。

とにかく自分を優位に立たせ、優位な位置にいることに安堵したいがために年齢や経験、知識などでマウントを取ろうとしているだけで、賢いわけでも何でもないのだ。

それを自覚するところからはじめないと、どんどんと闇落ちする大人が増えていくのではないかと心配もしたくなるが、きっとそんな心配をするのはぼくだけなのだろう。

在野の無能人材は、今日もあくせくと必死に高度なウソが飛び交うインターネットの世界にゴミを投下して溜飲を下げることに専念する。

ではでは。

ゑんどう

Twitter、フォローしてね!

ぼくの主な生息地はTwitterで、日々、意識ひくい系の投稿を繰り返してます。気になる人はぜひ以下から覗いてみてください。何の有益なこともかいてませんが、フォローしてくれると毎日書いているnoteの更新情報をお届けします。

リンクを踏むと僕のTwitterアカウントへ飛びます

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。 お読みいただき、それについてコメントつきで各SNSへ投稿していただけたら即座に反応の上でお礼を申し上げます!