#noteのつづけ方
毎日投稿するようになってから530日を越えた。
『よく書けるね』なんて声をかけていただく機会にも、すでに慣れてきた次第だが、本当に思ったことや感じたことをざっくばらんに書いてるだけで、とても外に出していいのかと言われたら、大したテキストではないから恥ずかしい部分もあるかもしれない。
けど、その恥ずかしさも含めて、ぼくなりのnoteへの向き合い方だ。
なんの戦略も、ピカピカな戦術もなく、ひたすらに自分の中から出てくる言葉を結びつけてフリック入力やタイピングをしながらも、紡いだ言葉で文章を書いている。
内容が面白いか、面白くないかを評価する場合、その評価軸を何にするのかによって変わるが、たとえばそれは、閲覧数だったり、スキの数だったりする。
数値的な話でいえば、焦点がそこに当たるのは当然だが、これは執筆者以外には知り得ない情報な訳で、スキの数は他者から見られるかもしれないけど、スキの数が多いからといって、最もよく読まれるのかといえば、そんなこともないだろう。
少なくとも、ぼくのテキストではそうだ。他の100以上のスキがバンバンと出せるような文豪の人たちのことは知らないけども。
あの人たちのテキストを読むと、たしかにそれだけのスキがつくのも納得のいくものが多いが、自分ではそこに同一の文脈を感じ得ない。
『あぁ、たくさん読まれてる/ スキがたくさんついてるから、この記事は面白かったんだ』
そんなことは読者たる人たちには知り得ない情報。
「このnoteいい!もうスキなんて12回ぐらいあげたい!何度でも読みたい!」
…なんてことになる機会は何度もある。
その際、対応する手立ては書き手側にはないし、それはnoteって場所の仕様上、仕方のないことだ。
じゃー、何が面白い記事なのかといえば、自己満足に浸る他にないのかな、と思う次第。
“誰かの役に立つ情報を書いた”満足感
“ただの日記を書いた”満足感
“冷静に客観的なレポートを書いた”満足感
“顔を合わせられない人への報告を書いた”満足感
いろんな満足感がある。
ぼくなんか、入院している内容をさらけ出してましたし、刻々と変わる自分の心情なんかも恥ずかし気もなくトコトン、モヤモヤした感情を書き連ねたりもする。
そうかと思いきや、パートナーとの関係に悩んだ友人に向けて、家族とはいえ他人なんだよ、と手紙のような内容を書いたり、子どもたちとの生活で気づいたことや感じたことを率直に嘘偽りなく書くこともありますし、手がけるイベントだったり、これからは手がける事業のことなんかも書いていこうと思う。
noteを書いてる理由も、書きつづけている理由も、大それたものではなくて、“自分像”を自分にも、自分以外の人にも伝える手段として選んだだけ。
そして、書き続ける上でのコツなんて、実は何にもわかっていないし、掴んでもいない。
それでも、ウソは書いてない。
脚色もしてない。
しかし、誤字や脱字は存分にあります。
ただ、一つ確実に糧になるのは、閲覧数が1でもついてること。
『誰かが読んでくれている。』
シェアされた時。
『読んだだけでなく、シェアまでしてくれている。』
コメントを書かれた時。
『コメントまでくれた。』
シェアだけでなく、感情を乗せたコメント付きでのシェアだった時。
『こんなに感情を乗せてくれてる。』
一つ一つに対して、少しだけ満足するのと同時に、うれしい。
うれしいから、自分が読んだ際には、できる限りコメント付きでのシェアをするように。
「あなたの記事、読ませていただきました!そして、ぼくはこう感じました!」
そう伝えるために。
そして、ぼくもそうされるように。
強いて言えば、それがぼくが考える #noteのつづけ方 です。
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