子どもが自分(親)を越える瞬間
どうも遠藤(@ryosuke_endo)です。
今回は、子どもと生活をしている中で、いつかは来るであろうことについて考えてみましたので、書いてみます。
これをお読みの方は、自分が親を超えた瞬間をどうであったとしても自覚したことがある人ではないでしょうか。
もちろん、自分の親を超える、というのは資金的にも心理的にも簡単なことではありません。
こんな文章を書いているぼくも、自営業で蕎麦屋をいまだに営んでいる親のことを超えた、なんていうのは簡単に言えるものではありません。
しかし、ある瞬間、ぼくは自分の父親や母親の認識を超えたと感じたことはあります。その種類は何でもよく、ジャンルを問いません。
例えば、キャッチボールをしていて、自分の方が投げる球が速くなり、父親が捕ることが出来なくなったということも当てはまります。
政治の話、技術の話、巷で人気になっているもの、といった社会認識もそうでしょう。身体的な能力でも、知的能力でも構いません。
とにかく、自分の中のすごいと思っていた親を、なんだか寂しい気持ちで見た瞬間。それが親を超えた瞬間だとぼくは思っている。
繰り返しますが、総合的・統合的に超えたというよりも、部分的に超えたなぁ...と感じたこと、それでいいんです。
ぼくの両親はどう思ったのかは知りません。そんなことを話すことは今後もないでしょう。
そんな親超えをぼくは自分の子どもにすごく期待してしまっています。
それはぼくの勝手な楽しみでもあるのですが、ぼくの身体的な能力や知識認識を子どもが凌ぐ様を見たとき、ぼくはどんな気持ちになるのでしょう。
もしかしたら、ぼくは自分を超えた息子に気づかないかもしれません。
身体的な能力で超えるのは、たやすいでしょう。一緒に走ったりすれば、わかるものですから。
しかし、知識や認識はどうでしょうか。これは容易ではないでしょう。自分の子どもを子ども扱いしていれば。
子ども扱いをする、という時点で自分の目に曇りがかかっています。バイアスがかかっているという状態です。
例えば、こんな人を見たとき、あなたはどう思うでしょうか。
目の前にいる人を子ども扱いする、という人がいた場合。
目の前にする人を常に大したことは言えないだろうと決めつけ、接しているその人を目にしたとき、どんな気分になるでしょう。
また、自分がそのような態度を取られたとき、どんな心持ちでしょうか。
ぼくは決して許すことはできないでしょう。ぼくの中で”大人”というポジションを取る人は、常にフラットな態度をとる人です。
もっと言えば、年齢や肩書きで人を判断する人は大人ではありません。
それは子どもと接するときの態度から明らかになります。子どもといえども、1人の人格を持った人間です。
つまり、尊重すべき存在ということであり、それをしないということは、常に相手を上から見下ろすということと相違ありません。
そんなこと、ぼくの中では決して許されるものではないですし、許したくもありません。
とにかく、「何を言ったのか」よりも「誰が言ったのか」ということを気にする人は、常に相手を肩書きや年齢、ポジションといったことでしか見ていない人であり、はっきりいって、そんな人に魅力があるとは思えません。
そういう意味では、ぼくが過去に魅力的だなぁ、と感じた人たちは年齢や肩書きではなく、どんなことを述べているのか、書いているのかを見た上で判断してきました。
ぼくは本が好きなこともあり、活字に触れる機会を多くしていますが、気になる人は基本的にテキストの中から見つけることが多いのですが、そこでは「何を言っているのか」が重要です。
テキストの中から見つけるということは、その人の肩書きがどうというよりも、その人が文字上ではありながらも何を言わんとしているのか、何を言っているのかという点から判断します。
だからこそ、ぼくは子どもに対しても同じようにすべきだと強く感じています。そんな態度をとりたいと思っているからこそ、ぼくは子どもが自分のことを超えることを楽しみだと思えているのかもしれませんね。
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