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大切な人も、いつか死んでしまうから。

 どうも、ゑんどう(@ryosuke_endo)です。

 知ってましたか。人って、いつか死ぬんですよ。ぼく、これを初めて知ったのは祖母が亡くなった時なので小学校の頃でした。
 
 昼休みに同級生たちと他愛のない掛け合いをしていたところに、担任でもない先生が悲嘆的な顔をして迫ってくるもんだから「おいおいおいおい…なんだよ…」と恐怖にも似た気持ちを抱いていたら「おばあさんが亡くなったんだって。お家の人が迎えに来るから、帰りの準備をしてください」と告げられ、現実味がない中で「わかりました」と返答した気がします。

 友人たちから「お年玉の金額が減るね…」と、今になってみたら何をしょーもないことを言っているんだと思ってしまいますが、当時も「こいつ、何しょーもないことを…」と考えていたのを思い出したので、やっぱり彼はしょーもないことを言っていたんだと思います。まぁ、おそらくは家族が死んで少なからず動揺していたであろう級友に向けて戯けながら励ましたかったんでしょうが。

 何が言いたいのかといえば、我々はいつか必ず死にます。大切に思っている誰かとの別れを経験することになります。もしかしたら、自分がお別れを提示する側になる可能性だって常に存在しており、これは避けられない現実です。

 誰もが直面する、その悲しみに備えること、つまり心の準備をしておくことをすれば、大切な人を失った際の痛みを和らげることができるのではないか、と考えています。

予期悲嘆

 『予期悲嘆』って言葉、聞き馴染みありませんよね。

 こういう事前に嘆き悲しむような事態を想定して起こる悲哀的な感情のことをいうそうです。これを調べていくと、1986年に、テレーズ・A・ランドさんという人が論文として発表しているっぽいところまでは出てきたのですが、肝心の論文はインターネット上で確認できず。。

 ただ、引用されているであろうことは伺えますので、この予期悲嘆って概念を提唱したのはTherese A. Randoだってことで間違いなさそうです。

 予期悲嘆について調べていくと、予期悲嘆を起こしておくことによって大切な人を亡くした後の心の痛みが和らぐこともある、だなんてことが書かれていたりします。つまり、心の準備運動だってことなんでしょうね。

予期悲嘆を通して何を見るか

 予期悲嘆の経験は、事前に想定できる悲しみや寂しさといった人生を引っ張ってくるような感情を体験しておくことで、実際に起こった際の心理的なダメージや回復を助けてくれることが期待できるものだとされています。

 もちろん、あまりにも行き過ぎた想定をしてしまうようであれば、逆にその時点での大きなダメージを抱えてしまい、メンタルダウンしてしまう可能性もあるのでしょうが…。

 ただ、そういった感情を事前に受け入れることによって「意味形成」ができるようになるのではないでしょうか。つまり、誰かの人生にとって自分と関わったことや他にも類似する関わり合いがあったことを確認することによって、その人の人生や自分の人生には「誰かとの関わり」があり、こうやって想起している時点で「意味があった」のだと認識できるようになります。

  大切な人を亡くすかもしれないといった経験や想定をすることは決して短絡的に受け入れられるものではありませんし、とてもつらいものです。

 けど、同時に人生について深く考えるきっかけにもなるのではないか。 自分にとって大事なものは何か、どんな人生を送りたいのか。むしろ、そんなことを想定させてくれる大事な機会なんじゃないか。

 こうやって考えてみると、誰かの死を想像することは無益なものではなく、むしろ有益なのではないでしょうか。

"心の準備"とは

 ぼくが実際にやっている心の準備をいくつか紹介します。

 まず、何よりも「家族」と呼べる人たちとの交流を行い、しっかりと相互に絆を深めること。一緒に過ごす時間を大切にして、感謝の気持ちを伝え合うこと。

 日常的な忙しさにかまけて相手のことを邪険に扱うことは簡単ですが、そうやって邪険に扱える相手がいるってこと自体が幸福なことなはず。ついつい、そういった当たり前を存分に享受してしまうがために失念していることを思い出すようにします。

 血が繋がっているから家族なのではありません。共有時間が多くできる、多くしたいと思える人のことを家族と呼ぶのです。

 また、自分の人生を有無を言わさず助けてくれるのが家族ではありませんし、それを自分以外の人に向けて強要しようとする態度は、いくら信頼できる人だとしても心理的な意味では大いに貧相な精神状態だといえるのではないでしょうか。

 大切な思い出を抱くにたる存在を、しっかりと大切にする。大切の定義は人によって異なるかもしれませんが、自分が相手にとっての心の支えとなれるよう振る舞うこと。心の支えになるにはどうしたらいいのかを考えること。それこそが信頼を獲得するために必要な最低条件だといえるのではないでしょうか。

 そうやって自分がいかに大切な人を大事にできるのかを問い続け、実際に行動し続けた後に、その大切な人を亡くすことを想像するんです。

 もうね、これが悲しいし辛いんですよ。だけど、その悲しみに触れることで、心の準備ができます。 同時に、大切な人が亡くなった後の生活をイメージしてみます。

 我が家の場合、長男くんが生まれる際に妻さんが大量の失血により亡くなる寸前まで行きました。目の前で唇が青ざめ、血圧が下がっていき、失血の量が止まらない妻さんと隣でふにゃふにゃ、ほげほげしてる長男くんをみていると、希望と絶望が入り混じったような、大いに複雑な心境になったのを思い出します。

 その時点では事前に想定や想像をできていたわけではありませんが、少なくとも、その時点での最悪を想定し、シングルファザーとして生きていかなければならないのであろうことを悟った瞬間でもあります。(まぁ、無事に生きていてくれてますから、その想定は無事に無駄だったわけですが。)

 どうやって悲しみを乗り越えていくのか、前を向いて歩いていくにはどうしたらいいのか、そんなことを考えてみる機会をつくることは決して無駄ではありませんし、そこで心の拠り所を見出すことも忘れてはいけません。なんでもいいので、自分が弱ったり困った際に拠り所となってくれる存在を見出すこともやっておきましょう。

  でも、あまり先のことを考えすぎるのは逆効果です。だって、生きているのは今だから。今を大切にしなければ先はありませんので、先々のことを考えて不安に怯えることは本質的ではない点を押さえておいてください。

おわりに

 誰かが亡くなってしまうことや、それを想像すること自体、非常に悲しくてつらいことです。もう、できれば考えたくはありませんし、できることなら死なないでほしい。

 でも、無理です。

 人は必ず死んでしまいますからね。生きている側としては、それをきちんと受け入れるための準備をしておくことも大事なんじゃないかなぁ...と思うのです。

 ではでは。

 ゑんどう(@ryosuke_endo)


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