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キャリアプランとか決めたどころか考えたことがない人はたくさんいる…ハズ

はじめに

これまで40年弱生きてきたが、キャリアプランなるものを真剣に考えたことなどない。これはおそらく、ぼくだけではないはずだ。

都度、どうしたらいいのかってことに悩み、二進にっち三進さっちもいかない状況の中で苦しみながら「どうしたら自分が満足できるのか」を模索してきただけだ。

自分が3年後や5年後を「キラキラした世界線」を過ごすことができていることを夢想した時期もあるが、そんなことは夢幻であることを実感するのに長い時間はかからなかった。

学生の頃、大人たちは「将来のことを考えろ」といって「それっぽ時間」を過ごさせようとしてきた。しかし、そういう大人たちこそ、「自分の思うがままに生きているのか」を疑問に感じてしまうような背中を見せていたし、それがカッコいいように見せてきた。

いま、子どもと生活をするようになって10年弱になるが、いまだにキャリアプランなんてものを考えた方がよかったのかどうかにかを見出せない。

そもそも考える必要があるのか。仮に考える必要があるのだとしたら、考えることによって何を得ようとしているのだろう。

イシキタカイ系になり出した頃に、よく耳にする言葉だからこそ、冷静に立ち止まって考えてる。

申し遅れました。

はじめましての方から頻繁に起こしいただく方まで、ようこそ。

どうも、ゑんどう @ryosuke_endo です。

「働き方」の主導権を握っているのか

キャリアプラン、なんてカタカナが耳に入ってきた際には気をつけなければならない。

何に気をつけるのか。その言葉の押し付けがましさにである。
正確にいえば、その言葉を解き放つ人物の傲慢さだ。

「キャリアプラン、考えてる?」とか「今後のキャリアプランは?」といった具合に、ビシッとした身なりの人が若干の胡散臭さを内包しながら言い放ってきた場合には、ぜひ、勢いに流されずに受け切る。

働き方に全体最適は存在しない。組織の合理性を目指した場合には適材適所はあるだろうし、仕組み化やシステム化を進める上では不可欠なのは間違いないが、個人にとっての最適な働き方は個人の主観に委ねられるため、誰かしらのパターンを提示することは何の参考にもならない。

キラキラした他人の働き方をみて「自分もこうありたい!」とか「そんな風に働ける人がいるのなら自分も…!」なんて夢みがちだが、その働き方が自分にとっての最適解であるかどうかはやってみなければわからない。

そもそもキャリアプランとはライフプランの中に含蓄されるもので、生活を前提にしたものである。生活がないのに働き方もクソもない。

日本国憲法では国民の三大義務として「勤労」「納税」「教育(を受けさせる義務)」が挙げられているが、勤労の義務とは「働きたいと考えているのに国から『働くな』と命令されることはない」ことを保証するもので、国からの社会保障を受ける場合には働くことを求められる、いわばギブアンドテイクの関係を明示したものだ。

さらに、「健康で文化的な最低限度の生活」を送る権利があることを保障されており、国は国民が飢え死にしたり野田れ死んだりなんてことが起こらないように最低限度の生活を担保する制度として生活保護制度がある。

勤労の義務を果たしてもらうためには生活の基盤が必要で、健康でいられない人が勤労をしようとしたところで体調を悪化させるような状態で働くことは国にとっても望ましいものではない。

我々は働くために生きているのではなく、生きた上で働くのだ。

では、生活の中に「働く」や「仕事」といった事柄が含蓄されるのであれば、生活の主導権を握っているのは誰か。生殺与奪の権を他人に委ねることに対し、かの有名な冨岡義勇も憤怒の上で竈門炭治郎少年に叱責をしていた

誰でもない、自分こそが生活の主導権を握るべき対象なのだ。

他人が決めた価値観に流されていないか

「甘っちょろいことを言ってるんじゃない」とか「雇ってやってるんだから、その間は会社が生殺与奪の権を握ってると言えるじゃないか」なんてことを過去の大人たちはぼくに投げかけてきたのを思い出す。

いま、こうやってカタカタとタイプしながら振り返ってみて、当時の大人たちが述べることをイマイチ腹おちできていなかったことを思い出しているものの、同時にこうも思う。

「あぁ、あの人たちは他人の価値観に左右されていたんだな」と。

急に上から目線になってしまった。その指摘は甘んじて受け入れよう。

何もカイシャインとして働くことが悪いことだというつもりもない。むしろ、会社組織に入り、個人では経験できない規模の金額を動かす経験をすることは必須だと考えている。

また、それを生み出すための価値づくりや仕事を生み出すスキルや経験を実績として積めるのであれば、確実に経験をした方がいいであろうこともわかっている。

だからと言って、腹の出たおじさん達が若人に向かって偉そうにタメ口で説教を垂れているような職場には居続けるべきだとは思わない。

年齢や社歴によって上下関係を構築しようとする輩は、社内だけでなく社外に向けても同様の態度をとってしまう可能性があり、その態度はどこか透けて見えてしまうものである。

会社組織にいる以上、代表者や執行権限を有する人物の色が出ることは仕方がないことだし、その色に染まることが会社組織で働く、仕事をすることの本意でもある。

そこに自分の価値観なんてものは存在しない。善し悪しは末端の従業員が決めることではなく、組織運営者が決めることだ。しかし、それはその会社組織の運営方針などに限った話で、だからと言って法律を犯すような社会的な誤りを認めるべきかどうかは別の話だ。

ここで述べている「自身の価値観」とは、自分がどう生活したいのか、自分は何をしたら満足感を得られるのかと考えた末に出された結論の通りに動けているのかどうかの指標であり、バロメータだ。

働き方が、その指標やバロメータに沿ったものであれば、満足度の高い仕事だと言えるだろうし、逆に、それらの指標やバロメータからはかけ離れた状態に陥っているのだとしたら満足度はかなり低くなるだろう。

その指標やバロメータが他人の価値観に染められているのだとしたら、それは大いに不幸なことであり残念なことなのである。自分の生活を守れるのは誰でもない、自分だけだ。

おわりに

「自分が満足すれば何をしてもいい」わけでもない。

「その働き方、自分の満足度が低くなっちゃうんでぇ、パスでお願いしゃっす!」みたいな物言いをするような奴とは一緒に何かをすることができない。

そもそも「仕事をする」なんてのは、誰かの困りごとを解決することで、そこに自分の知識や経験、スキルなどを駆使して解決までの過程を提示することが「働く」ことではないか。

…違ったら「ごめんなさい」するしかないのだが、結局は情報の非対称性を利用した情弱商売みたいな言い方になってしまうが、だから専門家なんて肩書が存在する。

ぼくも専門家を名乗ってみたいものだ。いや、名乗れる気がする。

ただ、何の専門家として名乗れるのかはもう少し考えてみようと思う。それを名乗りだしてから生活の満足度が下がるのは嫌だ。

ではでは。

ゑんどう

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