見出し画像

大学院進学へのきっかけ①

 コロナ禍において,インターンシップや対面での進路相談などに支障が出ているのではないかと思います.就職活動している学生の方あるいは,将来の職業について考え始めた方へ少しでも参考になればと思い,外資系の機械メーカーで25年以上エンジニアとして勤めてきた私が,どの様な思いで博士号取得を目指したのかを書いておこうと思います.

 大学院というのは,基本的に今までの学校という概念とは違うと思います.大学までは,教えてもらうという受け身のスタイル.でも大学院では,ゴールの旗があるわけではない.自身が目指す専門分野の道を掻き分けながら探究していくという知的サバイバル生活の始まりです.修士(博士課程前期2年間)に進学したなら,博士号の取得を意識してほしいと思います.

 そもそもなぜ理系にすすんだのか.4歳から公文をやってました.親が何か習い事をさせようと思ったのでしょう.当時,教室が近くになくて郵送で100〜200枚送られてきて,できたら送り返すという面倒なものでした.(といっても,郵送などの手続きは全て母親がやってくれていたのですが.)でも,自分のペースでやればいい,そして”プリント”,”ドリル”という響きが小さい子供だった私にはすっかりハマって,4〜10枚/日くらいのペースでやってました.すると小学校に上がると,算数の得意な子になってました.

 父が転勤族だったので,転校先では算数のテストがいきなり100点というのを疑われ,みんなが見守る中,違うプリントを再度やらされるということもありました.(もちろん100点で信じてもらえる様になりましたが)

 忘れもしない中学1年生の夏休み明けの9月1日,夏休みの宿題の提出日です.私は7月中に宿題をもうダッシュで終わらせ,8月は遊びまくるそして感想文と工作に集中するといったタイプの変なヤツだったので,特に膨大だった数学の宿題もコンプリート.いざ,先生が宿題を集めようとすると,クラスのほぼ全員が一斉にブーイング.”先生,あんな量の宿題,終わるわけないよ.まだできてないから,提出日を延ばしてよー”.僕はもちろんやってきているなんてことは言いませんよ.そしたら,先生は,”分かった.分かった.一週間待ってあげるから,ちゃんとやって,来週出して下さいね”と言いました.まあ,なんと優しい先生なんでしょう.人が作った決まりは,こんなにいと簡単に変えられるものなんだ.人が作ったルールは,全然不変ではない.宿題をちゃんとやってきた僕を褒めてくれとは言わないけど,少なくとも僕の7月の頑張りは半端じゃなかったのに...という後味の悪さだけが強く印象に残りました.

 高校生になると否が応でも理系/文系を選択しなければならなくなります.こうなって初めて,これまで自分の将来や職業をあまり意識してこなかった大多数の人が考え出します.僕も自分の将来をまじめに考える様になりました.大学に進学できる学力がないなら,親にフランスへの片道のお金だけ用意してもらって,コックになろうかなとか思ってました.でも,公文をずっと続けてきたおかげで,3学年上の算数を常にやってきたので,高校1年生の時には高校卒業までの数学が終了してました.だから学校の定期試験では数学の勉強はしたことがなく,その時間を他の科目に当てることができました.(でも,平均点が大したことないということは,他の科目がどんだけ足引っ張ってるんだ...トホホ)ともあれ,なんとなくサラリーマンというのはあんまりだなとか生意気にも思ってました(単純に上司から指示されるのがイヤとかそんな程度).だったら自分で事務所が持てる様な士業とよばれる職業はどうかな.弁護士,うーん,難しすぎて僕には無理.では会計士,税理士はどうだろう...ここで中学の時のことを思い出すのです.人が作ったルールは,簡単に変えられるのだと.そして,時代や国が変われば,その中身も全く違うものとなる.とすれば,それを学ぶのはイヤだと思ってしまったんです.ニュートンの法則,ケプラーの法則などの物理法則は,時代が変わろうが国が変わろうが不変です.数学・数式というのは,世界共通言語の1つで,これを学ぶことは一生かけてやってもいいんじゃないか.はい,理系に進みます!(これには後日談があって,それはまた他の機会に書こうと思います)

 大学に入ると,高校が超超管理教育学校だったので,この自由さに戸惑いました.大学1年生の4月.まだ,超真面目の学生だった僕は,教授に来週の授業を休んでもよろしいでしょうか(理由は忘れましたが)と伺いに行きました.すると教授は,”それが私の授業よりも重要だと思うのなら,出欠は取らないから,好きにしなさい.大学という場所は,将来の自分にとって価値のあることを学ぶ場である”と仰いました.まあ,聞きに行った僕も,教授からすれば面倒くさい学生なのに,そんな僕に,一人の人間としてちゃんと向き合って,そのような回答をしてくれたことにも感謝でした.

 さあ,大学に入って初めての定期試験です.下宿生の私の部屋に4人くらいがノートを見せあったり(写しあったり?)するために集まって,徹夜で勉強です.理系はレポート提出だけでなく,定期試験当日,その場で2ページに渡って数式を解かなければならないような,ちゃんと高等数学のような試験があり,ちゃんと練習問題?というか分厚いテキストや教授が黒板に書いてくれたものを勉強しておかないと絶対解けません.ここで衝撃だったのは,今まで数学でほとんど定期試験勉強をしてこないで済んだ僕が,勉強しないと分からないということでした.周りの友人は,サクサク解いているではありませんか.僕は思わず,”公文か何か特別な習い事,してた?”と聞きました.だれもやってない.これが大学の素晴らしいところか.勉強の全国大会にでるというのはこういうことなんだなと思いました.

 大学では,モトクロスにハマって,オフロードバイクの練習に明け暮れてました.関西の学生大会でしたが,2度,表彰台に上がりました.やっぱり車かバイクの設計者になりたいなとぼんやりと思っていましたが,先輩の家のガレージでバイクの修理をするたびに,知らないことだらけです.こんなんで本当に就職していいのか?と不安になってきました.やっぱり勉強不足だな.修士課程に進学しようと思いました.しかし,もちろん留年するような成績ではないですが,バイトやバイクの練習やら勉強以外に充実した学生だったので,自慢できるような成績ではありませんでした.400人くらい中でTop30なら試験なしで,希望すれば進学できるのですが,それ以下なら大学院入学試験に合格しなければなりません.倍率2倍です.これは,進学を希望している人の倍率なので,結構きついのです.4年生の4月に,僕は父に電話しました.”進学します.9月に結果が出ますが,落ちたら院浪(大学院浪人)する覚悟です”

 大学院試は,人生で最も勉強しました.晴れて,修士となった僕は,2年間ほとんど大学にいました.ソファーもベッドも冷蔵庫もあって,冷暖房完備.おまけに安くて美味しい学食も,体育設備(登録すれば,ジムやプール,シャワー)も使えます.下宿よりも快適でした.修士の2年というのはあっという間で,本当に忙しい.研究も①論文を読む,②実験をする,③プログラムによる理論の展開というループに明け暮れる.忙しいので家庭教師くらいしかできない.無利子で返済しなければならない奨学金はもらってました.卒業した暁には,就職するのでそれを担保に学費を払ってもらえたらという下心もあって,修士1年の時から,会社訪問・工場見学を始めました.もちろん,OBとかを経由するのではなく,全くの個人活動です.当時は,インターネットもなく,エントリーシートなんていうものもありません.ですので,電話連絡による事前アポイントメントのみです.世の中が大らかだったのでしょうね,そんな学生はあまりいないようで,ほぼ100%工場見学させて頂きました.全部で20社くらい行ったと思います.僕は設備がしっかりしているメーカーの設計者になりたいと思っていたので,自分なりに下調べをしたノートを持って工場見学に臨みました.正規の会社見学ではないので,エンジニアがマンツーマンで工場を適当に案内してくれました.工場見学を終えて,帰り支度を始めていると,ちょっと待つように言われました.すると3名ほど年配の方が来られて,雑談とも面接ともとれるような会話がなされました.帰宅してから数日後,数社から連絡があり,修士を卒業したら就職しますか?と聞かれました.最初は,早く就職するメーカーを決めて,研究に集中したいと思って始めた工場見学だったのですが,回れば回るほど,知らないことだらけで,今の自分が決めていいのか?と不安になってきました.進学しようと.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?