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たった一人の熱狂が仕事と人生を動かした

あふれる書籍や映像作品の中から、学びや気づきがほしい。そんな方のため、元県紙記者の木暮ライが、おすすめのコンテンツをプロット形式で紹介しています。

■軍資金は300万円/「あしたから出版社」
2014年6月に出版されたノンフィクション作品です。就職活動に失敗した島田潤一郎氏が最愛の縦兄の死をきっかけに、出版社「夏葉社」を立ち上げ、成功していく人生録を書籍化したものでした。本記事では出版社を立ち上げた経緯や、記念すべき第一作が出版されるまでを解説します。これから出版社を立ち上げたいという方に読んでもらいたい本です。


■就職活動篇

本当は就職がしたかった。みんなと一緒に机を並べ、残業なんかもこなして、たまに、同僚からのお土産が電話の横かなんかにちょこんと置いてあって、それで「いいなあ、山田さんは北海道に行ったんですね」などと、となりの人と話したかったのだ。

《木暮の焦点》
木暮は、この会社員あるあるの経験がある。外出中であれば、お土産が置いてあるだけだが、会社にいるときに、同僚が机を回りだすと、いざ木暮の机に来た時にどんなリアクションを取ればいいのか考えてしまう。回ってくる前に、考え込んでしまい、仕事に集中できなくなってしまう。

でも、島田さんはできなかった。
一度レールから外れてしまうと、社会は、まったくといっていいほど、ぼくのことを信用してくれない。

《木暮の焦点》
これも共感できる。木暮も大学卒業後は、5年ほどフリーターをやっていた。正社員として設計の仕事をするまで、どうにかなると根拠のない自信があった。

31歳なっていた島田さんは土曜日、彼女の部屋でテレビを見ていた。そこで母からの携帯電話が鳴った。従兄のケンさんが事故でもうダメ。瞳孔が開いていると―。
ケンさんとは歳が半年しか離れていなかった。タバコ屋の前で立て続けにマルボロを二本吸って、京王線でうちに帰った。そして、午前3時過ぎ、ケンの永眠が知らされた。山桜は満開だった。
東京に帰ると現実が待っていた。職能も、経験もない、ひとりの無職者であった。
変わったのはケンさんがこの世にいないことだ。
27歳から正社員と契約社員の仕事をいくつかやったが、どれも長続きせずに、自己都合で辞めた。一日中車を走らせるルート営業も、こみいった顧客対応も身を粉にしてとりくんだが、ある期間が経つと、ゼンマイが切れたようにやる気を失った。もっと自分に向いた仕事があるのだと信じた。島田は、職場で知り合うことになったやる気のある人たちが苦手だった。「普通に生きていて、やりたいことなんてあるわけじゃないか」と憤りさえ覚える。

《木暮の焦点》
島田さんは木暮に似ている。木暮もある期間が経つと、無気力になる。そして、仕事のクレームが増え、飛んでしまうのである。

転職活動はからきしダメであった。27歳まで島田さんは作家志望で、アルバイトばかりやっていた。履歴書の自己紹介欄に「仕事はしませんでしたが、その代わり、本は読みました。『失われた時を求めて』を読破しました」など
と書いていた。だからといって、読書が得意というわけではない。30分も読むと疲労を感じる。先輩の勧めで読んだ「死霊」を読んだとき、目眩を起こして倒れたこともあった。

《木暮の焦点》
一見、夢見る少女のような話だが、木暮も仕事をしながら小説を書いたりしていた時期もあった。大物作家になりたいとか、そういう夢は誰でもひそかに見るものである。しかし、履歴書に書く猛者はなかなかいない。ちなみに私も集中して読書ができない人である。

彼らが捜していたのは経験をしっかり積んだ、もっと即戦力になる人材だ。

《木暮の焦点》
木暮も新聞記者になったときは、即戦力採用ですと紹介されたものだ。

大学時代は文芸部にいた。一学年下にIという後輩がいた。Iがいると文芸部がすこしだけまともなサークルに見えた。Iは大学卒業後、通信会社に就職。そして苦労した。Iは営業タイプではない。自分が納得したことだけを話すタイプ。そうでないものはイニシアティブ(主導的)だった。島田さんはそんなIが自分のことしか考えていないようなやつらと営業成績を競っていたと考えると腹が立っていた。そのうちIは疲れ果てたような顔になり、酒を飲んでいると「もう早く死にたいですよ」とつぶやいていた。その二か月後、30歳を前にポックリ病で亡くなった。

ケンはけがをして造船所を辞めた後は仕事探しに苦労していた。そして死ぬまで見つかることはなかった。
Iは仕事を見つけたがその仕事を辞められず、疲弊し、死んでしまった。

《木暮の焦点》
木暮はいまIの死ぬ手前まで来ているのかもしれない。

あれから9年、32歳の島田さんの目の前には携帯電話と、ノートパソコンがある。ネットで自分より年下の人間の年収を知って、狂おしい気持ちになっている。時代は便利になった。検索すれば、たいていのことは調べられる。でも島田さんには耐えがたい苦痛だ。自分がいかに無能で、役立たずで、孤独かということを思い知らされる。

《木暮の焦点》
そんな苦痛があるからこそ、世の中の人はSNSに敏感になっているのだろう。

結局、転職活動開始から八カ月目で、計50社からお断りメールをもらう。


■起業篇

島田さんの知人で、出版社をやっている人がいた。偶然幡ヶ谷で出会い、駅前のドトールで一緒にアイスコーヒーを飲んだ。島田さんがやっていたのは、編集ではなく、営業や顧客対応などの裏方仕事。大ざっぱな性格で、細かいことは苦手だった。本を読むという行為に集中できなくなるのではないかと考え、出版社にはほとんど応募書類を出さなかった。しかし、叔父と叔母、いまはなきケンさんのために本を作ると決めたのだ。
2009年1月下旬、香港で暮らす父から200万円を借りた。島田さんの父は香港で日本人向けの書店とカフェを経営。もともと洋服屋の店員だったが、バブル期に会社がフランチャイズのカフェの経営に乗り出し、香港に進出した。そこで、カフェの運営を担当したが、バブル崩壊で帰国を命じられる。そこで帰国する代わりに辞表を提出。資金を集めて、会社からカフェを買い取ったという。「やればいいじゃないか」とあっさり背中を押してくれたのだ。
帰国後、出版社をやっている知人に編集の仕事について質問をする。
知人は「編集は実務ではなく、作家や、デザイナー、印刷所などをコーディネートする仕事」と説いてくれた。

「お前は形から入るよな」
島田さんは友人から何度なくそういわれたことがある。就職活動を辞め、作家になろうと決めた22歳の時、最初に取り組んだのは、煙草を吸い、コーヒーを飲み始めることだった。作家を目指す人間はそうしなきゃいけない、と信じたのである。

《木暮の焦点》
木暮も世代が違うのに、松田優作さんに憧れ、形から入ろうとして、喫茶店で煙草を吸いながら小説を読んだものだ。しかし、東京五輪以降、吸える場所は少なくなった。

本屋を流通させるために「ISBN(本の裏にバーコードとともに記してある番号である)」を取得しなければならない。

《補足》
ISBNコードは100タイトルにつき3万4千円。これ以外に、JANコード(定価バーコード)も必要となる。JANコードは3年ごとに1万円かかる。

株式会社をつくるには登記のための住所が必要であり、そのためには新しく事務所を借りなければいけない。ちなみに、島田さんの実家は住居専用の賃貸物件であり、登記できなかった。

《補足》
最近は、シェアオフィスで登記ができるところもある。

神保町と吉祥寺を比較して、老若男女が町の流れをつくっている吉祥寺を選んだ。ものをつくったり考えたりするのに適当と判断した。幸運なことに駅から近い事務所としても利用できた分譲マンションを見つけた。
そして、2009年9月1日、資本金300万円で株式会社夏葉社をはじめた。

はじめての仕事は、Sさんという年上の編集者からもらった。原稿の赤入れ、録音されたインタビューの書き起こし。書き起こしの仕事は思いのほか大変だった。自分がインタビューしていれば、ポイントと枝葉末節がわかる。一言一句、すべての言葉に耳を澄ませなければならない。同じ会話を十回以上聞き直して、語尾のニュアンスをすべて聞き取ってパソコンに打ち込んだ。収録されていたインタビューは三時間だったが、活字化に3日かかったという。三日目は追い込みの徹夜。朝7時、Sさんに納期する。

起業して一ヵ月、9月30日の月末に、資本金300万円のなかから、家賃8万円と自身の給料の10万円を振り込んだ。何もしていないのに、備品などで残金は270万円になった。一編の詩で本をつくる。詩は42行しかなく、A4の紙一枚に収まる。それを、一冊の本に仕立てたいというのだ。置いておくだけでいい、そんな本を作りたい。そこでイギリスのヤフー知恵袋のようなサイトに英語で質問文を綴る。

ヘンリー・スコット・ホランドという神学者が書いた「Death is nothing at all」という詩を出版したい。作者の母国においての知名度を知りたい

本文より一部抜粋

5分後、返事が来た。

ぼくは、その作者と歌のことも知らない。けれど。君の英語は悪くないよ

本文より一部抜粋

しかし、一ヵ月近く制作は進行せず。
求めているものが見つからないときは「半径三㍍」の中で探すほうがいい。かつて宮崎駿監督がテレビで言っていた言葉だ。また、恩師から「いいアイデアがなにも思いつかなときは、自分がこれまでに関わってきたもの、夢中になっていたものを、思い出すのがいい。それ以外のものは、たいてい付け焼刃にしかならない」と教わっていた。
そこで島田さんは一時期にはまっていた児童文学の数少ない蔵書の中から『ノーラ、12歳の秋』を見つけた。そこにはイラストレーターの高橋和枝さんの自信なさげで、強い意志を感じるモノクロの線画が島田さんの追い求める絵と似ていたのだ。島田さんは、武蔵野市立中央図書館へ行き、棚から一冊一冊に抜いていった。本によって絵のタッチは違ったが、ポプラ社から刊行されていた『きれいなココロとカラダって?』という思春期向きの読み物に目が留まる。そして、高橋さんのイラストをコピーし、プリントアウトして切り抜き、詩の言葉を糊でひとつずつ貼った。言葉とイラストが響き合っていた。そしてブログを通して、二日後に高橋さんにメールを送る。ついにプロの作家と打ち合わせをする。返事は「自信はないけど、やってみます」とのことだった。

■編集篇

仕事はなんだろう、と考えるたびに、行きつけの美容師の言葉を思い出す。「なにをやりたいかは、重要じゃない。誰と仕事をするのかのほうが重要だ」。美容師のお兄さんは、奥さんとふたりで、美容院を経営していた。そこには阿吽の呼吸という言葉では言い足りないくらいの、あたたかなコミュニケーションがあった。「つまらないやつと仕事を一緒にやっていると、ひとりでできるはずの仕事もできなくなっちゃう。本当に好きな人とだったらどんな仕事でもやる」。たしかに、夫婦はとても楽しそうである。
これまで体験したことや、思ったことは、新しい言葉によってふたたび火を灯され、いままで見てきたたくさんの景色や、いままで出会ってきたたくさんの人のことを思い出す。それは美しいものだけではない。

《木暮の焦点》
木暮の転職の軸もまさに、「誰と仕事をするのか」である。ものすごく共感できた。記者時代、私が仕入れたネタがライバル紙に漏れたことがあった。原因を探っていると、同僚Mが別の取材でそのネタをバラしたのだった。ネタ元がライバル紙も同席している場で、うっかり私の取材の件を掲載前にばらしてしまった。後日、ライバル紙の女性記者Kから取材に同行させてほしいというオファーが来たが、木暮は丁重にお断りした。取材後、Mからなぜ取材に同行させなかったのか咎めてきた。私はMの言っていることが理解できなかった。ライバル紙に協力するバカな記者がどこにいるというのか。つまらないやつと仕事を一緒にやっていると、本当に仕事がやりにくくなる。同じもので熱狂できる仲間と仕事をしなければならない。

このように不安や、嫉妬や、仲違いや、憂鬱だった日々さえも、昨日のできごとのように、生々しく思い出す。そうした体験をもたらしてくれる文章は決して読みやすくないと島田さんは話す。誰でも通じるように書かれた文章ではなく、本質的に読みにくいというのではない。時間を費やして何度も繰り返し読んでいれば、ほとんど自分なりに理解できる。それが文学の魅力と島田さんは語っている。
詩の本ができないのであれば、文芸書の復刊をやろうと決める。島田さんには、絶版になっていて、手に入りにくくて、たくさんの人に読んでほしい作品がいくつかあった。なかでも1975年に集英社から刊行された、バーナード・マラマッドの短編「レンブラントの帽子」の復刊に着手した。

《レンブラントの帽子のあらすじ》
ある美術学校の教師が、同僚に、「あなたの帽子はレンブラントがかぶていた帽子みたいでいいですね」という。しかし、このことを境に、教師はその同僚から避けられるようになってしまう。理由はわからないため、だんだん腹が立ってくる。ある日、教師は自分の小さな過ちに気付き、同僚に謝罪。同僚は涙を流して受け入れるというすれ違いを描いた話。

本書より一部抜粋

復刊の許可を、集英社や著者、翻訳者の遺族から取らないといけない。ネットで検索して、海外の作家との交渉を取り次ぐエージェンシーにメールを送った。転送されたマラマッドの遺族からOKが出た。集英社には、手紙と電話で担当者から了解を取った。
そもそも作品の存在を知ったのは、荒川洋治先生の『文学が好き』(旬報社・2001年)だった。島田さんが大学4年生の時に「世田谷市民大学」という世田谷の住民が受講できる連続講座で、生徒として出会った先生である。そこで、巻末に先生のエッセイを書いてもらうことにした。
作品は表題作を含めて八篇の超大作だった。すべて復刊するのは無理と判断し、三篇に絞った。ページ数が多いと読者は敬遠するはず。熱心なファン向けというよりは、初心者向けにファンを増やしたいのだ。
文芸ファンにこたえるようなレーベルでつくると差別化できない。そこで、活字を大きく、手軽に読めるくらいのページ数にした。紙代が減り、定価も下げられる。読者が買い求めやすい価格を目指した。

レイアウトは、青土社のチャペック・シリーズを参考にした。そして、集英社版の「レンブラントの帽子」をスキャナーで読み取り、それを「OCR」というパソコンのソフトを使ってデータ化した。
装丁は、たとえ原本を持っていても、また買いたくなるような、そんな装丁を目指した。1996年から97年に刊行された集英社の「ユリシーズ」がお気に入りで、しばらく経ってから、向ケ丘遊園の古本屋で購入したほどだ。そのころ、アトピー性皮膚炎にかかっていて、しょっちゅう皮膚科に通いながら、病院の待合室で熟読したという。

《木暮の焦点》
木暮もアトピーだ。島田さんと木暮はなんとなく似ている。

この本のデザインをしたのが、和田誠さんだ。ユリシーズが大好きであること。あたらしいレンブラントの帽子を和田さんに装丁してほしいと手紙を書き、ワードで組んだゲラを一緒に添えて郵便で送った。一週間たっても返事が来ないので、電話した。本人につながったが、もう一度ゲラを送り直すことになった。本来であれば、四隅に「トンボ」といわれる形の線があり、印刷のときと同じフォント、同じ組み方で、文章が印刷されているものを送らなければならなかったのだ。幸いにも、知り合いの組版を得意としているデザイナーにゲラを依頼。一週間後、無事に完成する。
そのあいだに荒川先生の文章を校正し、多くの本を参考に脚注をつくった。本文以外の奥や、著者プロフィール、目次など、本づくりのディティールを荒川先生の指導の下、進めた。荒川先生は、1974年から紫陽社という詩の出版社を続けていて本づくりのプロだ。

■営業編

全国には約1万店の本屋がある。すべてに流通させるには、日販やトーハンなどの取次と契約する必要がある。契約しなくてもいいが、各書店、各チェーン店、個別に発送、清算、返本のやりとりを行わなければならない。取次と契約すれば、全ての業務を一手に引き受けてくれる。出版社は取次にまとめて本を送り、取次から本の代金をもらう。返本も取次経由で出版社に届けられる。しかし、取次は不公平でもある。理由は、掛け率が異なるのと、お金が入るまでの時間も違う。大手出版社は翌月には入金されることが多いが、新規の出版社は半年以上待たされることがある。掛け率もひどいときは10㌫くらい低くなる。書籍の定価に対する卸値の掛け率は「正味」と呼ばれ、売上は出版社が(著者を含む)7割、書店が2割、取次が1割の割合で分配されてきた。出版社に入る売り上げは6割から7割と幅があるのだ。売り上げを考えるとトランスビューのような直接取り引きは難しい。卸先の仕事の手間が増えるだけである。これについて、noteでいくつか解説されている。

一定期間を経ると、本は書店から戻り、出版社はお金を取次に返す。その分は新しい本の代金で支払うことで相殺してしまう。
出版社を立ち上げる前、高円寺の「円盤」というレコード・ショップの店主である田口さんの紹介で、吉祥寺で出版社をやっている2007年創業の音楽専門出版社「アルテスパブリッシング」の鈴木さんに相談することになる。
そのなかで、神保町にあるJRCという取次を選び、契約を済ませた。さらに定価を下げるには、3千部以上印刷しないといけないことがわかる。
書店への営業の結果はよくなかった。とくに名古屋は東京より苦戦したという。できればすべての本を一人一人の読者に手売りするように販売していきたいと思っていた。書店から注文をもらっても、よくて10冊、1冊も売れないこともあった。その中で、ある書店員さんは訪問後、地元の新聞でこう書いてくれた。

「夏葉社は若い人がひとりではじめたばかりの出版社で、これが刊行一点目だそう。いま、外国文学の復刊で本を作るのはとてもたいへんだろう。それでも営業に来たとき、「好きな本を出版していきたい。結婚とかはできないかもしれないですけど・・・」と言っていた。これほど本屋の心を打つ営業文句を聞いたことがありますか」

アルテスパブリッシングの鈴木さんの勧めでXを始める。Xで知り合った詩人の金子彰子さんおすすめの京都に善行堂という古本屋に出合う。尋ねてみると「よく来てくれた」と歓迎してくれた。一時間ほど、文学の話をしたあと、30冊を注文してくれたのだ。そうしているうちに印刷所から本が届く。しかし、営業結果は700冊に届かない。残りの約2千冊が事務所にやってきた。嬉しい気持ちと、売れなかったらどうしようという不安にかられる。
そんな不安な気持ちを払拭してくれたのは、Xだった。知らない人から絶賛のコメントが届いていた。
その週末、三省堂書店神保町本店から電話があった。
「売れていますよ。追加したいので本を送って下さい」―。
(了)


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