未来を考えることは、現在の自分にしかできない話
小さい頃、焼き魚の食べ方を親に叩き込まれた。怒られながら。
そのときはうざかった。汚くてもいいじゃん。骨避けてるし、と思っていた。「超嫌い、焼き魚。肉が食いたい」って念じてた。
でも今は思う。これで良かったんだって。
今では食べ方がきれいだと言われるし、お店でも言われる。定食屋のおばちゃんとかに。
「ああなんだよ、本当はみんな食い方汚えのかよ。」と思ったと同時に、少し誇らしくなる。親に感謝もしている。
僕らクリエイターはそんなことを繰り返してる。
みんな気にしないって思っていても、フォントが気になるし、文字間が気になる。演者の表情がちょっと違うし、色味も気に食わない。
自分の所作で無意識に確認している。「みんな気にしないよ」って言われても、未来の自分が気になるだろう。未来の自分に泥をかけたくない。
その自分を作ってきたのは過去の自分だ。色々苦労してきて、それなりの審美眼を身につけて闘っている。
noteで最近文章を書こうと思ったのは、未来の自分に必要な作業と思ったからだ。
文字を書く仕事を辞めてきた過去がある。
誰かの何かを伝えるために、なぜ命を書けて文字を書かねばいけないんだ、めんどくせえ。という疑問があったから。今もめんどくさい。
かっこつけるなら、書かれる人になりたかった。そうなろうと過去の自分が頑張ってきた。突っ走ってきた結果が現在の自分だ。
映像をやろうとも、広告をやろうとも思っていなかった。だけど何故かいつも舵をとる方向がそっちだった。
そして今。みんな未来が見えないと嘆いているし、困っている。
だけど、未来は考えないと見えてこない。というか、現在の自分しか考えてあげられない。人様が考えてくれるわけではない。
正直めんどくさい行為である。今そんな余裕がないという人が大半だろう。でも考えるべきだ、少しでもいいから。
現在を続けることは「逃げ」である。私は、未来の自分に怒られるんじゃないかと思っている。
だから、いつもこれを理由にクソ高いレンズやカメラを平気で買う。「え、未来の俺喜んでるっしょ」みたいなノリ。現在の自分は辛くなる一方である。
幼い頃の自分は気づかなかった。魚の食べ方がきれいな人は少ないこと。それによって誰かに褒めてもらえることなんて。
今はめんどくさいこと・辛いことに挑戦するべきだ。未来の自分が、現在の自分に感謝している姿を思い浮かべて。
究極の利己主義だが、そのくらいのほうがやりがいがある。報酬がわかりやすい。そのほうが自分を誇れると思う。失敗したら笑って世の中のせいにすればいい。
そして身についたその力や経験で誰かを助けてあげればいいんだ。現在でなく未来で。
あのとき、魚の食べ方を頑張って覚えてくれてありがとう。と思いながら、今日は焼き肉をしようと思う。
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