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公共の場で認められるべき多様性

"性表現は苦手"と称している、DNFと申します。


新聞や、駅に出される広告になっているものに対して、"性的な萌え絵"と称されて批判されるものが、ちょこちょこあります。

例えば月曜日のたわわの新聞広告問題

そしてつい最近では大阪駅での「雀魂(じゃんたま)」の広告があります。

↑この記事は、「議論になるのも当然です」と、異なる考えが生まれること事態を尊重した中庸な立場から、結論は「好きではないものも容認していくべき」としているので好みです。

※私自身は"ある程度の批判は共存される状態が健全"だと思っているので、どちらの側にも、反対側の意見を唱える個人に対する差別的な扱いであったり誹謗中傷のようなものには反対します。(批判自体が差別的なものであれば抗議はされて然るべきです)


広告に対する批判を大きく二つに分けますと
「○○という問題があるので批判している」
「見ていて不快だから批判している」

になると思います。

○○という問題があるから批判する

 これに関して「オタクはその問題を分からないふりをする」等、どうのこうの論争があるようなのですが、そもそもこの問題は「広告審査してるところに投げかけるお話ですね」と思っています。それと同時に「広告審査を通っている=関連団体には問題が無い広告だと判断されている」という認識は合ったほうが良いでしょう。特に「犯罪を助長する」というような強く根拠のないレッテルは、広告媒体、広告審査に関わった人達に対する名誉毀損にすら抵触するのではないでしょうか。

また、誰の被害にも結びつかないイラストを「性犯罪」と結びつけ必要以上に問題視していくことは、大きく問題があります。

これに関してはこちらのnoteがとても参考になります。

 ↑非常に分かりやすく、またそんなに長くないので是非お読みください。

見てて不快だから批判する

 こちらはストレートな感情です。規制反対派の人達には「変なレッテル貼りをされるよりこちらのほうが素直で好感が持てる」といった評価もあるようです。
 ちなみに私も「広告になった"たわわ"も"じゃんたま"も、目を背けたい」側の人間です。

「え、DNFさんは規制賛成派なの?」と思われるかもしれませんがそうではありません。規制反対派の人達が多く結論として述べている「公共の場こそ【受忍限度】が高くなるべきで、我慢するべき空間だ」という主旨に同意しています。

しかし規制派の意見は「いや、公共の場で人が不快なものを出そうとする方が我侭なのは常識でしょう」という意見で、ぶつけ合っても平行線で止まっており、どちらも「自分の考えが常識で、相手は常識が無く理解しようとしない」と互いに互いをそう思っている、という現状が見受けられます。

何故ここの相互理解が進まないのか、と考えたのが今回のnoteです。

公共の場で配慮するべきこととは

(この項目では"不快なものは排除するべき"という感情についてが議題で、性犯罪などの観点は除外します)

規制派の意見である
「公共の場では、他の人にも配慮するの当たり前だ」

これを言い換えてみます。

「公共の場では、他の人も使うのでトイレはみんな綺麗に使いましょう」

おや、急になんか理解できるようになりませんか?

おそらく規制派はこういう意味で言ってるのだろう……と解釈すると少なくとも私は納得がいきます。

つまり「公共の場では、他の人にも配慮するの当たり前だ」という論調に「トイレはみんな綺麗に使うのは当たり前なように」と補足を付けて言われたら、納得しそうになると思います。

「オタクは配慮が無い」と揶揄されるのも言い換えると、「トイレを汚くして次の人に回す人」みたいに思われてるのかもしれません。

そう解釈した上で反論します


 トイレの話に例え返すならば規制反対派の主張は「自分がトイレを綺麗に使う権利を得るために、皆が我慢(掃除等)すべきだ」という主張と解釈します。

「公共の場では、他の人も使うのでトイレはみんな綺麗に使いましょう」
「自分がトイレを綺麗に使う権利のために、皆が我慢(掃除等)すべきだ」

とこれだけ並べると、この意見はどちらも正しいというかほぼ同じ事を言っているのに、何故ぶつかり合うのか意味不明ですね。



なぜぶつかってしまうのかは、規制派が「不快だからこんな広告を出すな、配慮しろ」という発言は「お前がトイレを使うと皆が不快だから使うな」になってしまっているということです。

もし、体がドロドロのゾンビが体液撒き散らしながら「トイレを使いたい」って言ってきたなら私も拒絶します。でもそうでもなければゴリゴリの差別感情でしかないのだと思います。

また、確かに嫌いな人間と同じトイレを使いたくないという気持ちも理解できます。もし自分の家のトイレだったら嫌いな人に使わせたくない気持ちも分かります。
しかしこれは公共の話です。「次に使う人のために掃除」さえすればトイレを使う権利が保障されているのでしょう。

規制反対派の主張は「ちゃんと綺麗に使っている、だからトイレを使う権利はあるはずだ」であり「嫌いな人がトイレ使っていても我慢しよう」であり「利用の条件に差別が介在してはいけない」という話なのです。

※「綺麗に使いましょう」の「綺麗」の基準は「広告審査」が通ったことが担保しているように考えられます。

受忍限度の話

 公共の場では「最低限の【受忍限度】の下に、我慢できるものは我慢するべきだ」というのが鉄則だと思われます。表現の規制、規制反対の論争にも【受忍限度】という話がちょこちょこ出てきます。

 分かりやすく身近なものと言えば「騒音」があります。

騒音規制というものがあり、明確に受忍限度や法が定められています。

これらの法令に引っかからず「騒音とみなされないもの」でも世の中には騒音に対する揉め事というのが少なからずあります。

小学校の子供たちの声がうるさい、隣の家の赤ちゃんの泣き声がうるさい、etc……

なるほど、確かに休日昼寝してる時に公共の音が五月蝿いとちょっと【不快】にはなりますね。しかしそれらは受忍限度に収まるものだと考えられ、すなわち「共存できる範囲で我慢しあって過ごしていく」という観点が公共の場にあると考えるべきで「一切の我慢をしなくて済む社会を求める」というのは、残念ながら大変生きずらい考え方であるように思います。

【不快】の問題ではなく【我慢】の問題であって、1,2週間程度で挿し変わる広告が、受忍限度を超える我慢できない問題でしょうか?

 なるべく寛容に、公共の場を過ごしていけるようになって欲しいものと思います。

多様性と相互扶助

ここまで話した内容は、基本的に「多様性のある社会を認めていこう」といった思想に通ずるものがあります。

多様性については世界一分かりやすいこんな記事があります。


また、私は「多様性を認める社会」とは「相互扶助の考え」に成り立っていると考えます。

みなさん「国民保険」「健康保険」に加入してますよね?

健康な人には痛い出費かもしれません、しかし国民の医療費支援として、全員に支払いを求めているものです。全ての人が協力してちょっとずつ支払うことで、多くの人が助かり、そうして社会は回っているのです。

相互扶助についての例え


例えば、10人の人間がいて全員100万円の財産があるとします。
ランダムで誰か1人の100万円が消えてなくなります、となった時に「低確率で当たったやつには諦めてもらって9人で幸せに生きよう」という考え方もあるでしょう。

酷い発想では「誰かを陥れてそいつから100万円奪ってそいつの100万円を使おう」なんて考えもあるかもしれません。

それに対して、いわゆる保険による相互扶助の考え方では「10人が予め10万円を一つにまとめて100万円集め、100万円の損失は全てその集めた100万円から捻出しよう」という事になります。1人を排除し9人が安全に生きるのではなく、皆のちょっとした助け合いで――100万円が90万円に減ることを我慢することで、全員が助かる道を選ぶのです。


私たちも、自分自身の権利、幸せのために相互扶助の精神によって、少しずつの助け合いであったり、少しずつの我慢しあいであったり、そうやって一つの共同体――職場、町、国での権利を守りあいながら過ごしていく事が大切なのではないでしょうか。

最後に

最近は【表現の自由】と【多様性を認める社会】の思想の親和性って高いな、と思っています。

【表現の自由】を巡る問題は【表現】というものが【形が無いもの】であるために非常に概念的なものであり、それゆえに軽視されてきていた背景を踏まえ、【表現の自由界隈】というものが存在し、【表現の自由】を重視するよう議論がなされているものだと認識してます。

【表現の自由】が守られるためには、排他的な考えではなく【多様性を認める社会】の実現が必要不可欠なのでしょう。



私は頭が良いわけでもなく、まだまだ勉強していかなければならないヒヨっ子な立場ではありますが、皆さんと一緒に勉強をしながら、もしくはご鞭撻いただきながらTwitterで過ごしていけたらな、と思っております。

今後とも宜しくお願いいたします

DNF@P_drenreb







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