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良いキャラクターは一度死ぬ【ネタバレあり】

はじめに

シナリオ教本の老舗『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』(シド・フィールド著)の中に、“英雄は一度死んで蘇る”という旨の記述がある。これは非常に的確なことを指摘していると思う。例えば映画でも漫画でも、およそ創作物と言われるものの中に登場する“主人公”という存在は、必ず困難に直面する。その物語を描いている人間がそう仕向けるからで、何の障害にもぶち当たらず、流れのままに話が進んでいくのでは見ている方がつまらないだろうと思うからだ。従って物語の主人公には無理難題や、もうこれ以上は耐えられない、という敵からの打撃が雨あられで降り注いでくる。

要は主人公や重要人物と呼ばれる登場人物には、劇的欲求(物語の中で成し遂げたいこと。目的)があり、その劇的欲求を達成するために色々と行動するわけだが、その過程で“対立と葛藤”に直面し、それに押しつぶされるか、打ち勝つか、というギリギリのところを描くことで、物語に緊迫感が(文字通り劇的に)加わるのだ。

今回タイトルを“良いキャラクターは一度死ぬ”としたが、別に死ななきゃいけないわけではない。ただし、死ぬぐらいまで追い詰められないと、人の心に残り続けるようなキャラクターにはならないだろう。ということで、一回死んで蘇った過程を持つキャラクターがいる映画を取り上げていきたいと思う。

『ターミネーター2』

子供の頃夢中になった映画。
年に1回くらい観返しますが、今観ても面白いのがすごい。

これは説明不要なほど有名な映画だろう。この映画で一度死んで復活するのは、アーノルド・シュワルツェネッガー演じる味方ターミネーター、T―800だ。

このT-800というキャラクターは未来の潜入用殺戮マシンで、その劇的欲求は非常にシンプルだ。それは“ジョン・コナーを守る”これに尽きる。この目的ゆえに彼は敵のターミネーター、T-1000を倒そうとはしない。彼は性能で上回るT-1000を倒すことは不可能だと知っているからだ。従って交戦することはあれど、それは全てジョンを安全に逃がすための時間稼ぎに過ぎない。T-800一行はひたすら液体金属の殺人マシーンから逃げ続ける。

しかしついに終盤、製鉄所に追い込まれてしまう。T-1000を液体窒素で凍らせ、束の間機能停止させることには成功したが、こちら側のサラ・コナーが足に怪我をしており、とても逃げ切れない。それでもジョンを逃がし、一度交戦するが全く敵わず、腕を歯車に挟まれて逆に足止めされてしまう。その後、挟まった腕を無理矢理引きちぎって脱出し、サラ・コナーを追い詰めるT-1000に不意打ちをかますが、またも返り討ちにされ、今度という今度は徹底的に破壊される。プレス機のようなものを叩きつけられ、全身がぐしゃぐしゃになり、それでも戦おうと武器を取りに行こうと這いずるが、T-1000がそれを見逃すはずもなく、無情にも鉄棒で胴体を貫かれる。動力源を潰されたのか、内部電源が漏電を起こし、T-800は機能停止する。
そしてその後、T-800は復活する。主要電力とは別回路の補助パワーが始動し、彼は再びジョンを守るために立ち上がる。片腕を失い、まともに歩けないくらいの損傷を抱えながらも、武器を取る。

当時、この復活シーンの”補助パワー 始動”というワードが、
奥の手みたいな感じがして個人的に好きでした。今でも大好きです。

所変わって別場所では、サラ・コナーがT-1000を追い詰めている。ショットガンを連射し、衝撃でのけぞるT-1000。しかし、あと1発で溶鉱炉に落とせるというところで、弾切れが起きる。肉体を修復したT-1000は、詰めが甘いぜ、というようなジェスチャーをし、サラとジョンを抹殺しようと歩みを進める。これは絶体絶命だ。と、そこへギリギリ間に合ったT-800が最後のグレネードランチャーをぶっぱなし、T-1000を溶鉱炉へ沈め、抹殺することに成功する。
結果的にT-800は”ジョン・コナーを守る”という目的を達成する。

この映画でT-800は一度機能停止し、再び機能回復する。これは人間でいうところの死と復活だと思う。ただしそこにエモーショナルな要素はあまり見受けられない。T-800はただ機械的に停止し、そして機械的に再起動した、それだけのように見える(その淡白さがT-800の良いところでもあるわけだし)。多少ご都合主義的なきらいがあるかもしれない。しかし、それでいいと筆者は思う。“死んで復活する”という行為さえ描いてあれば、エモーショナルな要素は後から勝手についてくると筆者は思う。なぜなら、“死と復活”はそれ自体がエモーショナルな出来事であり、物語の世界で繰り返し語られてきたことだからだ。先人たちのお墨付き、安定感が違う。要はシナリオ作家なり監督なりに、愛着のあるキャラクターをクソミソに追い込んで殺す度量があるかどうかにかかっている。
“死と復活”によってT-800のキャラクターがより強化され、観客の印象に残るものとなったことは、後に作られた続編や、リブート作品のほとんどにT-800が登場していることからも分かるかと思う。

『狐の呉れた赤ん坊』

阪東妻三郎の芝居だけでなく、脚本、演出も素晴らしいのです。

これは日本映画の隠れた名作で、脚本からお芝居から見ていて非常に面白い。主演は阪東妻三郎で、この人の演技だけで元が取れるんじゃないかというくらい、堂に入ったコミカルなお芝居なので、未見の方は是非観ていただきたい作品だ。

主人公の寅八は河渡しを生業としている男で、喧嘩がめっぽう強く、この界隈では「張子の寅」と呼ばれている名物男だ。夜ごとに子分を引き連れては安い居酒屋で酒を飲み、大立ち回りを演じている。お金なんか全然なく、貧乏な長屋暮らしをしていた寅八は、ある日町はずれの森に化け狐が出ることを聞き、度胸試しとして狐退治に行く。しかし、そこにいたのは狐ではなく、捨てられた赤ん坊だった。狐が化けたと思った寅八は、しばらく預かって化けの皮を剥がしてやろうとするが、どうもこれが本物の赤ん坊だということが判明する。今更放り出すのも後味が悪いので、寅八は赤ん坊に善太という名前を付けて育てる。

始めは嫌々だったが、徐々に赤ん坊が可愛くなってくる寅八。酒をやめ、博打をやめ、子育てに専念し始める。善太には生まれ持った気位があり、月日が経って成長すると町の子供たちの中心的な存在となっていた。寅八が意地を捨て、情愛をもって子供に接したため、本物の父子のような絆で結ばれている二人だが、ある日善太はさる大名家のご落胤(私生児)であることが発覚し、都合悪く世子(後継ぎ)を失った大名の取り巻き連中が寅八の家に押しかけて赤ん坊を返すように迫る。

お家のため、善太自身の前途のため、と耳障りの良い言葉を並べ立てる家老連中を寅八は突っぱねる。自分たちから捨てておいて、いまさら子種がないからって寄越せとはどういう料簡だ、と言ってやり合う。実は善太には侍になるというひそかな夢があるが、寅八は子供可愛さに意固地になって取り付く島がない。家来衆は藩がお取り潰しになってはかなわないので、必死になって説得するが、どうにも寅八は聞き入れない。

血のつながりこそないが、固い絆で結ばれた二人。

ここで一度家老連は引き上げていき、寅八は日常を脅かす窮地を乗り越えたかに見える。しかし、彼の胸にはつっかえるものがあった。自分みたいな貧乏人と一緒にいて一生を長屋暮らしで終えるよりも、大名の世継ぎとして城暮らしをした方が長い目で見て善太の幸せとなるのではないか…?彼は考えるが答えは出ない。それもそのはずで、寅八は善太を愛しており、どうしても離れたくないのだ。彼は町人のご意見番である質屋に相談する。質屋は黙って寅八の話を聞き、お前はもう死んでるじゃないか、一度死んだ奴がなぜ娑婆に未練を残す?と聞く。怪訝な寅八。

実は先日、善太が友人と遊んでいる最中、大名行列を妨げた角で処刑されそうになり、仰天した寅八は決死の思いで役所に乗り込み、土下座して自分が身代わりになると談判し、善太の処刑を止めるよう頼み込んでいた。その時は下郎ながらその心意気や天晴、ということで親子ともども釈放されたが、質屋はそのことを言っているのだった…。
質屋は寅八をグッと睨む。そして大喝する。「寅、もう一度死ね!」と。寅八は愕然とする。そして自分の心を殺す決意をし、善太を大名の元へ送り出すのだった…。

寅八の巷の河渡しで、大酒のみで喧嘩っ早いという、とても英雄と呼べるような代物ではないが、胸の内には一本芯の通った真心を持っている。子供のために自分を犠牲にする美しい心を持っており、そしてそれを実際に行動に移す。親にとって子供と別れることは死ぬより辛いことだろうが、寅八は決行する。他ならぬ息子のために。

最後のシーンで寅八が善太をおんぶして、城に向かうために川を渡るところは感動的だ。彼は優しく諭す。「善太よ。おめえは宿場の皆に優しくしてくれたが、殿様になっても皆に優しくするんだぜ」と。

登場人物が肉体的に追い込まれ、死ぬ映画は山ほどある。また、敵に精神的に圧力をかけられ、心が死ぬ過程を描いた映画も多々ある。しかし、人物が自ら自分の心を殺す映画というのは、それほど多くないように思える。別に寅八は脳死していないし、心停止したわけではない。肉体的にはすこぶる頑健なままだ。善太を渡すよう口先三寸で精神的な圧をかけてきた城の連中もそこまで強引ではなかった。
『狐の呉れた赤ん坊』で主人公の寅八に課せられた命題は“息子のために自分を犠牲にできるか?本当に愛しているなら、そのための行動が取れるか?”ということだ。真心を試し、愛する者のために死ねるか?その問いに対して、自分の意地、自分の情愛、自分の心を殺すという決断を下す決定的な瞬間が描かれ、感動的なカタルシスをもたらす稀有な映画なので、今回取り上げさせていただいた。
 

『ファイトクラブ』&『時計じかけのオレンジ』

どちらも強烈なキャラクターを有する映画。

この二つの映画では、主人公は自殺する。

『ファイトクラブ』の主人公(名前なし。エンドロールでも“ナレーター”としか表記がない)は二重人格者であり、肉体の主導権を別人格のタイラー・ダーデンに奪われかける。序盤で主人公は不眠症であると説明があるが、物語が進むにつれ睡眠時間が徐々に伸びる。主人格である主人公が眠っている時間だけ、別人格のタイラーは目覚め、活動できるのだ。タイラー・ダーデンは消費社会に辟易する主人公が造り出した人物で、男の本能を呼び覚ます“ファイトクラブ”を設立し、さらに発展させ、本能を縛り付け男を精神的に去勢する文明社会を後退させるために、市民がテロリズムを行う“メイヘム計画”を始動する。タイラーには組織を成長させ、革命を指導するカリスマ性がある。絶倫であり、底の底まで堕ちないと本当の生の実感は得られないと信じている。

終盤で主人公はタイラーと対決する。どうにかこうにかタイラーを倒さないと、いずれ魅力的な別人格に主人格であるはずの自分が取り込まれてしまうことは明白だ。しかし、同じ肉体を共有している別の人格を倒すにはどうすればいいのか?ここで主人公は賭けに出る。彼は拳銃を自分の口にくわえる。事態を察したタイラーは焦る。意識は二つあるが、肉体は一つしかない。主人公が死ねば自分も死ぬしかないのだ。タイラーは「俺とお前だぜ…?」と刺激しないようやんわりと諭すが、主人公は「タイラーよく聞け。僕は目を開けている」と言って自分に拳銃をぶっ放す。保守的な主人公の方が、実は底の底まで沈む才能があったのかもしれない。が、弾丸は主人公の急所を外れ、タイラーの急所を貫いた。主人公はぶっ倒れるが、しばらくして立ち上がる。彼の別人格であるタイラーは死んだ。この瞬間から人格が統合され、彼は自分の人格はそのままで、タイラー・ダーデンとして生きていくことになる(周りの認知はとっくにそうなっているのだが)。一度自殺するという選択を取らなかったら、主人公の人格はタイラーに乗っとられていただろう。

皮膚を焼かれているときはタイラーの方が自己破壊に積極的だったが、
終盤に逆転し、主人公がタイラーをたじろがせている。
(下で、主人公は自分の顎に拳銃を突きつけています) 


『時計じかけのオレンジ』の主人公、アレックス・デ・ラージは悪魔みたいな少年だ。夜な夜な街を徘徊し、ドラッグをキメ、浮浪者の老人を滅多打ちにし、善良な作家夫婦の家に押し入って夫の目の前で妻を輪姦する。このウルトラヴァイオレンス少年・アレックスのキャラクターについては、町山智弘さんのラジオに詳しいので、そちらを参考にしていただきたいが、要するにこいつは悪魔なのだ。では悪魔とは何か。悪魔は“自由意志”を持っている。しかし人間にはない。人間は道徳や倫理や法律や掟に縛られている。しかし悪魔は完全に自由だ。並の人間だとたじろいでしまうどんな悪いこともできる。しかし人間には良心があり、悪事を働けば罪悪感が生じる。道徳や法律に縛られている限り、人間は決まりきった塀の中から出られない家畜と同じなのだ。

アレックスは画面を見ている人間がイライラするような悪行を平然と行う。その結果、仲間に裏切られ、警察に捕まって刑務所にぶち込まれる。彼は役人から刑期短縮と引き換えに、新しい更生プログラムを受けることを持ち出されて承諾する。このプログラムは残虐な映像を被験者に見せ、同時に気分が悪くなる薬品を投与する。その結果、条件付けで暴力的ないし性的な場面に遭遇した被験者は気分が悪くなり、自然と刺激を避ける人間になる、という寸法だ。

余談だが、自殺病(正式名称:群発頭痛)と呼ばれる激烈な頭痛があって、特に命に関わる症状は出ないのだが、とにかく滅茶苦茶痛いのだそうだ。痛すぎて突発的にベランダから飛び降りたり、拳銃自殺したりする人が出るくらいなので、自殺病と呼ばれている。この構成プログラムは、要はある特定の条件下で、群発頭痛のようなものを強制的に発症させるもののようだ。

プログラムが終わると、アレックスは真逆の人間になっている。無気力で、臆病で、常に相手の機嫌を伺うような人間だ。アレックスは家畜になってしまったのだ。画面を見ている人間は違和感を覚えるだろう。序盤のはつらつとした彼はどこ吹く風、今の彼はとても弱弱しい。かつて自分がしたことの報いを彼は受け続ける。昔ズタボロにした浮浪者や、何食わぬ顔で警官になっていた昔の仲間に暴行を受けても、彼はやり返せない。ただ逃げ回ってより状況を悪化させる。そのように条件付けで縛られている…我々一般人が倫理観や掟で縛られているように。

アレックスは確かに平和的な人格になったかもしれないが、ではこれが普及して皆が皆彼のようになったらと思うと、大いに疑問が残る。これが人間か?彼の人間的な魅力はどこに行ってしまったのか…。ボロ雑巾のようになった彼は、昔酷いことをした作家のところ(強姦された妻は肺炎で死亡)に、そうとは知らずに助けを求める。善良な作家は彼を介抱するが、ひょんなことからかつて妻を強姦した者たちの一人だと知ると、彼を睡眠薬で眠らせ、高い塔に運ぶ。そしてベートーベンの交響曲第9番を大音量で流す。これは元々アレックスが一番好きだった曲だが、更生プログラムの最中に流れていたせいで、聞くだけで吐き気を催すようになっていた。激しい嘔吐感で半狂乱になるアレックス。

余談だが、ホロコーストでの体験を記した『夜と霧』という本の中で、人間に残された最後の自由は“選択すること”という記述があった。自由を剥奪された状態で、その理不尽に刃向かうのか、従うのか、その選択だけは誰にも奪えない。アレックスは選択を下す。彼は彼に残された最後の暴力、自分自身を痛めつけるという選択を取る。彼は塔から飛び降り、自殺する。

しかし、アレックスは死なずに蘇る。目覚めたとき、落下の衝撃なのか彼は更生プログラムの条件付けを克服していることに気が付く。結局、人間の暴力衝動や性的欲求を縛ることなど出来ないのか、彼は昔のような残忍な笑顔を見せて映画は終わる。

☆この一連のシーケンスの演出、美しすぎ問題(上の画像の後、飛び降ります)。
1.自身に組み込まれた条件付けによって内側から生じる苦痛を、自身を破壊すること(自殺)により解放する、という主題を部屋の内から外へ飛び出す、という視覚的な運動で表現している。
2.同時に、人工的に造られた聖人君子的な存在から、再び悪魔のような下劣な存在に堕ちる、
ということを落下による上下の構図で見せている。

このアレックスというキャラクターは非常に影響力があり、映画を鑑賞した人間が、大統領に出馬した州知事の暗殺未遂事件や、浮浪者殺害事件を起こしたりしているようだ。また、映画『タクシードライバー』はこの時の暗殺未遂事件の犯人の手記に着想を得て作られている。如何に『時計じかけのオレンジ』が蠱惑的な映画であり、アレックス・デ・ラージというキャラクターが強烈であったかが分かるだろう。『ダークナイト』のジョーカーに影響を受けた若い男性が、映画館にて銃を乱射する事件が起きたが、『時計じかけのオレンジ』の中のアレックス・デ・ラージというキャラクターは、一人の人間に多大な影響を与える映画の走り、とでも言うべきだろうか。

アレックスは自殺するが、その後復活する。彼の悪魔的性質もまた復活を遂げるが、その際に非人道的な更生プログラムの被害者だということでマスコミから祭り上げられる。人間が自由に人を殺せるようになったら、すぐさま人間は絶滅すると筆者は思う。好き勝手したら罰を与えるぞ、という意味で、絶滅を防ぐために法律やら刑法やらが存在するわけだが、誰しも本能的にこいつがムカつくとか、あの女とヤリてぇ、という思いは持っていると思う。表に出さないだけで、残忍で即物的な獣じみた本性を有していると感じる。アレックスはそんな人間の負の部分を開放している自由人であり、作劇上、一度死んで蘇ったことで性質がより強調され、映画史に残るキャラクターになったと思うのだ。


『ボーン』シリーズ

もういいからほっといてやんなよ…な主人公ジェイソン・ボーンが、
シリーズ通して国家に狙われ続けるが、ことごとく返り討ちにする映画。

『ボーン・アイデンティティー』『ボーン・スプレマシー』『ボーン・アルティメイタム』の3部作で主人公だったジェイソン・ボーンは、兵士を洗脳と拷問でスーパーソルジャーに仕立て上げ、各地に派遣し、暗殺を決行させるトレッド・ストーン(踏み石)作戦の被験者の一人だったが、記憶喪失になった挙句、母体のCIAから姿をくらましてしまう。兵士それ自体がドエライ機密情報であるため、CIAは躍起になってボーンを殺害しようとし、ボーンはそれを返り討ちにし続ける…というのがシリーズのざっくりしたあらましだ。

最終章の『ボーン・アルティメイタム』でボーンは、徐々に記憶を取り戻しつつ、諸悪の根源であるCIAの本丸へ向かう。結局大元を潰さないと自分への暗殺行為は終わらないと感じたからだ。その過程で、トレッド・ストーン作戦の発起人が、ブラック・ブライアー作戦という新しい計画(トレッド・ストーン作戦のアップグレード計画で、薬物なども使用してより強固に兵士を縛るえげつない作戦)を進行していた。追手をかいくぐりつつ、計画をぶち壊したボーン。屋上まで逃げるが、そこからの逃走経路は飛び降りた先の河に着水するしかない。下手したら死ぬ高度なので躊躇するボーン。そこに計画の発起人が銃を携えて現れる。発起人は計画を暴露されて破滅確定だ。間髪入れずにボーンが飛び降りる。発起人がボーンに発砲する。撃たれたのか?刹那の出来事なので分からないが、河へ落ちたボーンは、プカプカと度座衛門のように力なく水中を漂う。

ここまで見たとき、筆者は悲しくなった。「ボーンが死んじゃった…」と思ったのだ。これまで3部作、それなりの時間をかけて動向を追っていた主人公が最後の最後で殺されてしまうとは…。筆者は「あぁ…(泣)」となりながら画面を追う。度座衛門になったボーンと、ブラック・ブライアー計画の関係者のその後がニュース映像としてカットバックされる。逮捕された者、追及を受ける者、ボーンに協力したために国外逃亡した者など。さらにニュースは続き、ブラック・ブライヤー計画に紐づく全ての作戦が閉鎖されたこと、そして作戦破綻の原因となったジェイソン・ボーンの遺体は…未だ発見されておりません…!

その瞬間、シリーズを貫いていたテーマ曲「Extreme Ways」の警告音のようなイントロが流れ、プカプカ浮いていたボーンが覚醒し、泳いで逃走するのだ!

この後、覚醒。
1作目で海に転落して記憶を失い、3作目で湖に落ちて覚醒する。
『ダーティハリー』を彷彿とさせる美しい演出なのだ。

筆者はこの一連のシーンを見て、「やったぁ!」とガッツポーズした。ボーンシリーズは途中で中だるみしたりもしたが、最後まで追ってきて良かった…と心底思ったものだった。

死んだと思っていた者が蘇る。その復活の瞬間が捉えられている。主人公にガッツリ感情移入してきた観客にとって、これほど胸を熱くする展開はないのではないか。『ボーン~』シリーズ及びジェイソン・ボーンという人物は、筆者にそのことを再確認させてくれた映画なのだ。

終わりに/余談:キャラクターってなんだ?

以上、登場人物が死んで蘇る映画について取り上げさせてもらった。死んでから再び復活するまでの過程をドラマティックに描き上げる映画もあれば、作劇の都合でポンと殺し、何気なく蘇らせる映画もある。いずれにせよ一度死んで蘇ったキャラクターというのは、観る者に強烈な印象を残す。それはつまり、脚本が文字通り死ぬほど登場人物を追い込んでいる事の証左であり、それぐらいの脚本でなければ観る者の心には届かないということでもある。人間誰しも自分自身が一番可愛いものであるから、映画という絵空事の世界であっても、意外と死ぬまで突っ走る主人公を描くというのは難しいものではないかなと思う。

 今回挙げた5つの映画作品に出てくる登場人物は、それぞれ強力なキャラクターを有していると思う。意識しているか・無意識なのかは置いておいて、目的に対して死ぬまで突っ走る、落ちるところまで落ちることができる個性がある。
例えば「カモメのジョナサン」に出てくる風変わりなカモメ、ジョナサン・リヴィングストンは、仲間が餌を取れるだけの飛行能力があれば充分と考える中、飛行それ自体に価値を見出し、周りが止めるのも聞かず、餌もロクに食わないでひたすら飛行能力を磨き続ける。彼は意識的に、そうしたいから飛行技術を磨いているのであり、別に餓死しようが岩に激突して死のうが、彼の中で飛行技術以外のことはどうでもいいことなのだろう。ジョナサンは意識的に自分を追い込んでいくタイプのキャラクターだ。

また「醜いアヒルの子」は自分の容貌に絶望していたが、最終的には美しい白鳥へと成長する。殺してくれと頼んだ先で、実は自分が見目麗しい白鳥の仲間であったことを知る。彼は別に自分で意識して美しい白鳥へと成長したわけではないだろう。そういう運命だったのだ。醜いアヒルの子は無意識的に追い込まれていくタイプだということだろう。

 もし死ぬまで突っ走る登場人物を創造することが難しいと感じるならば、まず考えないといけないことは、その人物のキャラクターであると思う。ではキャラクターとは何か?サソリとカエルの寓話がそれを端的に表している。

あるところに河を渡りたいと思ったサソリがいた。そこでサソリは近くにいたカエルに背中に乗せてくれと頼む。カエルは断る。「だって君、僕のことを刺すだろう」と。しかしサソリは折れない。「どうしても河を渡りたいんだ。それに河で君のことを刺したら僕まで溺れ死ぬじゃないか。そんなことするはずないだろう」。それもそうかと思い、カエルはサソリを乗せて河を渡るが、もうすぐ向こう岸というところで背中に激痛を感じる。やはりサソリはカエルを刺したのだ。カエルは薄れゆく意識の中でサソリに問いかける。「やっぱり刺したじゃないか。でも君まで死ぬのに何でこんなことをしたんだい?」。サソリは応える。「本当にごめん。でもどうしても我慢できなかったんだ。“これが僕なんだ”」。

サソリはどこまで行ってもサソリであり、生き物がいれば毒針を刺さずにはいられない。そこに理性や状況判断をする余地はない。たとえ自分が死ぬことになっても、“毒針を刺す”これがサソリというキャラクターなのだ。

 要するに、どうあっても“それをする、してしまう”という強いキャラクター性がなければいけないのだと思う。そうでなければ物語は前に進んでいかないし、そもそも何かしらの障害が立ち塞がった場合や、困難が降りかかってきた際に、対立しようとせず簡単に諦めたり、状況に流されるままになってしまうと思うからだ。

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