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平成版どろろ 第5・6話を2ヶ月かけてやっと視聴〜たくさんの矛盾と葛藤を抱えてそれでも生きていくということ〜

平成版アニメ「どろろ」に再燃して第一話からアニメを再視聴していたわけですが。
自分史上最大のトラウマ回である第5話と6話。
このたったの2話を視聴するまでに二ヶ月かかりました。

いや、いくらなんでもどんだけ時間かかってんねん(関西弁風)と突っ込まれるでしょうが、それぐらい自分の中でこの2話と向き合うには時間がかかったんです…。
(また、思い切って視聴を始めてもどうしても精神的に辛くなり途中で視聴を中断してしまったことも何度かありました汗)

そんなこんなでどうにか視聴を終えた5話と6話の改めての感想と、自分にとって何がどのように、そしていかにしてこの2話が「トラウマ」なのかについて。
自分なりに考えまとめたことをこのnoteに綴っていきたいと思います。


「守り子唄の巻」〜「人間」としての感情が芽生え始める百鬼丸の変化とそれに伴う大きな悲しみ〜

皮膚、痛覚(触覚)、聴覚と順調に鬼神から奪われた身体の一部を取り返していく百鬼丸でしたが、聴覚を取り戻した瞬間、あらゆる物音が一気に頭の中に流れ込んできてパニックを起こしてしまい、普通の妖怪相手にも大苦戦して深手を負ってしまいます。
そんな百鬼丸を助けてくれたのが、とある廃寺で戦災孤児たちの面倒を見ている少女・ミオでした。

ミオの優しさと健気さに少しずつ心を開いていく百鬼丸。
しかし、そんな彼女は実は子供たちと自身の食い扶持を稼ぐために夜な夜な侍たち相手に売春をして生計を立てていたのでした。

そんなミオの「仕事」を知ってしまい、深いショックを受けるどろろ。
そして、深手を負いつつも無理をして鬼神退治に百鬼丸が向かったその間に。
敵陣を相手にも商売を始めていたミオは醍醐の陣に間者(スパイ)と勘違いされ、寺の子供たち共々惨殺されてしまうのでした…。

生まれてから16年間、見えず聞こえず口も聞けずの三重苦の世界で生きてきた百鬼丸が初めて知った大切に思う人を喪う苦しみと奪ったものへの怒り。
激情に任せて侍たちを切り捨てていく百鬼丸でしたが、どろろの呼びかけに正気に戻ります。

行き場のない怒りと悲しみを抱えながらも、それでも百鬼丸とどろろはこの先も歩いていかなければいけません。

二人にとって深い心の傷を残したと同時に、ミオの遺品となった種籾=自分の田んぼを持ち皆が飢えないような暮らしをしたい、という彼女の願いを受け取り改めて旅を続けることになる、という序盤の大きな山場であり転換期ともなった回でした。

自分の中でのこの回における「トラウマ」の原因と自己分析

さて、この「守り子唄の巻」において一体自分の中で何が「トラウマ」になっているのか。

一言で言うと、この回の主要キャラであるミオを取り巻いているこの状況において明確な「加害者」がいないことにおけるモヤモヤ=いわゆる認知的不協和の感情が自分の中でうまく処理できていないということなのだと思います。

認知的不協和とは、簡単に言うと自分の中でAという事象がある、けど一方でそれに矛盾するBという事象がありその葛藤にモヤモヤしたり悩んだりするというものです。
有名な例としては、きつねとぶどうの話でしょうか。
目の前にいかにも美味しそうなぶどうがあるという事象。
けれども、高い木の上に生えていて折角の美味しそうなぶどうがなかなか食べられないという事象。
そんな「食べたいけど食べられない」という葛藤の果てにきつねは「どうせあのぶどうは酸っぱいだろう」と思い込むことによって、ぶどうを食べたいけど食べられなかった、という事象を自分なりに自己解決(正当化ともいう)するのですが、あの話こそがまさに認知的不協和というものの具体例なんですよね。

話を「どろろ」に戻しますが。
ミオは自身もまだ現代の観点から見ればまだ少女という年齢ながら、身寄りのない自分よりも幼い子ども達のために自らの意思で売春をして生活の糧を得ていました。
これが例えば「貧困故に両親(親族じゃなくてもたとえば村の責任者などといった大人達)に売られた少女」という「完全被害者ポジ」の女の子だったらそこまでモヤモヤしなかったでしょう。

仮に彼女の親がいわゆる今で言うところの毒親で、親に強要されて売春をしていたという事情があったのだとしたら、なんて親だ、許せん!と単純に親を悪者にできたことでしょう。
(まぁこの時代は今とは遥かに時代が違いますし貧しい人は圧倒的に貧しく、更に言うと人権という概念すらない時代なので、子供を売りに出す=毒親だ!と現代人の価値観で一刀両断して良いのかとも思いますが…。)

また、彼女を買っている侍たちも、まぁ見るからに不快感MAXに思わされる描写ではありますがちゃんと客として報酬を支払ってはいるという点に関しては単純に彼らに一方的にヘイトをぶつけることもできません。
仮に私が偶然あの場に出くわし、憤慨し、彼奴らをぶん殴って撃退したとしてそれで困るのは侍たちの方ではなく収入を失ったミオの方ですからね。
あとついでに言うとミオを間者と勘違いして子供達を惨殺したことに関してもただでさえMAXに達していた不快感が不快を通り越して殺意を覚えるほどですが、冷静に考えてみると侍である彼らもただ主君の指示で動いているだけ、今で言うところの社畜サラリーマンみたいなものなのでどれだけ憎たらしく思ってもこいつらを責めても仕方ないよな、というのが現実なんですよね…。

彼女が保護している子供達は言わずもがな、戦に巻き込まれたせいで身体的障害を抱えている子が多い…というかそもそも皆年齢的に働きに行けるような年齢ではありませんし、またミオの仕事を知っているわけでもない(というか皆まだ幼すぎて具体的にどういうことをしているのかすら分からなさそうです…)のでミオ一人に重荷を押し付けるなと子供達を責めることもできません。
そもそも彼ら彼女らは戦の被害者なのですから。

見るからに「不快」かつ「怒りや悲しみ」を植え付けられるエピソードであるということ。
にも関わらず、明確な「加害者」がいないので誰も悪くないし悪者にもできないということ。

その二つの相反する事象こそがまさに自分の中での(というか恐らく私だけでなくこの回を視聴した多くの視聴者たちにとっても)モヤモヤ=認知不協和の原因となっているのだろうな、と思います。

以前ハマって見ていた、目黒蓮さんと川口春奈さん主演のsilentというドラマで「誰も悪くないのが一番辛いんだよね」といった台詞がありましたが本当にその通りですよね…。
誰かを悪者にできたらどれほど気分が楽に済むことか。
個人的にはミオよりもまだ百鬼丸側の方が、醍醐景光という視聴者からのヘイトを受け入れてくれるポジションのキャラを用意してくれているだけ、気持ちの処理としてはぶっちゃけ楽でした。苦笑

あと、まだ彼女が、自ら選んでその仕事をしているにしても「生活のためと完全に割り切っている」、なんなら「男って馬鹿だよね的なことも言えちゃうような強かな女性」であったとしたらやはりここまでモヤモヤすることはなかったと思うんですよね…。

ミオの言動を見ていると、同性であり(きっと彼女はどろろの性別をちゃんと見抜いていたからこそ、あのような立ち入った話ができたのだと思います)かつ自分より年少のどろろに対しては私は自分のしている仕事を恥ずかしいことだと思っていないよと毅然と言ってのける一方で、
異性で同年代である百鬼丸の前では、着物の露出を隠そうとしたり私の魂は汚れているよね…と自虐的と見られる思いを吐露するという沢山の矛盾を抱えたキャラなんですよね。

上記のように男って馬鹿だよねと割り切って強かに生きていこうとするにはミオは恐らくまだ幼く、また彼女の人となりを見るに本来は育ちも良く(経済的な意味ではなく、ちゃんと両親からまっとうに育ててもらったのだろうという意味です)こうした戦の世でさえなければ決して身売りをするようなことにはならなかったのだろうと思います。
百鬼丸の心の目から見た彼女の魂の炎も汚れのない真っ白なものでしたしね。

めちゃくちゃ長くまどろっこしい文章になってしまいましたが、要するに、

  • 特定の誰かを悪者にできないこと

  • 本人が自らすすんでその仕事をしてはいるものの、年齢的にもまだまだ未成熟な少女であり世の中の全てを割り切って考えることができないという矛盾を抱えていること

…の2点に関して自分の中でのモヤモヤが積もりに積もって、この回は自分にとってのトラウマ回なのだろうな、と思います。
たくさんの矛盾と葛藤が自分の中にあり、うまく感情を処理できないんですよね…。
このnoteを書こうと思った理由も、自分の中の心理状態を言語化することによって少しでも自分の気持ちの整理をつけたいな、という個人的なものです。
(なのでアニメレビュー的な感じの記事とはちょっとかけ離れた内容かもしれません…。そういうレビュー系な内容を求めて見に来られた方には申し訳ないのですが。汗)

アニメ=分かりやすい方が受ける、という概念を越えて

一般的な概念としてアニメや漫画は娯楽です。
娯楽に求められるものといえば日常生活の煩わしさを忘れさせてくれること。
つまりはストーリーやキャラが見ていて分かりやすかったり、明確な悪役がちゃんと用意されていてきちんと主人公達が悪を裁くという分かりやすさや爽快感というものが重視されるものだと思います。

ただ、漫画やアニメの世界では明確な悪役というものは存在していても、現実の世の中というものはそんな分かりやすいものではありませんよね。
どろろという作品、特にこの平成リメイク版のアニメでは明確な悪役というものが存在しない、一人一人が自分なりの思いを抱いて生き自分なりの信念を持って戦っている、ということが一貫して描かれています。
(上の方で景光がヘイト役を買ってくれている、と述べているのと少々矛盾はしてしまいますが、我が子を鬼神に捧げるという親としては鬼畜の所業を行った彼でさえも「国を背負う領主としての立場」から見ると一概に悪と切り捨てることはしにくいんですよね… 。)

なので、確かにこの作品を見ていてモヤモヤとすることや時に不快に思うことはありますすが、不快といってもそれは人が人として生きていくことのリアルを突きつけられているからこそ自分の中で沸き起こるモヤモヤとした感情=認知不協和的なものであって決して作品自体への不快感ではありません

むしろ、(別作品になりますが)遊郭という場所が出てきたり女性キャラの入浴シーンがあるというだけで一部で炎上してしまうような今のこの世によくぞここまで「容赦のない」作品を作り出してくださったなぁ…と、制作スタッフにはただただ畏敬の念しかありません。
そもそも身体欠損キャラを主人公としたアニメを世に出す、という時点でそういった覚悟を強く持たれていたのだろうな、と思いますね。

また、「守り子唄の巻」に関してもミオを単に「悪い大人に搾取されている完全なる被害者」として描かず、いろんな矛盾や葛藤を抱えながらも彼女なりに必死に生きていたという等身大の一人の少女として扱っているのも、むしろミオというキャラクター、ひいては過去現代を問わずいろんな事情を抱えて生きている女性全体への配慮を感じますね。

現実の世の中は沢山の不条理を抱えつつも、明確な「加害者」というものが存在しない(だからこそこの世は残酷である)ということ。
身売りをして生きざるを得ない女性を「可哀想な被害者」という一面だけで描かず、等身大の一人の少女として視聴者に向き合わせたこと。 
以上の2点から、アニメスタッフの真剣さ、視聴者への真摯さを深く感じ取った回でした。
後者に関しては特に、後にこの2話の脚本がシリーズ構成の小林靖子さん=女性の方だったと知って成る程な、と納得したものです。

(少し話が逸れてしまいますが、以前私が読んだとある漫画で、主人公の少女が両親を亡くして娼館で働くことになるのですが、そんな彼女に対して
「私達の仕事は身体を売ることでも心を売ることでもない、夢を売ること。何も恥ずかしく思うことはないよ。でも、人に夢を与えた分だけ自分の夢も少しずつ失っていってしまうからあまり長くこの仕事をしていてはいけないよ」
と職場の先輩が優しく諭していた描写が印象に残っています。
今は女性の権利を守ろうと世の中が動き始めているところですが、女性の権利について考える上で、そうした性風俗で働いている女性達を一概に「可哀想」とレッテルを貼ってしまうのもまた当事者の女性達にとっては思い上がりだと受け取られてしまうかもしれませんし、女性を守ることとそうした性風俗産業の兼ね合いというものは難しい問題だな…と思いますね…。)

誰かの犠牲の上で成り立つ平穏は「本当の幸せ」ではない

何度か繰り返し述べていますが、この作品の時代は室町時代の後期。
今の時代からすれば貧富の差が非常に激しく、識字率も低く、人権という概念自体がまだない時代です。
そのような時代を背景としている作品に対して、国民の殆どが学校に行くことができ字の読み書きができ衣食住にもさほど困ることのない21世紀の社会で育った現代人の価値観でとやかく言うものではないのかもしれません。
けれども、その上で自分なりに考えたことを言わせていただきますとそれでも誰かの犠牲の上で成り立つ平穏は本当の幸せではない、と思います。
そしてそれは、作中でも百鬼丸の身体と引き換えに豊かな国となった醍醐の国が辿ることになった末路を見ても考えさせられることなのではないでしょうか。

ミオは確かに誰かに強制されて身体を売る仕事をしていたわけではなかったかもしれません。
けれども、この戦で荒れた時代でなければ、あえてその仕事を選んではいなかったことでしょう。
力仕事に不向きな女性の身であっても、字の読み書きさえできれば昼の仕事でも他にまっとうな稼ぎ口はあったはずです。
そうなると、アニメの視聴者という目線で見ると彼女にその仕事をさせた明確な「悪役」こそいなくとも、やはり彼女は「戦乱の世における無辜の民であり戦による犠牲者」なのだと思います。

だったらどうすれば良かったんだ、もっと稼ぎの良い仕事でもあれば良いけど他になかったらミオも子供達も飢え死にするしかないじゃないか、と言われると正直困ります。
私にはどうすることもできません。
ただ、それでもいくらミオという少女の持つ魂が素晴らしいものであったとしても身体を売って生計を立てていたという事柄自体を美談としてはいけないなと。
そういう時代だった、といえばそうなのかもしれませんがだからといって仕方なかったんだよね、とは済ませたくはない、というのが同じ女性である自分の考えです。

ミオという一人の少女が必死で生きていたという事実を決して忘れてはいけない。
「可哀想な被害者」と一方的にレッテルを貼るようなことはしない。
けれども、彼女は紛れもなく戦乱の世による犠牲者であり、誰かの犠牲の上に成り立つ平穏は本当の「幸せ」ではない。
(そしてそれは物語終盤でどろろが至る「侍に頼らない国を作るんだ」という未来への希望に繋がっていきますね)

以上が自分なりにこの回のモヤモヤ=認知不協和に向き合い考え出した結論です。

どろろはミオを「(決して身売りはしなかった)おっかちゃんも偉いけど姉ちゃんも偉いよ」と励まし、ミオもそんなどろろの言葉に少しでも救われるという描写がありますが、
確かに自分の身を売ってまで幼い子ども達の面倒を見ている彼女は本当にまだ年齢的には少女の身でありながら子ども達の母親としての役割を全うしていたのだろうな、と思います。
ですが、その一方で子ども達の面倒を見ることで、この子達を守るために自分は生きねばならないのだとなんとか心を奮い立たせて自分の生きる糧にしていたんだろうな…と、どろろやミオよりも遥かに歳上の女性としてはそういう思いも抱いてしまいますね…。
あの時代、ミオのようないろんな矛盾や葛藤を抱えながら生きていた女性たちはけして少なくなかったのでしょうね…。

そんな彼女のような女性たち、少女たちがこの時代にたくさんいたということ。
現代を生きる私達には過去の歴史をどうすることもできませんが、そういう歴史があったんだな、そうして生きていた人達がいたんだな、ということを忘れず心のどこかに留めておくというだけでもきっと大切なことなのではないかな、と思いますね。


視聴者にとってもこの5・6話は非常に辛い回でしたが、初めて知った人の暖かさを喪うという、百鬼丸にとっても本当に辛く永遠に忘れることのできない出来事だったと思います。

人の暖かさを知るということは、それを喪う苦しみを知るということ。
そして、奪ったものへの怒りや憎しみの感情とも向き合っていかないといけません。
それが「人の心を宿す」ということであり、作中で最後まで掲げられていた百鬼丸というキャラクターのテーマとなるものだったと思いますね。

そして、この作品において百鬼丸と並ぶもう一人の主人公であるどろろ。亡き両親やミオの女性としての生き様を見て、そして後に再会することになるイタチの「力だけじゃこれからの世の中は生きていけない、賢さも必要だ」という言葉を聞いて、何を考え、どう結論を出していくのか。

そういった点も踏まえて、また今後も再視聴を続けていきたいですね。
またまとめて何かしら感想を書きたいな、という回がありましたらnoteに書かせていただきたいと思います。

長くなりましたが、ここまで読んでくださりありがとうございました。

*推しぬい百鬼丸制作に関する記事はこちら↓になります



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