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山形県村山地方 ムカサリ絵馬

時代の変化によって人々の幸せの形も変化する。つまり価値観が変わる、ということだ。この数十年で、人々の価値観はガラリと変化した。例えば結婚観。

筆者が子供の頃、まだ離婚は珍しく、学校で両親が離婚した子供は「かわいそうな子」で、腫れ物に触るような扱いだった。今では離婚は当たり前で、バツイチどころかバツ2くらいはザラに聞くし、むしろ離婚歴が「結婚生活の厳しさと破局を経験している」証拠であり、勲章のようにもなっている場合もある。そういう筆者もバツイチだが、子供の頃は自分が離婚するなんて思ってもいなかった。

もちろん結婚を合意したときも、挙式のときも、一応は永遠の愛とやらを誓ったのは間違いない。筆者はクリスチャンではないが、宗教的なタブーは無いので、元妻の要望を最優先してキリスト教式で挙式した。場所は南青山。思い出すだけで貧血になりそうだが、この今風(当時もSNSはあったけど)に言えば「映える」場所、日本中の映えを集めてきたような南青山という街の教会で挙式した。その極度の緊張のためか、筆者は式の最中に笑い上戸を発動し、一同を凍りつかせた。牧師さんは怪訝な顔をするし、ブライダルプランナーさんには「泣く人はいるけど笑った人は初めてです」と言われるし、参列者も「新郎笑ってるよ!」と唖然としたという。元妻がさほど怒らなかったのが幸いだ。そもそも筆者は、親戚の葬式で突然、笑いが止まらなくなった前科もあるのだから、これは一種の病気かもしれない。

そんなハプニングはあれ、両親に結婚式に参列してもらえたのは良かった。その数年後に離婚したとはいえ、円満に協議離婚したわけで、何ら後腐れはないのだし、良い経験だと割り切ればいい。

別に、親のために結婚する訳では無い。また親の意向ばかり気にして結婚してもうまくいかないだろう。しかし、人間は当たり前ながら自分一人で生きているのではない。親から生まれ、その親も親から生まれ…を人類開闢以来、繰り返しているのである。結婚は当人同士の自己満足ではないだろう。みんなにとって喜びなのである。そんな考えは古いのだろうか?

どちらにしろ、親にとって子供の結婚は喜びなのである。中には相手が気に入らない、という葛藤があるかもしれないが、子供の幸せな結婚を願わない親はいない(と思う)。

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子が親より先に死ぬのは最大の不孝、と言うけれど、今も昔も、何らかの事情で子供が夭折することはある。不孝だと言われても、それは自然の摂理である。いつか人は必ず死ぬ。しかし親としては、せめて子供が独り立ちして、またこの世の幸せを味わって欲しかった、と想うだろう。かつて結婚して世帯を持つことが人々の人生の大きな区切りであり、幸せであった時代があった。今はどうだろう。人々の「大人」ヘの区切りと、幸せは何なのだろう。

平成から令和に、時代が変わった月のこと。筆者は山形県に旅行した。山形新幹線の車窓から見る山々は、すっかり雪が溶け、新緑が瑞々しい。山形駅で友人のS君と待ち合わせ、レンタカーに乗り込む。S君は心霊スポットが好きだと言う。心霊スポットとは違うけど、山形県で前から行ってみたかった場所があったので、村山地方に向かう。

山形県の村山地方を中心に、死後婚の習慣があることは知っていた。つまり、未婚のまま死んだ若者に、せめて死後の世界で結婚してもらおう、というもの。そのために、村山地方の寺には

ムカサリ絵馬

と呼ばれる絵馬が奉納されているという。

ムカサリとは、結婚のことを言う。

ムカサリ絵馬は、亡くなった子供と、死後婚の相手との祝言の様子や、冥界での幸せな家庭生活の様子を描いた絵である。また絵とも限らず、合成写真もあるという。

ここで、重要なルールがある。死後婚の相手は、架空の人物でなければならない。もし実在の婚約者、恋人その他の人物を描いたら最後、彼、彼女は冥界に連れていかれるという。

ムカサリ絵馬には、そんなおどろおどろしい伝承も付いている。が、本来の趣旨は、親が子の幸せを願う気持ちなのだから、不気味なもの、怖いものでは無い。とはいえ人の純粋で強い気持ち、とは、ときに怪異をひきおこすこともある。とにかく目的地の寺は山の中。暗くなる前に拝観しておきたい。夕闇の迫る中、山中のつづら折りの山道を急ぐ。

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山道をずいぶんと走った気がする。深い山中に、看板が現れた。砂利道の入口で車を停めて、少し歩くと、そこが目的地。

最上三十三観音札所 小松沢観音

山中の、重厚な山門にまず圧倒される。大きなワラジがかけられている。

そして、本堂もまた重厚だ。こんなに重厚な木造建築を見た覚えはない。雪に耐えるためだろうか。

そして、この本堂の中に、ムカサリ絵馬は奉納されている。風雨と雪から護られるように。

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とにかく、この絵馬の数に圧倒される。中はほのかに暗い。S君も絵馬を見上げて、言葉がないようだ。

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ロウソクを使って万一、火事を起こしては大変だ。スマホの灯りを頼りに絵馬を拝観する。

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古い時代、比較的新しい時代、それぞれの時代の流れが絵馬を見れば一目瞭然である。和風の祝言を描いたもの、洋風の式を描いたもの、家庭生活を描いたもの。

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新郎新婦だけが描かれたものもあるが、古い時代のものは概して登場人物が多く賑やかである。

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絵馬は、専門の絵師さんがいるという。本来は巫女が死者と交信して、本人の希望(配偶者にしたい異性の好みなど)を聴いて描くのだそうだ。しかし厳密な作法はおそらく存在しないのだろう。実在の人物を配偶者にしてはいけない、という掟以外には。

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お堂の側面。

冬には雪に閉ざされるこの地に、今もムカサリ絵馬は奉納され続けている。学者の中には、戦後の科学万能、家父長制の崩壊しつつある時代にこの風習は廃れるだろうと予測した者もあったという。しかし、いまも風習は生きている。時代が変わり人々の価値観が変わっても、親が子の幸せを願う気持ちは変わりようがないということか。

いや、そんな甘い話ばかりではないのかもしれない。家制度華やかな時代、家の断絶は個人の死よりも忌避されるべきと考えられていたのだろう。家督を継ぐべき男子が死ねば、家が絶える。その絶望を癒したい(霊魂が冥界で結婚して家長となることで代償となる)気持ちや、また夭折の無念が怨念となることをおそれ、死者を慰めることで鎮めようという気持ちも否定はできないだろう。戦前、筆舌に尽くしがたい飢饉や貧困、病気、戦争。死はいつも人々の隣にあった。今でもそうだ。ただ人々は、いつも近くにある死から目を逸らし、見ないふりをしているだけかもしれない。そういう時代なのだろう…それでも近親者、それも長生きすべき子の死を受けいれ、向き合う決意をしたときに、死後の幸福を祈り、ムカサリ絵馬を奉納するのかもしれない。

現地は、最上三十三観音札所として人々の尊崇を集め、大切にされている寺院なので、敬虔な気持ちで拝観してほしい。また、中にはライトが設置されていたと思うが、火気には十分注意してほしい。山の中なので、熊も出るかもしれないから、念の為注意すべきだろう。

ムカサリ絵馬はおどろおどろしい印象で語られがちだが、決して恐怖すべきものではない。実在の人物を描いてはいけない、というのも、生きている人間を死者の配偶者として描くことで当人に衝撃を与えることが考えられるし、例え婚約者や恋人であっても死者への義理立てを強いるようなことをして、その後の人生に影響してはいけない、という当然の配慮によるところが大きいと思われる。


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