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勝手に超越体験(1)告白・超越的体験とクオリアと超弦理論についての持論

現段階で、脳科学的にも、心理学的にも個人の脳内で体験したことは客観的真実として共有することは難しく、またトランセンデンタル体験というのは、再現性がなく起こることが稀であるという認識に位置しているようです。ただし、その体験は、個人にとっての「真実」の体験であることは間違いなく、それは、ストーリーとして語られたとき、個人の真実の物語になるといわれているようです。 現代、インターネットの普及により、多くの人が語り始めており、まったくの同一なビジョンではないにしろ、共通項が見られることがあるため、知識人が認識しているよりもっと多くの人が同様の体験をして、人生に何らかの影響を与えており、その人が他の人生に影響しているのではないかと思いついた。

私の場合・・・始まりはここだった。

===31年前、私は突然恋に落ちた====

初めての彼氏。 でも一歩も二歩も大人の階段を先に上っていた相手とは明らかに温度差があった。一人で恋に落ちた。

もちろん彼氏彼女的な距離感であって、互いに好意をもって二人で過ごした。 ただ、違ったことはといえば・・・・好意は受け取れたのだが、愛がわからなかった。

苦しかった。苦しかった。

「こんなに愛しているのに」

「こんなに愛しているのに」

「こんなに愛しているのに」

「・・・・」

そこで、ふと。。。。

あれ?「こんなに?」って
私、彼に頼まれてたっけ??

私の自問によって「カチっ」と脳内でシフトチェンジが起きた

「愛してるって何?」

コミックや金曜ロードショーでしか見たことのないような愛。角川文庫のセーラー服と機関銃のドラマチックな大人への階段をのぼる愛。そんなのしか知らなかった。

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その問いが生まれてから、彼氏に対して発する自分の「愛」が何なのかわからなくなった。私は彼から愛されなかったら彼を愛さないのか?
今、彼から愛されていないことよりも、そもそも「愛」ってなんなのか?に大きな疑問が生まれた。親子の愛、恋人の愛、友愛と、至上の無償の愛は何が違うのだ・・・と

「愛とは何ぞ哉」

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しばらく、愛について模索していたが、その集中力によって、彼との時間がただ単なる不安の状態から歪み始めた。
そして、ある日その不思議な体験は、専門学校のある授業中に起きた

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風変わりな英語の担任は、怪談話が得意で、週1の30分だけ、不思議話をして2時間授業をこなしていた。その日は、幽霊話ではなく「タイムマシン」の話だった。

K先生「知ってるか?みんなこの世が3次元の世界だというけれど違う。みんなは時間のある空間に生きている。でもまだ人間は時間をコントロールをすることができない。それでも、地球上の時間の進み方と宇宙での時間の進み方が違うことはしられているが。とにかく自分たちは生きている世界に時間という概念があるから、ここは3.5次元なんだ」という話から「タイムマシンは計算上過去には行けるらしい。それは常に一秒前しか行けない計算になるという。(当時も今も誰がその理論を言ったのかわからないし、どちらにしろ難しいので割愛)」と、今までのK先生とは趣向の違う話だった。確か45年前も4次元の世界ブームがあったが、結局、怖くて試せなかった「サカミネテンニョ」という呪文を白い壁の前で4回唱えると鈴の音が聞こえてきて、4次元存在が迎えに来てくれるというのだ。

45年近く経つ今でも忘れられない呪文の不思議。二十歳になった私は、突然「タイムマシン」という言葉を聞いて、押し入れの奥そこに置き忘れた子供の時の宝箱を見つけたようなトキメキを感じた。

K先生は続けて「1次元は線、2次元は面、3次元は立体、4次元は時間、で、5次元はどういうのだったかな・・・」と、話を続けたが、そこで5次元の定義を度忘れをしたようだった。

その時、ふと私の口から「形(物体)がない世界じゃなかったですか?」と、子どものころに読んだSFの物語が思い出されて、飛び出した。

私の姉が持っていた、眉村卓のSF小説が好きだった。その中に「5次元の世界」というそのまんまのショートストーリがあったのを思い出した。人間が形を持たない宇宙人に侵略されそうになるという話だった。要するに「意識」と「思念」の次元世界の宇宙人ということになる。先生の疑問形に咄嗟に答えた私に、先生が納得するように「そうそうそう・・・」と返事をしたその瞬間、私の意識がフーっとすべての音とともに視界ごと消えていった。

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何も聞こえない何も見えない

「目」で見ようとしている自分がいるのもわかるし、何も見えないといっても、闇の中にいるがわかる。目は見開いているようだった。

それでも、何も見えない。音もない。影もない。この暗闇を見ている私はどこにいるんだろ? 我に返って、ここはどこ? 体はどこだ? と体があるはずだという意識が働いて、感覚のない自分の腕を動かしてみる。どこで動いているかわからない。動かしている気にはなってる。

私の腕

何度か腕を振り回している感覚が戻り、残像のようなものが「目」の前を横切った。 腕が見えた。

腕。 見えた腕は透き通っていた。(その数年後に作られた「千と千尋の神隠し」で千尋が半透明になっていくシーンを見たとき、その感覚がリアルによみがえった。)

そして、透き通った腕が認識できるとその腕の先を見ることができるようになった。

一気に膨張したとしか思えないほど果てのない巨大な空間が広がっているのがわかった。

どこかで【はじめ人間ギャートルズ】のエンディング曲が流れはじめた・・・ような気がした。または、自分が唄っていたのかもしれない。そのぐらい 何にもなかったのだ。


「なんにもない、なんにもない、まったくなんにもない
生まれた生まれた何が生まれた。星が一つ暗い宇宙に生まれた」

【やつらの足音のバラード】アーティスト ちのはじめ

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次回へ続く

これは「告白・超越的体験とクオリアと超弦理論についての持論前置き」からの続きです

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