禅の思想を読んでいる
鈴木大拙禅師の本は難しいが、面白い。
漢字ばかりで読めていないはずなのに、楽しい。
哲学者であり禅師であり真宗の信徒なので、言葉が豊富で、それこそ専門用語なのか、アリストテレスのように造語なのかもよく分からないものまである。
解らないからよいような気もする。解らないようにしか伝えられないのが不立文字なのかもしれない。
「解ったか?」と問われて
「解った」と答えてると
「おめでとう」といわれたところで、なんとなく暖簾に腕通し。糠に釘だろう。
たぶん「分からない」と言い続けて学び続けることしかないのだろうな、と思う今日このごろ。
ソクラテスの「無知の知」がそこらしい。
「知らない、ということを、知った」というメタ認知ができる心理的発達はそこから「知りたい」という欲求を生み出すのだという。
知ってると思えば、知ろうとしないものなのだ。
そして、禅は本人の体験によるものでなければならない。知ることは体感すること。
頭で考えてたことと、実際に起った時のギャップを考えると体験知は大切なのだ。
それでも、こちらから話して自分の体験したことを「当たってるか?」と聞いたところで
たぶん「わからない」と聞かれた方は答えるだろう。
同様の体験をした人の話だと共感を持ってもらえるのだ。
それでも邪道や脇道がある
迷い迷いて、たどり着いたと思わせる道らしい。
そこを、行き着いた先人たちに学ぶことが大切だと言われるのだけれど、たぶん、体験の仕方はそれぞれ違っていいのだという矛盾が起きる。
でも、今はなかなか正当な和尚さんで「私は悟った」と公言できないようだ。
神秘体験のように崇め奉られる新興宗教と同じになってしまうかもしれないからだ。
しかし、座禅をしてれば行き着いてしまうのだから、そこは正直に言ってもらってもよいと思う。
「証拠人に立つ」という先達の役割はあるようだ
八万四千もの道がありそれぞれに先人がいるのかもしれないが、なかなか、自分の悟りに証拠人として立ってくれる人と、うまい具合に出会えるものではないと、「盤珪禅師」は言い残している
「だから私は毎日民衆の前に立って説法をする」というのは、とても親切な和尚さんだと思う。
「どんな人でも悟ったと思う人はいいに来なさい。私が証拠に立ってあげよう」と言ってくれたのだ。先生というものはそういうものであって欲しい。
その点、白隠禅師は、厳しかったようで、江戸時代から座禅の時の警策は「愛のムチ」として使われていたらしい。
盤珪禅師はそんなモノはいらない、と考えていたらしい。時代なのだろうか。。
今の時代も、学校は校長先生によって校風が変わるのだから、白隠禅師の修行がよいと思えばそれに従うしかない。
今の御時世はどちらかというと、盤珪禅師のほうがあってる世なのかもしれない。
間違ってもいい、話を聞きに来るだけでもいい
ただ、いつかすべて「不生の仏心」だと気づけばよいと、言ってくれる。
やっぱり生きる仲間はほしい。
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