「期待と、優秀と、あるがままと。」~はじめての #note感想文

あかしゆかさんが書いたnoteを久しぶりに読んだ。

1年くらい前、noteという場所がより多くの人に読まれ始めたころ、素敵な文章を書いて、たくさんの人にnoteを読まれていたのが彼女だった。

彼女の文章は、自分の考えたことや感じたことを丁寧に一生懸命、文章にしようとしていることが伝わってくる感じがしてすきだった。彼女が人生を歩いている足音が聞こえてくるようですきだった。

だけどいつからだろう。彼女の文章を読むのが少し疲れると感じるようになってしまった。僕の心がたくさんのものごとや周囲が押し寄せる要求や見えないルールに翻弄されて疲れていたこともあるのかもしれない。

彼女の文章を読むと、ちょっぴり「疎外感」のようなものを感じるようになった。

彼女が書いていることは、相変わらず素敵だった。そしてその内容は正しそうなことだったりした。だけどそれに僕は共感ができなくて。それに対して多くの人はそれが素敵だと言っている。

AかBのどっちかだけが正しいという話はされていなくて、素敵だって言っている人もそんな意図は全然ないはずなのに、なぜだか僕は少し窮屈だった。

みんなが素敵だって思う価値観と、そこからずれた自分の価値観の距離が可視化されてるみたいだった。「人は人、自分は自分」なのに、何か引っ張られるようなエネルギーを感じてしまい「人は人」とは思えず、ちょっぴり苦しくなる自分が顔を出した。

会ったこともない人をそんな風に思う自分がなんだか嫌だった。失礼な感じもした。何日かたっても、何度か他の文章に触れてみても、その気持ちは変わらなかった。このことは誰にも言わずに胸の中にしまった。

そして、シャットアウトするようにTwitterのフォローを外した。
(厳密にはブロックをしていないので、いいねがタイムラインで流れてきたけど、さすがにブロックはしていない。)

中学生くらいまでの僕の話。

テストでいい点数を取ることも、やりたいことを見つけてそれに全力で取り組むことも、そこで成果を出すことも──俗にいう「いい子」「扱いやすい子」「バランスがいい子」でいることは、私にとって全然難しくなかった。求められることは快感だったし、むしろ、そういう自分のことが好きだったかもしれない。

この一文を読んで、対称的なかつての自分を思い出した。小学校や中学校の自分を思い出す。僕はテストでいい点数を取っていた、全力でいろんなことをしてスポーツで人より上位になったりした。

だけど、達成感や喜びはそんなになかった。なぜだか「虚しさ」があった。先生に褒められても、自分が褒められた嬉しさより、それと比較して下位のような扱いをされる誰かがいることの方がなんだか気になった。「こっちが正解だ」って、「正解がある」って決められているようで、自分が立っている場所が窮屈ま一本しかない道に思えた。

それでもなんでやっていたかっていうと、文句を言われなくてすむからだと思う。期待に応える喜びを得たい気持ちより、下回ることで怒られたり失望されることの怠さを避けたい気持ちが増さっていた。だから、何かができた時、達成感より安堵の感覚の割合の方が大きかった。

とある日のことを思い出す。

テストで思ったよりも自分の点数が低くて、「この点数じゃだめだなあ。」と僕は言った。それは僕がかけられる期待を確実に下回る点数だった。
すると、同じクラスの女の子が、「その点数でそんなこと言うなんて。」と心底悲しそうに言った。

彼女の目には僕が「嫌味を言っているやつ」に見えたんだと思う。

それが僕はとっても悲しかったのだ。僕は自分より点数が低い人を馬鹿だとか、優れていないだなんて、思っていなかった。人にはみんな自分のものさしがあって、自分のものさしで考えることがあたりまえだと僕は思っていた。(当時の僕は自分の価値観をみんなが共有するあたりまえだと勘違いしていた。そして、相対評価の影響やそこから生まれる感情を軽んじていた。)

それ以来、誰かにとっての正解や、誰かの期待に答えること、世間一般でいう優秀ってやつを体現することが、だんだん自分にとって嫌なことになり、その価値は自分の中でどんどん下がっていった。

何かができることで、自分と人との間に距離ができてしまうのが、さみしかったのだ。例えば、自分が大きくなって誰かによりそいたいって思った時、「君は成功してるから良いよね」とか言われちゃうんじゃないか、と思うと淋しくなった。

今でも思い出す。高校に入ってすぐ、塾の体験入学に行ったときに先生が目をキラキラさせながら「今からなら北大でも早稲田でもマーチでも目指せるんです!」と言ったとき、僕にはわくわくも、それに対しての価値や魅力も見当たらなかった。

そして、逆に教室の空気がふわっと少し明るくなった時、「自分はみんなとちがうんだ」って思った。社会の正解と自分が大事にしたいものの乖離を実感し、自分が社会から少し外れた位置にいるような気持ちになった。それ以来大学に入るまで勉強を全然しないですごすようになった。

それ以来僕は優秀であることや、誰かの正解を体現することをあんまりしなくなった。昔話が長くなってしまいました。
(大学に入ってから少し変化があった。)

期待に応えることと、生きること。

「他者からの期待」がガソリンとなり、それに応え、また期待を注がれ、応える──そうやってどんどん突っ走ってしまう。突っ走って、ちょっとしんどいなと思っても、自分でブレーキをかける術を知らないから止まることができない。そしてついにはフェンスに突っ込んで、潰れてしまう。

僕が出会ってきた人の中にもこういうタイプの人が何人かいる。大抵みんな優秀と言われていて、仕事ができるって言われている。あかしさんがそういう人だってことは知らなかった。

仕事ができる人は、「人の期待を満たすこと」が得意な人だと社会人になってから思うようになった。もっというと「誰かのエゴを満たしたり」「相手がかなえたい目的や利益」を叶えられる人だ。

そんな人たちは前提として人の期待値を読みとることがとっても得意で、それに応えたり、協力することが上手だ。そして同時にちょっぴり背伸びしているようで苦しそうにも見える。優先することや選択の違いに「うーん」と思わされたりする。

だけれど、なんだかんだ僕はそんな人が好きなのだ。自分よりずっと優秀って言われている人たちに僕がこんなことを言うのは生意気とか調子に乗ってるって思われちゃうかもしれないけど、そつなくて器用なようでありながら、実は不器用にも思えるその生き方が愛しいって思うんだ。

彼ら彼女たちは、「できた」「できなかった」を大事にしていて、「できなかったら自分は無価値だ」ってどこかで思っていそうな空気があって、僕はそんな彼ら彼女たちを「例えそれができなくたって、僕にとってあなたの価値がなくなることはないよ。」っていうような気持ちでながめている。そんな時ぼくはなんだか優しい気持ちになれるんだ。

それに大抵みんな自分よりスキルをもっていて、教えられることや刺激をもらうことがたくさんある。自分が避けたり、意味がないって思っていることを一生懸命やっている姿を見ると、自分が意味がないって思っていることも「なんか価値があるんじゃないかな?」「どんな価値があるんだろう?」って探しはじめることができる。だから、自分を豊かにしてくれている気がするんだ。

周囲からの期待や、無理やり曲げようとする心を手放すこと

年末年始、久しぶりに帰省をしないですごした。仕事を10日近く?あんなに長い間休むのも社会人になってから初めてだった。(正確には少しだけ家で仕事をした。)

ただ自分が自分であるがままに時間をすごした。半ニートのような生活だ。社会からも人からの期待からも解き放たれてすごした。すると本来の自分が戻ってきたような気がした。

僕は鬱みたいになっていたのかもしれない。あの年末年始以来、見えないルールに大きな窮屈さを感じたり、誰かの正解を無理やり自分の正解にしようと自分の心を曲げることをしなくなった。

それから僕は決めた。誰かに押しつけられることも、押しつけることもできるだけやめて、ただあるがままで在ろう、と。頑張る時も楽をする時も、自分のそんな状態をただ感じながら走ったり、ゆるめたりしてみる。

久しぶりに働いて最初の1,2週間は一気に色んな情報や仕事、人の期待がぶわっと入ってきて、「うっ」と自分をもっていかれそうになったけど、今はまた本来の自分に戻れてすごしている。

仕事やその他にもやることがたくさんあって、納期が迫ったり、時間が限られていて忙しい日々だけど、心はずっと健康でいれている。(体調は年始からしばらく崩れている)むしろちょっと不思議な感覚だ。

どこか避けていた、あかしゆかさんの文章も読めるようになった。今思うと、彼女の文章を読むのが辛かったのは、彼女の文章のどこかに潜んでいた彼女の苦しさが、その時感じていた僕の苦しさに共鳴して、鏡に写し出されるようで辛かったのかもしれない。

きっと今の私に必要なのは、自分自身の車にブレーキを設置して、それを踏む勇気を持つこと、そして、自分を動かすエンジンを「他者からの期待」ではなくすることなのだ、と思う。「期待」の呪縛から解かれなきゃいけない。そうやって生きてきた私には、ものすごく難しいことなのだけれど。

会ったこともない彼女のことを今僕はとっても応援している。「無理にブレーキを設置しなくてもいいからね。」「呪縛から完全に解かれなくてもいいからね。」って思っている。

呪縛が全て悪じゃないかもしれないし、それはそもそも呪縛ではないかもしれない。自分にとって心地の良い期待の量があるかもしれない。何が正解かはわからない。こう思うのも押しつけかもしれない。だけど正解もなければ、間違いもない気がするんだ。

ブレーキやアクセルで自分を制さなくても、自然体でスピードを出したり落としたりできるかもしれない。

今の自分も間違いじゃなくて、例え変わりたいと思った像の自分になれなくたって、ダメじゃない。いつだって人はちゃんと少しずつ変わっている。

自分が少しでも生きやすいように、少しでも幸せであれるように思えていれば、おごり高ぶったり、欲や悪意に流されなければ。

ありのままって言葉の響きは、甘えや逃げることのようにも見えるかもしれないけど、きっと一概にそんなことはない。自分が大事なことをちゃんと大事にしようとし続けたり、人を尊敬したり、愛したりできていれば、自然と人は大きくなっていくんだと思う。

感謝と応援の気持ちをこめて。

今日はnoteを書こうなんて全然思っていなかったのに、彼女の文章を読んでいて、ついnoteが書きたくなって書いてしまった。約4,500文字のこの文章を。

悩みながら地面に足をつけて、倒れそうになったり、立ち上がろうとする姿から元気をもらった。

ちょうど昨日電話していた友達にも同じことを思っていたんだ。友達と話終わった後、一生懸命生きる素敵さと自分もつらい気持ちになることがあっても向き合っていけそう。っていう勇気のようなものをもらった気がしたんだ。

感謝と応援の気持ちをこめて。


(執筆中BGMはaikoさん。夜の静かさと今の少しあたたかい気持ちにぴったり。今週末人生初のaikoのLIVEを観にさいたまスーパーアリーナに行きます。楽しみ。)

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