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18 伊能忠敬(TADATAKA INO)と学ぶ姿勢

今から、およそ200年前に現在の測量技術に引けを取らない高度な技術を用いて、精巧な日本地図を完成させた弟子たちがいました。この弟子たちを育て、自らの生涯をかけ地図をの完成に尽力した方こそ、今日のコラムで紹介する「伊能忠敬」さんです。

伊能忠敬の地図は、ただ正確というだけではありません。当時、はっきりとしない国土の形を明確にしたという点で、大変重要な功績を残しました。どこにどのような湾があり、海岸線はどのようにつながっているのか、といったことを知ることは海外からの脅威に対して備える必要があった江戸幕府にとって大変重要なことでありました。実際に、鎖国をしていた日本に対して、圧倒的な軍事力や先進的な技術を背景に迫る海外の脅威に対して、伊能図の正確な測量技術は、日本には高い測量技術があり、侮ってはいけないという印象を強く与えたほどでした。これは、地図により日本を守ったと言い換えることができる出来事なのです。

そんな伊能忠敬ですが、現在の千葉県にあります香取市佐原で前半の人生は、商人として才能を発揮します。佐原で過ごした33年間に大変な成功をおさめています。村の役人からの信用も厚く、地域の指導者的な立場であったと言われています。ですから、50歳で第2の人生だと判断し、学問を学ぶために隠居すると言い出した時には、多くの人に反対されたほどでした。この地には、現在も伊能忠敬記念館や忠敬の旧宅があり、忠敬について詳しく学ぶことができます。

注目すべきは、忠敬の学問にかける熱い情熱です。まず、50歳で天文暦学を学ぶために、20歳も年下の高橋至時(よしとき)という天文暦学の先生に弟子入りします。また、自宅を改造し研究室をつくり、幕府の天文研究を進める施設に負けないほどの高度な観測機材を自前で用意します。大変に高価なものばかりでしたが、商人として才能を発揮し、50歳までに財を成していた忠敬は、そこで得たお金を学問に投じたわけです。高橋至時の記録によれば、忠敬は大変に熱心に学び、高い教養と技術を身に付けていったそうです。74歳でこの世を去った忠敬ですが、当時は今よりも平均寿命が短い時代にあって、50歳から新たに学びを深めようというのですから、生涯学習の視点からも忠敬の人生観に学ぶことが多いのではないでしょうか。

ちなみに、忠敬が測量を始めたころは自費で進めていました。幕府からお金が出るようになるまでは、前半の人生で稼いだお金をつかっていたわけですから、ここからも商人としての前半の人生が重要に働いていることがわかります。伊能忠敬というと、地球一周分を歩いて測量したというエピソードから、一定の歩幅ですべて歩いて計測したという印象が強いですが、歩測といって歩幅で計測したのは、最初の一回で、その後は正確に測量をするために、鉄鎖という1本が一尺の鉄の棒が60本つらなった鎖のようなものを用いていました。そして、象限儀という天体の見える高さを角度で測る器具を用いて、緯度1度分の正確な距離を突き止め、地図作りに活かしていました。このように、最新の技術を用いて測量していたのです。

忠敬は、慢性気管支炎という持病をもっていました。この持病が悪化して、1818年に73年の生涯を閉じるわけですが、決して誰よりも健康であったというわけではない方だったわけです。1821年に「大日本沿海輿地全図」が完成したとき、忠敬本人は、この世をすでに去っており、残りの測量と地図の完成は、忠敬の意志と技術を継承した弟子たちがその偉業を成し遂げます。実際に伊能図を見てみるとわかりますが、忠敬が17年間測量し、すべてを手作業で書き進めていった地図のその大きさも正確さも私たちの想像をはるかに超えるものです。

不屈の精神で、学ぶことを心から楽しみ、自らの目標に向かって生き抜いた伊能忠敬ですが、生きるということに対して一生懸命であったという印象を私は強く感じます。資料が少なく、病死であるということまでしかわかりませんが、伊能忠敬は6歳で母を亡くしています。また、最愛の妻や娘とも死別する経験を何度も重ねています。天明の大飢饉、流行り病などなど多くの困難を乗り越えています。永遠の別れという経験が、強く生きるということの大切さや何かを成し遂げようとすることのできる幸せを教えてくれたのでないでしょうか。

学ぶことは、命を大切にすることです。命を大切にするということは、学び続けるということです。伊能忠敬の人生は、そのことをより鮮明に教えてくれているように教えてくれています。

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