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97 ねんどのパン屋さん

はじめに

子育てをしていく中で大変に難しくもあり、大切なのが好きな物を続けることをどう応援するかだと思いますが、いかがでしょうか。
我が子が、様々な学びに対して主体的に選択して、物事に関わることができたとしたら、どれほど親としてうれしく、安心できるでしょうか。
今日のコラムでは、そんな好きなものをどのように応援し、育てていくかについて少し自分自身の体験を踏まえてお話してみたいと思います。

幼い時の記憶

 これは、私が保育園に通っていたころの話です。両親は共働きでしたので保育園にいる時間も長く、毎日、少しくらい風邪をひいていても幼心に元気な顔して通っていました。そもそも保育園での時間がとても楽しく、毎日がとても幸せでした。
保育園の活動の中でも特に粘土の時間が大好きで、年中さんの頃でしたか毎日決まって粘土でパン屋さんを少しずつ作っていました。パン屋さんの建物を作って、棚を作ってと油粘土ですから、温かいと少し形が緩んでくるのでストーブのついている部屋ではなく、廊下の寒いところで作っていました。私の担当の野口先生は、そんな勝手な私を、風邪をひかないかどうかを心配しながらも許してくれていました。

私のパン屋さん

私の粘土のパン屋さんは、建物の中に並んだ棚に粘土のトレイが載る仕組みでした。トレイには、米粒みたいな小さいアンパンを20個、かにパンを20個、クリームパンを20個、フランスパンも20個と全部で14種類のパンを同じような大きさで、見た目も同じようになるように青緑の油粘土で作ってのせていくというものでした。
他の子どもは、作っては壊して、きちんと箱に詰めて片付けていましたが、私は作り続けていたので、粘土板のまま先生に預けていました。夏の終わりに始まり、年中さんの終わりまでかかってやっと完成したことを今でも覚えています。先生は、記念にと言ってフイルムのカメラで撮影してくれた写真をわざわざ写真屋さんで現像して何枚も私にくれました。

増えていた油粘土

私の保育園では、プラスチックの玉手箱のようなケースに入ったごく普通の油粘土を使っていました。子どもだったので、まったく気が付かなかったのですが、実は、毎日毎日、野口先生は私の粘土のケースに使った分だけご自分で油粘土を買い足してくれていたのです。
私が、その事実を知ったのは、油のしみた一枚の便箋を見せてもらいながら先生とお話しした、15年後のことでした。覚えのない油のしみた便箋については、後から母に聞きました。
ある日、母が参観に来て粘土10個分は使っていたであろう私の“パン屋さん”を見て感動したものの、他の子の粘土作品が1つ分なのを見て、おかしいと思い「ところで、あんなに粘土どうしたの?」と私に聞いたそうです。
私は「自分の粘土だよ。無くならないんだよ。」と答えたそうです。察した母は、きれいな便箋にクレヨンで、私の手を取り、“せんせいありがとう”と一緒に何枚も書いて、一番上手にかけたものを4つにおり「明日、粘土をしたら、箱にこの手紙を入れておくんだよ」と言ったそうです。
 

それから15年

あれは確か、大学生のころでした。教育実習で成人式に出られなかった私は、せめてお世話になった野口先生にだけでもご挨拶をしたいと考え、先生のもとを訪ねた時のことでした。
先生は、園長先生になられていました。お立場は違えど野口先生は、昔のまんまの笑顔で子どもたちと一緒に活動をされていました。私は近況を報告し、先生に感謝の気もちを言葉でしっかり伝えました。
先生は、同じ教育者を目指していることをとても喜んでくれました。その時、先生が宝物だと言って、見せてくれたのがアルバムにきれいに保存してある、私が粘土箱に入れた「ありがとう」の手紙でした。
私の物事への徹底したこだわりや夢中になって取り組む基礎は、毎日毎日、残りの粘土の量を気にして作るようなことがないようにと、ご自分で粘土を買い足してくれていた先生の心が育んでくれたのだと思います。

メッセージ

先生は、私に教育に携わるなら、このことだけは忘れないでねときれいな字で近くにあったメモ用紙に次のようなメッセージを書いてくださいました。
「好きな事に打ち込む時間をどう大切にしてあげたかは、5年後、10年後に確かな答えとして子どもの姿に見えてくるはずです。がんばってね。」
私は、つくづくいい先生に教わったことをかみしめ、再び大学に戻りました。先生ありがとう。

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